失策
公休…諸葛誕の字 太初…夏侯玄の字
前回のあらすじ
蜀軍が武功水を渡る中、劉徳は魏の本陣を混乱させるため放火を企てる。
しかし大雨により火は消え、計画は失敗。
翌朝、雨の中で郭淮と対峙したのであった――
「事情聴取だ。ついてこい」
郭淮の声は冷たく、命令に余情はなかった。劉徳は小走りに従う。雨はまだ細く降り続き、天幕の縁から滴が落ちるたびに水たまりがが小さく跳ねた。
広場に出ると、そこには拷問用の椅子に縛り付けられて座っている諸葛誕の姿があった。濡れた髪が額に張りつき、囚人服の縫い目から泥がにじむ。
「昨晩、なぜこいつを幕舎に入れていた」
郭淮が問い詰めると、劉徳は息を整え、厠へ向かった経緯を早口に告げた。雨粒が頬を伝い、答えるたびに声が震れる。言葉の端に必死さが滲む。
「そうか。ならよい。だが、兵を自分の幕舎に止めるのは軍律違反だ。今後、同様のことがあれば罰する」
郭淮は言葉を切り、視線を落とした。胸の奥で何かが冷えていくのを、彼は手のひらの震えで確かめた。
「お前自身の処分は、総司令官が帰られてから決める。覚悟しておけ」
郭淮の瞳が鋭く光る。劉徳は雨の中、冷や汗をかいていた。
(まさかあの暗闇の中で気づかれたのか?)
やがて郭淮は諸葛誕の縄を解いた。諸葛誕は立ち上がると、劉徳の方へ歩み寄り、小さく頭を下げた。
「公休、すまない。私のせいでこんなことになってしまって」
劉徳は申し訳なさでいっぱいであった。それに対して諸葛誕は笑って首を振った。
「劉徳殿。私はあなたがどんな人で、これから何をしようとしているのかは分からない。しかし、私が見た限り、あなたには何か大きなことを成し遂げる力がある。私とて、いつまでもここに留まるつもりはない。困ったときは、いつでも声をかけてくれ」
笑顔を残して、諸葛誕はゆっくりと立ち去った。
――山の中腹では、黄鈴が笠を被り、視界の先で広がる陣を凝視していた。武功水は増水し、濁流が岸にぶつかる音が低く響く。魏の主力は川岸に結集し、蜀軍は渡河を諦め、撤退している。笠の縁に落ちる雨粒をはじきながら、黄鈴は眉を寄せた。
(叔母さんの想定どおりには進まなかった。策は失敗に終わったんだ)
彼女の視線は、流れの向こうに点在する兵営へと戻る。昨日、月英から託された密書を強く握り、唇を噛む。
(もう一度、阿義に伝えなくては)
準備を整え、山を下る決意を固めた。
本陣のほうでは、劉徳が雨に打たれながら呟いた。手のひらに残る油の匂いが、失敗の証のように重くのしかかる。
(全てはこの大雨のせいか。それでも、自分が火をつける決断を下せたかどうかは分からない)
やがて蜀軍は完全に撤退し、司馬懿率いる魏の主力も本陣へと戻っていった。
途方に暮れていた劉徳は、医営のそばを通りかかった。そこには、治療を待つ兵が列をなしていた。血の匂い、布の擦れる音、呻き――雨音に混じり、緊張感が漂う。位の高い武官は優先的に中へ運ばれ、一般兵はたとえ重症であっても外に追いやられている。
(明らかに医者が足りていない。今こそ赤嶺で学んだことを生かすときだ)
「こんなところで待っていたら死んでしまうぞ!早く横になれ」
劉徳は医営の外で待つ負傷兵を手当てをし始めた。傷口を手で圧迫し、出血が止まらない時は、自分の服を破って止血を行った。他にも、医営から使われていない針をもらって、痛みを緩和させ、呼吸の乱れた者の背をさすった。
劉徳のおかげか、外で待つ負傷兵の数はだんだんと減っていった。
(特別な薬草や器具があればもっとよい治療ができるのに)
ある時、重傷の衛将軍・胡遵が運ばれてきた。矢が三本、深く刺さり、肉はすでに変色している。誰もが治療を諦めていた。そこで、負傷兵たちの噂を聞いた者が劉徳を呼んだのだ。
「劉徳ってあの蜀から降ってきた者だろう。そんなものにこの傷を治せるはずがない」
「とにかく一度治せるか聞いてみましょう」
劉徳は呼ばれて医営の中に入った。
「どうだ将軍を治すことができるか?」
「保証はできませんが、やれることはやってみます」
劉徳は真剣な表情で、薬草湯や鑷子など医営にあるすべてのものを活用して治療にあたった。
「あなたは焼きごてを、そこの人は先ほど言った薬膏を、あなたは絹糸と針をお願いします」
(本当に医者でもない若造に治せるのか?)
劉徳は小刀で壊死した部位を切除し、鑷子で鏃を丁寧に抜き、薬草湯で洗浄し、迎合まで行った。
翌日、胡遵は意識を取り戻した。それから劉徳は腕を買われ、医者として医営に従事することとなった。
数日後、魏の前線は本陣へと退却した。劉徳は一時、医営を抜けて陣の入り口に立ち、義弟たちの帰還を待った。父の形見の大剣を手にし、馬に乗った将軍が見えるはずだと目を凝らしたが、そのような人は見当たらない。やがて、列の末尾に縄で縛られた二人が現れた。劉徳は急いで駆けつけ、
「どうしたんだ、関興、張苞。一体何があった!
周囲は兵で取り囲まれ、近寄れない。張苞は短く首を振り、関興は視線を逸らした。
「兄上、すまねえ」――張苞の声がかすかに聞こえた。
劉徳は列の中から夏侯玄の姿を見つけ、濡れた肩を掴んだ。
「義弟たちは……なぜ、あんな目に?」
夏侯玄は顔を伏せたまま、低く答えた。
「劉徳殿。あの二人はこの戦で“蜀に復讐する”と言いながらも、敵の将を一人も討たなかった。それが理由で、蜀との内通を疑われたのです」
雨音だけが残った。
劉徳の唇から息が漏れ、次の言葉が出なかった。
やがて、彼は駆け出した。
陣の南へ。ぬかるみに足を取られながらも、ただ一つの予感を追う。
(きっと、月英殿から報せがあるはずだ)
矢を放ったあの大木が見えてきた。
大木のそばで、魏兵たちが数人、誰かを囲んでいる。
劉徳は歩を止めた。
こちらに引きずられてくるその姿が、次第に露わになる。
兜が外され、少し長い髪が濡れて光る――それは黄鈴だった。
劉徳の膝から力が抜ける。雨粒が頬を伝い、世界がぐらりと傾いた。郭淮の影が視界にふたたび立ち上がる。彼は口元を歪ませ、耳元でこう囁いた。
「審判を始める――」
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