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内応の計

前回のあらすじ

劉徳・張苞・関興の三人は魏へ虚偽の投降をし、策の準備を始める。

劉徳は魏の才人・夏侯玄らと交わりながら、密かに黄鈴の矢文を受け取り、月英の策を知る。

渭水の地形を読んだ黄鈴の読みどおり、司馬懿は北へ誘い出され、蜀軍の反撃が始まろうとしていた。

 蜀軍は武功水を渡り始めていた。本陣には魏の諸将が多く残されていたが、主力が引き抜かれたため、陣内は混乱に包まれていた。郭淮が大将として陣頭に立ち、迎え撃つ準備を進めている。

 軍議の席には魏の名将たちが並び、その中には張苞と関興の姿もあった。

「蜀軍が完全に渡河する前に迎え撃つべきです」

「その通りだ。橋頭堡を築かれたら厄介になる」

 関興らは軍を高地から下ろして攻勢に出るよう訴える。

「いや、ここは本陣を固め、総司令官からの援軍を待つべきだ」

 意見は分かれ、議論が紛糾した。


「こうしている間にも蜀軍は進軍している。これは急を要することだ。私はここに残って本陣を守るため、他の将は直ちに軍を率い、蜀軍と対峙せよ」

「はっ!」

 諸将は一斉に動き出し、出陣の準備を始めた。

「では、頼んだぞ、阿義」

 張苞と関興も軍を率いて出陣した。

 二人は敵に致命傷を与えることなく、なるべく目立たぬよう節度を保ちながら奮戦した。

 そのころ、劉徳は陣中を巡り、幕舎の位置や守備兵の配置、勤務の交代時刻まで、綿密に把握していた。


 やがて司馬懿は、諸葛亮の陽動に気づく。郭淮らを救うため、騎兵一万を派遣し、二十日にわたり姜維軍を攻撃した。しかし諸葛亮は対岸から矢を放って姜維を援護しつつ浮橋を築き、魏の猛攻を凌ぎきった。橋はついに完成し、魏の騎兵は退き、蜀軍はこれを撃退した。


 魏の本陣はますます混乱を極め、郭淮の顔にも焦りが浮かんでいた。

「ついにだ……ついに、この時が来た」

 劉徳の胸は高鳴っていた。ようやく、この屈辱の投降生活が終わる――そう思った。

(今宵、火の手が上がると同時に、蜀軍は夜襲を仕掛け、ここを壊滅させる)

 彼は守備兵が巡回を離れるわずかな隙を狙い、前もって用意していた油を食糧庫近くの天幕の布に静かに撒いた。

(こうすれば、火は瞬く間に広がり、本陣は大混乱に陥るだろう)

 その算段が頭の中で輪を描くと、像は突然ほかの光景へと変わった。あの夷陵の夜が蘇る──炎が風を巻き、旗竿が倒れ、うめく声が大地を震わせた光景。煙の匂いが鼻腔を突き、肌が焼けるように熱かったあの夜の断片が、今の暗闇に重なる。

(私は今、同じことをしようとしているのか……?)

 恐怖が胸を締めつけた。大勢の命が失われる。いや、私が殺すのだ。帰りを待つ家族がいる無辜の兵たちを――。

 月英の言葉を思い出す。これまで策はすべて順調に進んでいた。このまま遂行できると思っていた。覚悟もあるはずだった。だが、いざその時が来ると、松明を持つ手が震え、足が動かなくなった。

(私は何を得ようとしている? 私は何をしたくて、この行いに至ったのだ!)

 劉徳は空を仰いだ。あたりは松明の炎がかすかに揺れているだけだ。

 空を仰ぐと、雲の裂け目から北斗七星が覗いていた。どの星も流れゆく中、あの七つだけは、いつも揺るがず堂々としている。

(私もあの星のようになりたい。揺るがぬ決断を……)

 やがて北斗は厚い黒雲に覆われた。

「これは蜀のため、民のため、そして亡き父のためにやることなのだ!」

 劉徳はそう言い聞かせ、火をつけようとした――その時。


「そんなところで何をしている!」

 郭淮の声だった。

(まずい、見つかった!)


 劉徳は咄嗟に松明を地に落とし、闇の中へ駆け出した。松明の火は一瞬にして布に燃え移り、幕舎の端が激しく燃え上がる。

(これでよい。私の目的は果たされた……これで――)


 そう思った刹那、空が割れた。大粒の雨が地を叩きつけ、炎は瞬時に喰われる。陣の松明も消え、闇がすべてを呑み込む。劉徳は一歩、二歩と立つ場所を確かめるように動くが、計画は流され、手の中に残るのは濡れた油の匂いだけであった。


(想定外だ)──思考が途切れる。足元がふらつき、何かが崩れ落ちる感触が胸にある。


 大粒の雨が顔を打つ。右も左もわからず、遠くで雷鳴がとどろいた。

「私のせいで……すべてが失敗だ。全部、全部……!」


「何が失敗なのだ?」

 暗がりの中に人影が近づき、ぶつかる。顔はわからない。

「あ、あんたは誰だ」

「私は諸葛誕である。もしや、劉徳殿では?」

「な、なんだ諸葛誕か。驚かせないでくれ。こんな時間に何をしているのだ」

「いや、厠に行こうと思ったらこの大雨でな。困っておったのだ」

「そ、そうか。私も同じだ。奇遇だな」


 二人はお互いに肩を支え合い、幕舎へ戻った。

「とにかく中へ入りましょう。私の幕舎はすぐそこです。今夜はそこへ」

「恩に着る」


 ようやく幕舎に戻ると、諸葛誕は濡れた衣を脱ぎ、藁を敷いて横になった。

「寝台を使ってもよいのだぞ。義弟たちは出陣してしまったからな」

「いえ、私はこれで十分です。雨をしのげただけでも幸いです。今頃、大勢の兵士が眠っている天幕では、雨漏りしている事でしょう。それに、夜を共にするのは義兄弟だけのもの。私はここでよいのです」

「そうか……」

 寝台の縁に手を置く。指先に泥と油の匂いが残る。夜は長い。考えは巡るが、口にする言葉はない。外からは遠く、兵の足音と雨が地面を打ち付ける音が断続的に届くだけだ。これもまた天の理――そう己に言い聞かせた。


 翌朝。

 大雨はなお止まず、幕舎の屋根を打つ雨粒が絶え間なく響いていた。

 目を覚ますと、諸葛誕の姿はどこにもなかった。

 胸の奥がざわめく。嫌な予感が、雨音にかき消されながらも確かに膨らんでいく。

 幕舎の外へ一歩踏み出した瞬間、冷たい雨が顔に当たった。

 そのすぐ目の前に――郭淮が立っていた。

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