新・五丈原の戦い
前回のあらすじ
山中で魏軍を見張る黄鈴は、叔母である月英と再会し、劉徳へ渡す密書を託される。
月英は策の責任を背負いながらも、劉徳たちの身を守ると誓う。
黄鈴は渭水周辺の地形から戦局を見抜き、大木に矢文を刺した。
魏の陣にて
投降を許された三人には食料や防具が与えられ、一つの幕舎で共に暮らすこととなった。
「いやー、よかったよかった。これでようやく――」
幕舎の中に入り、関興が安堵の声を上げた瞬間、張苞が慌ててその口を塞いだ。
「おい、不用心すぎるぞ。この場所は監視下にある。聞かれたら厄介だ」
「そうかそうか、忘れていた。ありがとう兄貴」
「司馬懿はまだ我らを信じてはいない。しばらくは自由に動けぬと思え」
そう懸念しながらも、司馬懿は三人を厚くもてなし、歓迎の意を示した。
やがて張苞と関興は練兵所に招かれ、魏兵の訓練に携わるようになった。劉徳も陣中の行動を許され、魏の知識人たちと交わる機会を得た。
中でも劉徳と親しくなったのは、同い年の夏侯玄と、諸葛亮の従弟にあたる諸葛誕である。
二人はかつて朝廷で名声を馳せ、人望を集めた才人たちだったが、「四聡」「八達」と互いを称え合ったことが讒言を招き、董昭の弾劾によって失脚していた。魏の皇帝である曹叡もこれを軽薄な評判を持て囃す風潮として嫌っていた。
「今は左遷され、部隊も持てず、こうして一兵として従軍しているのだ」
諸葛誕が苦笑交じりに語ると、夏侯玄も頷いた。
「陛下は心が狭い。司馬懿殿も見て見ぬふりだ。志があっても、上が認めねば何もできぬ」
その言葉に劉徳は静かに耳を傾けた。彼らの境遇は、かつての自分に重なって見えた。
数日後、夏侯玄と陣の端で立ち話をしていた時、劉徳はふと南方に目を向けた。
この場所と秦嶺山脈の間に、ひときわ目立つ大木が一本立っている。
(おそらく、黄鈴はあの木を選んだはずだ)
胸の奥で確信が走る。劉徳は夏侯玄に向き直り、穏やかに言った。
「魏の弓は蜀のものよりも強弓だと聞きます。試しに少し射ってみてもよろしいですか」
「構いませんとも。こちらを」
劉徳は受け取った弓を引き絞り、矢を放つ。
弦が鳴り、矢は一直線に飛んで大木の幹に突き刺さった。
「さすが、噂に違わぬ弓の名手ですね」
夏侯玄が微笑む。
その後、劉徳は五本連続で矢を放ち、全て木の幹に命中した。
「矢がもったいないので、私が回収してまいります」
「いや、そんなことは。矢などいくらでも――」
「いえ、夏侯玄殿から頂いた矢を無駄にはできません。それに、少し歩きたい気分でして」
そう言い残すと、劉徳は柵を越え、緩やかな傾斜を下って平地へと向かった。
「外に出してもよろしいのですか?」
見張りの兵が訝しげに問うと、夏侯玄は柔らかく答えた。
「あの人は逃げるような者ではない。心優しく、だが信念のある人だ。魏に降ること自体、相当な覚悟がいることだろう。君もそう思わぬか?」
「……はあ、まあ」
兵は肩をすくめて持ち場に戻った。
(夏侯玄殿のおかげで陣の外に出られた。黄鈴、どうかこの木を選んでいてくれ……)
大木のもとへたどり着いた劉徳は、自分の矢を六本抜き取り、幹の裏へ回った。
――そこにあったのは風に揺れ、今にも落ちそうなほど浅く刺さった矢文であった。
劉徳は素早くそれを抜き、文を解いて懐にしまった。
陣に戻ると夏侯玄に矢を返し、その夜、幕舎にて義弟たちと文を開いた。
「ふむ……つまり、陽動によって司馬懿を北へ誘い出し、その隙に本陣を急襲するということか」
「月英殿の策、見事だな」
張苞と関興は頷き合った。
――その頃、山上では黄鈴が渭水を見下ろしていた。
(司馬懿の陣は台地の上。人の背丈三人分の高さ……正面から攻めれば、弩の餌食になる。戦いに勝利する上で魏軍を平地に下ろすことは必須)
やがて、彼女の読みどおり戦況は動く。
一度撤退したはずの魏延軍が再び北上し、さらに西へ転進を始めたのだ。
諸将はこれを「渭水北岸包囲の布石」と見なし、司馬懿も同意して軍を北原に集める。
「総司令官! これは陽動に違いありません――」
郭淮が進言するも、司馬懿は短く言い放った。
「そこまで言うなら魏の諸将を残し、お前に本陣を任せる。しかし、私は私の判断を信じ、進軍する」
魏軍の主力が北に移動したのを見て、諸葛亮はついに動いた。
姜維率いる精鋭が武功水を渡河し、橋頭堡を築く。
兵力はほぼ互角。急な蜀軍の総攻撃に魏の陣は慌てふためいた。
「月英殿は本当に聡明なお方だ。ここまで読んでおられたとは」
張苞が息を漏らす。
「これが成功したら、俺たち蜀に戻って、父のように戦える日が来るかもしれないぞ」
そんな期待を寄せながら関興は立ち上がった。
「時は来た。策を遂行する」
劉徳は瞑目し、静かに息を整えた。
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