月英の密書
前回のあらすじ
劉徳・関興・張苞の三人は、月英の策に従い、蜀を裏切ったふりをして魏への投降を企てる。
司馬懿は疑いを抱き、劉徳に義弟を巻き込んだ腕試しを命じるが、劉徳は見事に的中させ信を得る。
三人は魏に受け入れられ、蜀の勝機をつかむため、命を賭した「内応の計」が動き出したのであった。
山の中腹。黄鈴は遠くに広がる大陣をじっと見下ろしていた。武功水の流れが光を帯び、蜀と魏の旗が互いに向き合う。風に混じるのは兵の声、木牛の軋み、そして遠くで誰かが笛を吹く音だけである。
(そろそろ丞相の陣に行って情報を集めなければ)
黄鈴は防具に着替えて、山を降りようとした。
その時、後ろから足音が近づいてきた。黄鈴は振り返ると、そこには月英が立っていた。
「鈴ちゃん?」
「え、叔母さん。どうしてこんなところに」
「鈴ちゃんこそこんなところで何をしているの。兵士の格好なんかして、危険すぎるじゃないの」
月英の声は、丞相の妻としての慎ましさと、親族としての馴れ馴れしさが混ざった調子だった。口ぶりはやや上から目線だが、その裏には深い心配を含んでいる。
「叔母さん、驚かせてすみません。これから丞相の本陣に近づいて、情報を集めてくるつもりだったんです。途中まであの三人に付き添っていましたが、今はここで様子を見張っています」
黄鈴は少しよそよそしく、しかし確かな芯をもって答えた。男装の甲冑が胸に固苦しく当たるのを感じる。
月英は息を吐くように笑いつつ、困ったように言った。
「その性格は私に似てしまったのかしら。私も戦場の様子を見れる場所を探していただけよ。あなたが兵の格好でここにいるなんて、本当に危なっかしいわ」
黄鈴は肩をすくめて答えた。
「私は物見と連絡の役目を務めるだけです。目は人より利きます。遠くの動きや、夜の灯りの変化も見逃しません。どうかお許しください」
月英は黄鈴の短く切った髪をちらりと見て、柔らかく微笑んだ。しかし、彼女の言葉にはどこか棘がある。
「私が提案したことだからって、鈴ちゃんが無理に関わる必要はなかったのに。あの三人に振り回されてあんたが無茶をするのは困るわ」
黄鈴は少し黙り込み、遠くを見やった。渭水を挟んだ両陣の様子が視界に入る。兵の動き、補給線、屯田の始まった台地――丞相は長期戦を見越しているらしい。月英は静かに状況を語る。
「丞相は、長期戦を覚悟している。まずは屯田を実施して蜀軍の兵站問題の解消を目指しているわ。やはり秦嶺山脈を越えての食糧運搬は心もとないもの。蜀の兵は約十万、魏はその倍近くに見える。数の差は明白だけど、統率力は蜀の方が勝っている。体力の消耗、補給の差、夜襲への備え——あらゆる点を考慮しているわ」
黄鈴は小声で訊ねた。「丞相は、叔母さんの説明で納得してくれたのですか?」
「ええ。あの策の事を伝えたわ。あなた方を呼び戻したいと。最初は怒っていたけれど、説明したら少しは納得してくれたわ。戦が終わった後の安全までは保証できないと言われてしまったけど、約束は守らなきゃいけないから、私が責任をもってなんとかする」
月英の口調には、策を提案した責任感と夫への遠慮が混じっていた。
黄鈴は安堵の混じった笑みを返す。
「三人は無事に魏に入ったようです。あとは、丞相の陣で得た情報をどう三人に伝えるか――それを考えておりました」
月英は眼差しを強め、服の中から紙を取り出し、黄鈴に差し出した。
「これを劉皇弟に渡して。戦が本格化する前に、読ませておきたい」
黄鈴は紙を受け取り、指先が少し震えた。月英はまた付け加える。
「鈴ちゃん、ひとつ聞かせて。あの皇弟が本当に蜀を裏切らないと断言できるかしら?」
「絶対に裏切りません」
黄鈴は即答した。
「小さい時に一緒にいたから分かるけど、阿義はそんなモノの考え方はしない。優しすぎるがゆえに全て自分のせいだと思ってしまう、そんな性格だもの」
「もしかして鈴ちゃんは阿義のことが好き?」
「今そんなことは関係ないでしょ」
二人の間に沈黙が流れる。
「ここに来るという覚悟を見せた以上、私も全力で援護するわ。鈴ちゃんのためにも、必ず成功させる」
月英はさらに柔らかい声で言った。
「今日、鈴ちゃんがここにいるって分かったから、また何か重要なことが分かったら来るね」
そう言い残すと、月英は静かに山道を下って行った。足取りは軽やかではないが確かだ。黄鈴は月英の背を見送り、息を整えてから、渡された紙を開いた。
(蜀軍の一部が北上し始めている。そろそろ戦いが始まる気がするわ)
彼女は視線を北方へと向けた。渭水の向こうにはゆるやかな高地が広がっている。
(もし蜀軍が渭水を越えて北の地域を抑えれば……魏は苦しくなる)
黄鈴の瞳が鋭く光る。
(北側の高地を取られれば、それは西方・隴右との連携を断たれることと同じ。交通を断絶されれば、援軍や物資の供給など、戦線を維持することが難しくなる)
その一瞬の思考に、月英の姪としての才が垣間見えた。地を読み、戦を読む――血筋だけではなく、彼女自身の鋭い観察眼がそこにあった。
黄鈴は三日かけて魏軍の陣近くまでやって来た。月英から託された手紙を矢に結び、慎重に周囲を見回す。
(この文面から内通者の正体は特定できないだろうけど、魏兵に見つかれば厄介だ。この場所と魏の陣の間にあるあの目立った大木にしよう)
矢を放つと、先端は木肌に浅く刺さった。風が吹き、矢がきしむ。黄鈴の胸は高鳴る。(阿義、気づいてくれますように)小さな祈りを胸に、彼女は踵を返した。
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