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投降

前回のあらすじ

二三四年、諸葛亮の北伐再開の報を受け、山中に身を潜めていた劉徳たちは再び戦へ向かう決意を固める。

黄鈴は男装して同行を願い出、物見役、連絡役として五丈原近くの山に潜む。

蜀を裏切るふりをして魏へ潜入しようとする劉徳の胸には、蜀のために戦う覚悟と深い葛藤が渦巻いていた。

「私の考える策はこうです。あなた方三人に、一度魏に投降していただきます。司馬懿は人心を読むのに長けていますが、同時に利用できるものは惜しみなく取り込む男です。あなた方が受け入れられるかどうかは、投降の理由次第でしょう――そこが肝要です」

「八年前の出来事は、やはり陛下にとって痛手となりました。国内外の批判は後を絶たず、民心の一部は揺れておりました。今となってはほとんどの人が忘れてしまいましたが、当時は騒ぎになったものです。そこで『皇帝に陥れられ、流罪となった身が、復讐の為に魏に身を寄せる』という筋立てで投降すれば、司馬懿も受け入れる可能性は高い。彼は利用価値のある駒を見逃さぬ人物ですから。

 そして、魏側と接触を図りながら内外の連携を取り、ある機会に陣中に火を放ち、司馬懿を討つ――これが私の求める『内応の計』です」


(なんという策だ。丞相の妻、侮り難し)


「想像してみてください。関羽・張飛の子らが、皇弟とともに魏に寝返ったとあれば、魏はこれを吉報と受け止めるでしょう。もちろん、蜀側は、流刑になり、庶民に落とされた者たちが突如姿を現し、反旗を翻したと知れば動揺してしまうでしょう。その混乱の中でも、丞相によって統率された蜀軍と連携し、あなた方は決定的な働きを為して、最終的に蜀の力となるのです」


 そんな月英の話を思い出しながら、三人は魏の陣の目前まで来た。

 劉徳は事前に用意していた手紙を矢にくくりつけ、魏の陣へと放った。

「これで大丈夫なはず……」

「月英さんが言うにはこれが最も可能性の高い方法なのだ。うまくいくことを祈ろう」

 三人は近くの茂みに身を隠し、一夜を明かすことにした。


「総司令官、幕舎に矢文が突き刺さっておりました。おそらく蜀軍からのものかと――」

将軍・郭淮が控えめに報告すると、司馬懿は淡々と紙片を受け取った。幕舎の奥、ろうそくの小さな光が書面の縁を照らす。


――私、劉徳は張苞、関興と義兄弟の契りを結び、蜀に尽くして参りましたが、八年前、皇帝劉禪ならびに丞相の陰謀により陥れられ、流刑の身となりました。その後は秦嶺山脈の山賊として暮らしておりました。近くこの五丈原の地が戦場となるのを聞き、魏に身を寄せ、力を尽くして仕えたいと願い申し上げます。義弟ともども、必ずや魏のために尽力いたします。明日、陽が真上に差す頃、そちらの陣へ参上いたします。劉德――


 司馬懿は短く目を走らせると、軽く鼻で笑った。

「ふっ……何事だ、これは。戯言か、あるいは諸葛亮の小細工か」

 そう言うと彼は、手に持った手紙をろうそくの火に近づけた。紙端が赤く揺れてやがて黒い灰となる。

 郭淮は顔を曇らせ、続けて尋ねた。

「明朝、何か手を打ちますか、総司令官」

 司馬懿は灰に目を落とし、静かに答えた。

「今のところ急を要するものではない。だが用心は怠るな。見張りを厳にし、異変があればただちに報告せよ。念のため夜間の巡視を一層増やすように」


翌日


「では行こうか」

劉徳の声は静かだが、決意がこもっていた。魏の陣営に近づくにつれ、見張りの者や櫓の番手が次々とこちらに気づき、ざわめきが起きる。

「誰だ、あれは」「怪しい者だぞ!」

 守備兵は隊を成して弓を構え、声が飛ぶ。

「昨日、将軍がおっしゃっていた者ではないか。ひとまず捕らえろ!」

 先に見つけた兵が叫ぶ。

 劉徳は両手を挙げて歩みを止めた。

「我らは蜀からの投降を願い出る者だ。どうか総司令官に取り次いでほしい」

 劉徳は低く告げる。だが周囲の応対は冷ややかだ。

「この生意気な農民兵が!お前なんぞ投降しても何の力にもならん。やっちまえ!」

 色めき立つ兵の間を、三人は押し通した。飛んできた矢を剣で払い、前へ進む。攻めかかってきた数人の兵を、致命傷にならぬ程度に退けると、関興は速やかに言った。

「これは自己防衛だ。許してくれ。我が名は関興。関雲長の息子である。横にいるのは燕人張飛の息子張苞。そしてこのお方は皇帝の弟劉徳殿下である。総司令官と話がしたい」

「分かった。ならばそこで立ち止まり大人しくしていろ」

 郭淮がそう言うと、縄を携えた者たちがやって来て、三人の手足は粗々しく縛られた。

「何という武器だ」

 関興から刀を奪取り上げた兵は、重みに耐えかねてぐらりと崩れる。

「まさかこれはかつて関羽が持っていた青龍偃月刀では?」

「それではこいつらは本当に、、、?」

 三人は魏兵に連れられて本陣の奥と進んだ。

「蜀から投降を願う者たちを連れてまいりました」

――一人の兵が幕舎の入り口でそう告げると、陣内の空気がぴんと張りつめる。

「なにもそこまでする必要はないといったはずだが」

 しかし、司馬懿は振り返ると、目を見開いた。劉徳は膝まずくことなく、堂々と顔を上げた。

「はじめてお目にかかります。私の名は劉徳。矢文をご覧になられましたでしょうか。蜀への恨みを晴らすため、魏に投じたいと願った次第です。義弟たちと共に、必ずや御役に立ちます」

 司馬懿の表情に僅かな陰りが走る。頭の中で何かを巡らせるように、その瞳は冷たく光った。彼の思考は慎重で、すぐに結論を下さぬ男である。やがて低く言った。

「言葉だけでは到底信じるに値しない。証明してみせろ」

 司馬懿はあくまでも冷静に答えた。

「特に、この劉徳と名乗るお前が何者かをはっきりさせねば。証拠がなければ、このまま生かしておくわけにはいかぬ」

 郭淮が続ける。

「劉徳は弓の名手で有名だったはず。空を飛んでいる雁を撃ち落としたと聞いたことがある。ならば、その腕を今見せてもらおうか。ついでに酒も用意せよ」

 郭淮の声には興味と試しの色が混じる。こうして、三人は幕舎の外へと連れ出された。


 そこには一本の細い竿が立てられ、竿先には小さな柿が結びつけられていた。柿の両端に杭が立てられ、張苞と関興がしっかりと括りつけられていた。もし矢が柿に当たらなければ、その矢は紛れもなく、結ばれた義弟に向かうことになる。


 建設中の営舎が並ぶ広い前庭でのことであった。渭水の風が旗を鳴らし、兵の声や鉄の匂いが満ちる。その一角に細い竿が立てられ、竿先には大きな柿が結びつけられていた。柿の両脇には長い松の杭が打たれ、そこに張苞と関興がしっかりと括りつけられている。


 場内は一瞬にして凍りついた。魏の将たちは不敵な笑みを浮かべ、周囲に集まった兵や下働きの者たちも息を呑んでその行方を見守る。張苞は縄に縛られながら額に汗をにじませつつ顔を上げ、関興は歯を噛みしめて顎を引く。二人の瞳は揺るがぬ信頼を劉徳に向けている――「兄上よ、頼む」という祈りにも似た目だ。


 司馬懿は冷静に、しかし厳かに告げた。

「これができぬなら、投降は受けられぬ。矢は一本のみ。外せば、あの者らの命が奪われるということを忘れるな」

 劉徳は矢を手に取り、弓を渡された。だが、そこへ酒が差し出される。郭淮の提案だという。兵の風習か、あるいは司馬懿の策か――劉徳は、大きな器に入った酒を差し出され、それを飲むよう命じられた。


 劉徳は一瞬ためらった。だが柿を射抜くしか道はない。彼は器を持ち、渾身の力で飲み干した。酒は喉を焼き、めまいが襲う。頭がわずかに揺れ、視界が滲む。ついに酔いの気配が全身を包む──この量の酒を一気に飲んだのは初めてだ。


 劉徳は弓を構えた。身体中に酔いが回る。だが彼は呼吸を整え、目を閉じて心を一点に定める。風の音、縄の擦れる音、遠くで人が囁く声、すべてを遠ざけるように、深く息を吸い込んで吐いた。目を閉じたまま、弦を引き絞る。身体の芯で目標を定めた。


 「放て」──誰かが低く命じる。弦が撥ね、矢は空を切った。


 柿の実が微かに揺れたかと思うと、その瞬間、鋭く裂け、果肉が舞い散った。張苞と関興はお互いに短く顔を見合わせ、ようやく安堵の息を漏らした。魏の将たちは息を飲み、司馬懿はわずかに顔色を変えたが、ただそれだけだった。


 その一射で、彼らの運命は動いた。司馬懿は静かに言った。

「よかろう。約束通りお前たちのことを信じよう。そなたらが本物ならば、蜀を裏切り魏につくのも何ら不思議な事ではない。お前たちの恨みは十分に伝わった。蜀を討つため、そなたたちの力を使わせてもらうぞ」


 三人は膝をつき、深く頭を下げた。劉徳は内心で月英に感謝し、歯を食いしばって誓った――この賭けを、必ず蜀の勝機に変えてみせる、と。

読んでくださりありがとうございます。評価とブックマーク、感想をぜひよろしくお願いします!

次回「新・五丈原の戦い」お楽しみに!

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