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褒斜道の兵

前回のあらすじ

黄月英が劉徳・関興・張苞の前に現れ、病身の諸葛亮に代わり最後の北伐への助力を願う。

怒りと疑念を抱く二人だが、月英が青龍偃月刀と丈八蛇矛を差し出すと、失われた誇りが蘇った。

劉徳は再び立ち上がり、蜀の命運を賭けた「策」に身を投じる決意を固める。

 二三四年二月

 諸葛亮は再び魏へ向けて兵を挙げ、褒斜道(ほうしゃどう)を通り、長安を目指す構えを見せていた。司馬懿もこれを迎え撃つべく自ら出陣し、渭水の南に砦を築き防備を固めているとの報が、赤嶺村にも届いた。山奥で日を送ってきた三人には、外の世界の変化が鮮烈に映る。


 一周忌から数週間が過ぎ、劉徳は落ち着かない気持ちを抱えていた。

「本当に、ただ待っていればいいのか」

 関興が疑わしげに言う。

「しばし待て。時期が来るまで最善の準備に努めるしかない」

 劉徳は静かに答え、道具の点検や地図の確認を続けた。


 やがて、褒斜道を行軍する蜀の兵の列が山道を埋めた。北へ進み、やがて五丈原に布陣するというのが、黄月英からの伝言だった。青銅の具足に代わり鉄の色が増え、補給には木牛・流馬が用いられているのが見える。農具にも似たその車の列は、思わず関興が息をのむほどだった。

「あれは月英さんが考案したものらしいな。見事な工夫だ」

「我らも、あの列に続くのだな」張苞が呟く。

「この険しい山脈を越え、しかも大量の兵站を携えて進むとは、正気の沙汰とも思えぬ」   

 関興が笑い混じりに言うと、張苞は浮かぬ顔で頷いた。

「だが、これまでの北伐で乱を起こした将はいない。丞相の統率は確かなものだ」

 劉徳は遠くの列を見据えながらそう言った。

 ほどなく村のすぐ近くの道を行く兵の列が見えた。彼らは列について行けば多くを知ることができるであろう。


 出立の前、黄鈴が静かに言った。

「阿義、私も行きたいの。あの策の内容を聞いてから、どうしても心配で――」

 劉徳はすぐに首を振った。

「黄鈴、私がこれから赴くのは戦地だ。大切なそなたを連れて行くわけにはいかぬ」

 言葉は厳しくも、その瞳は揺れている。

 すると突然、黄鈴は一歩前へ出て、腰の小刀を抜いた。刃先を布でそっと拭い、髪をつかむと、ためらいなくすっと引き切った。漆黒の髪が指の間から落ちる音が、落ち葉と重なる。彼女の表情は揺るがず、その目だけがいつもより一段と静かに光っていた。

「阿義、お願いです。物見役でもいいので行かせてください。丞相の陣と連絡を取り合う役目なら、私でも務まるはずです。途中まで同行し、山の見晴らしの良い所で戦場を見張ります。私、目が人より少し利くのです。遠くの動きも見逃しません」

 その言葉に、関興と張苞は顔を見合わせる。一番気がかりなのは、劉徳の答えだ。

(連絡役は戦場の兵士よりもさらに危険ともいえる。果たしてこの女子(おなご)にその役が務まるのだろうか)

 劉徳はしばら彼女の短くなった髪を見つめた。やがて劉徳は一歩近づき、黄鈴の肩に触れてから、ゆっくりと頷いた。

「分かった。ただし約束することがある。五丈原の陣が必ずしも安全とは限らない。無闇に目立たないように。月英さんの指示を厳守し、危なくなれば即座に村へ逃げること」

 黄鈴は小さくうなずき、目を潤ませながらも決然とした。四人は互いに覚悟を確かめるように頷き合った。

 結局この日まで、劉徳は村人たちに自らの素性を明かすことはなかった。

「しばし旅に出る」とだけ告げ、静かに頭を下げた。

(この戦いが終わった後、帰ったら皆に話そう。──私が何者であったのかを)

 夜明けの山々には薄い霞がたなびき、鳥の声が遠くでこだまする。四人は食糧を分け合い、荷をまとめ、まだ露の残る山路へと踏み出した。


 道中、三人は追放時のような、粗末な服を身にまとっていた。長く着込まれ、ところどころ継ぎのある麻布の衣は、地元の農民兵を装うためである。だが、その立ち姿から漂う気迫までは隠しきれなかった。

 劉徳は弓を背に負い、張苞は丈八蛇矛を肩に担ぎ、関興は青龍偃月刀を携えていた。その武器が陽の光を受けて鈍く光るたび、三人の周囲の空気がわずかに張りつめる。


 見た目こそ山里に生きる者であったが、歩みには一分の迷いもない。

 その背を見つめながら、黄鈴は小さく息をのんだ。──これが本物の「戦へ向かう人々」の背なのだと。

 一方、黄鈴は借りた鎧を着て男装し、三人よりも後ろの兵列に紛れ込んだ。道中、兵士たちの雑談から木牛・流馬の数や補給の様子を盗み聞きし、遠征の規模を断片的に理解していった。

 

 一週間後

 五丈原も近い頃、三人と黄鈴は再び合流した。蜀軍が進んでゆく本道を避け、藪をかき分けながら、山腹の見晴らしのよい場所を目指す。

やがて視界が開けると、眼下に二つの大陣が広がっていた。武功水を挟んで西に諸葛亮の本陣、東に魏の陣を望むことができる。両陣はまだ整備の途上にあり、櫓や土塁は建設途中だと思われる。しかし、両者の気配は全く違った。蜀の本陣は秩序と張りを持ち、将兵の動きは統率されている。一方の魏の陣は、居並ぶだけで周囲を押し込むような冷たい威圧を放っていた。

「……あれが魏の兵か」

 関興は無意識に背筋を伸ばし、張苞はしばらく目を閉じて呼吸を整えた。


 四人は旗を立てることもなく、小さな囲いを作り、簡易的な天幕を建てた。火は極力小さくし、煙も上げない。ここは正式な陣地ではなく、非公式の拠点である。黄鈴はそこから昼は遠方を見張り、夜は灯りの動きを注視する。合図は目立つ大木に矢文を放つことで決めた。だが劉徳の心には、微かな不安が残る。彼女の決意は頼もしいが、戦の理不尽は情け容赦ないことに彼は気づいていた。


 夜、火を囲んで三人は短く言葉を交わした。張苞が鞘を軽く叩き、言う。

「我らは武に生きてきた。策で人を欺くことは苦手だ」

 関興が肩をすくめる。

「だが、今回ばかりは演じねばならぬ。刃だけでは成功しないのだ」

 劉徳は眼を細め、ふっと笑ったように見せる。

「演じることは本意ではない。しかし、蜀を動かし、民を守るためなら、手段は選ばない。長年の暮らしで自覚を失っていたが、私は漢皇室の末裔、皇帝劉備の血を引く者である。今こそ、父の夢見た「漢王朝」復興のため、丞相と協力し大業を為す時だ。たとえ表向きに我が心が蜀を裏切るふりをせねばならぬとも、本懐は変わらぬ」


 三人は互いの瞳を見交わし、何かを確かめ合った。風が谷を渡り、遠くに魏の旗が揺れる。賭けの時は近い。生還の保証はない。しかし、黄鈴の切った短い髪が月光に梳かれて煌めくのを見て、劉徳の肩にはかつての志と、新たな覚悟が重く、しかし確かにのしかかっていた。


 魏の陣はまだ先にある。彼らは黄鈴と別れた後、山を抜け、東へ向かってゆっくり歩みを進めた。

 冷たい風が頬を撫で、武功水の向こうには見慣れぬ旗がいくつもはためいている。

 そのたびに、胸の奥で何かがざわめいた。

 恐れか、覚悟か――自分でも判然としない。

 ただ、前をゆく劉徳の背中は、いつもよりも大きく、頼もしく見えた。


「私は陛下と丞相を憎む。魏に寝返った皇弟――それが、いまの私である」

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