赤嶺村
前回のあらすじ
檻車で暗殺の刃に晒された劉徳は、趙統の救援によって九死に一生を得る。
義弟たちは趙統への怒りを抑えきれぬまま、彼の涙と告白を目の当たりにする。
傷を負いながらも劉徳たちは北への逃避行を始めた。
建興元年十月——肌に刺すような秋の冷気が山道を満たしていた。
朝露で濡れた落ち葉が足元でかさこそと音を立て、空気には枯れ草と土の匂いが混じっていた。劉徳たち三人は、趙統に救われてから一夜を明かした。山道に人影はなく、最近、人が通った気配すらない。手元にあるのは護衛から奪った二本の剣と使い古された外套のみ。これからの旅を支えるのは、趙統によって繋がれた生きる覚悟だけであった。
「このままではいずれ餓死する。戻るしかないんじゃないか」
関興の声が荒い。だが劉徳は首を振る。
「戻れば、すぐに見つかる。罪人の身だ。誰かが私たちの顔を知っていれば、すぐに密告されるだろう。今度捕まれば、次こそ処刑が待っている──それに、趙統を巻き込みたくはない。あの者は命を懸けて助けてくれたのだ。だからこそ、安易に戻るわけにはいかない……」
劉徳の声は途切れ、言葉の後ろにまだ趙統への不安と、救われたことへの複雑な思いが渦巻いていた。関興は不満げに鼻を鳴らす。
三人はまず水を求め、斜面を下りて谷筋へ向かった。一際大きい竹を見つけ、刀で切り、即席の竹筒を何個か作る。冷たい沢の水を口に含むと、疲れた体に思いがけぬ力が戻る。栗や木の実、見分けの付く茸を拾い、空腹をしのいだ日もあった。秋の食物がなければ命は持たなかっただろう。
「劉徳殿、これからどういたしますか」
張苞の問いかけに劉徳は言葉を詰まらせた。この先、山の中でこうして飢えをしのぎ続けて生きていくのか。いや、冬になれば凍え、食料はなくなり、命を落とすだろう。かといって、大きな街に紛れ込めば、誰かに気づかれ、捕らえられる可能性がある。
出口の見えない思考の迷路に囚われていたその時――ふと、一つの記憶が胸に浮かんだ。
劉徳は、擦り切れた衣服の奥に手を差し入れ、肌身離さず持っていた小さな袋を取り出す。
──懐かしい光景が脳裏に広がる。伊籍先生が錦の袋をそっと渡してくれた日のことだ。
「阿義、もし何年経っても再び会えぬことになった時のために、これを持っておくがよい。道に迷ったら開けるのだ」
劉徳はその言葉を反芻し、震える指で袋の紐をほどいた。中には折りたたまれた一枚の手紙。急ぎ書かれた筆跡でこうあった。
――成都から北へひと月歩け。漢中盆地へ入り、褒斜道を東北に進めば、やがて紅く染まる山が見える。その山の中腹にある村へ行くのだ。そこは必ずやそなたの助けとなるであろう。
手紙を三人にも見せると、張苞は静かに頷き、関興も珍しく言葉を濁さず従うことを決めた。彼らは既に十日ほど移送中に北上している。伊籍の言葉を信じれば、あと二十日ほど歩けば辿り着くはずだ。
「馬があれば一瞬で着けただろうに」
道中は厳しかった。秋の雨に打たれ、誰も通らない細い小道を辿る日々。綿竹関や剣閣といった関所を避けるため、正規の街道を外れて山腹の細い踏み跡を進む必要があった。関所を正面から通れば符節や検査がある——罪人の身で通るわけにはいかない。濡れた崖を慎重に渡り、桟道の狭い板につま先をかける。風が崖から吹き上がり、谷に怒号のようにこだました。
やがて巴山を超え漢中の町に出たとき、三人は驚いた。成都とは空気も人の服装も違う。市場では麻布のにおい、地元でとれた穀物や*漢中米皮の匂い、甲冑や盾を扱う商人の声が混ざる。だが人混みの中で目立てば命取りだと、劉徳はうつむいて目立たぬよう品を買い、すぐに褒斜道へと向かった。褒斜道は峠を越える古びた街道。断崖に打ち付けられた桟道と橋脚が連なり、風に軋む音が緊張を呼ぶ。人影は少なく、通行人はまばらだった。
道中、山並みが少しずつ赤く色づいていくのを見つけ、関興が小声で言う。
「火事じゃないか?」
「いや、紅葉だろう。地元の山の一部も秋にこうなるではないか」
伊籍先生は、私が秋にこの錦袋を開けることを、すでに見越しておられたのか。いったいなぜこんな辺鄙な場所へと導くのだろうか——劉徳の胸に疑問が浮かぶが、答えは山の向こうにしかない。
数日歩いたある朝、霧が晴れると眼下に広がる光景に三人は息を呑んだ。
谷あいの山肌が一面、燃え立つ炎のような紅葉で覆われていたのである。常の山村では見られぬ、異様なまでの赤。その中に、斜面を切り開いて築かれた集落がぽつりと浮かんでいた。
もし季節を誤れば、この導きに気づくことはなかっただろう。――紅葉に染まる山。そのただ一点を、あらかじめ示されていたのだ。まるで未来を知るかのような先見に、劉徳はただただ驚いた。
瓦屋根の家々は二十ばかり。段々に積まれた畑は、霧に濡れた露を煌めかせ、まるで宙に浮かぶ庭園のようであった。村の入口は、道沿いにあるわけではなく、険しい山道を登りきった先に小さな木の門がひっそりと構えている。人が踏み入れるには余りに不便で、外界から隔絶された秘境のように思えた。
その門の前に、一人の影が立っていた。山風に外套を揺らしながら、まるで待ち受けていたかのように。
劉徳は思わず足を止め、胸の内で呟いた。
「……やはり、伊籍先生はすべてを見通しておられたのか」
「着いたぞ」張苞の声が震えを含む。関興は額に汗を滲ませながらも、どこか安堵の色を滲ませる。
「ようこそお越しくださいました。どうぞこちらへ」
門の前にいた男に促されるまま三人は一歩を踏み出した。
「ここは何という場所ですか?」劉徳が尋ねると、男は静かに答えた。
「ここは、赤嶺村です」
秦嶺の中腹に抱かれた、小さな集落——紅葉に覆われたその村の名を聞いた瞬間、劉徳の胸には安堵と不安が入り混じった。罪人としていつ再び追われるかわからない緊張は消えない。それでも、伊籍先生の言葉が導いた場所に辿り着いたという事実が、三人の足をいくらか軽くした。赤嶺村の門口で、冷えた風が一度だけ彼らの顔を撫でた。
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漢中米皮⋯もちもちした米粉麺




