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背水の陣

前回のあらすじ

陸遜の知略により、四十以上の蜀軍陣営が炎に包まれ、退路を断たれた劉備軍は大混乱に陥る。

呉軍の挟撃により蜀軍は大敗し、陸遜は嘲笑から一転して英雄と称えられた。

「何としても陛下をお守りせよ!」

 将兵たちは叫び、劉備を囲みながら炎の海を突き進んだ。四方から火柱が迫り、熱と(すす)で兵の顔は歪んでいる。戦場は地獄のようであったが、誰一人退かず、命を賭して君主劉備を守った。


 やがて戦場の喧騒(けんそう)が遠ざかると、周囲に残るのはわずか数百の兵のみ。かつて一万を誇った軍勢は、もはや影も形もなかった。劉徳も関興も趙統も必死に戦い、どうにか生き延びていた。


「これ以上は走れません。しばし休みましょう」

 将たちが劉備を木陰へ導いたとき、劉徳は辺りを見渡し、声を震わせた。

「……張苞の姿が見えぬ。今すぐ探しに行かなければ!!戦場にいたら、生きて帰ることはできない」

「よせ、阿義。自分の命を大切にするんだ」

 趙統が止める。

「張苞……あの者が、どうして……」

 劉徳は地に手をつき、悔し涙を流した。

「阿義、あの張苞のことだ。きっとどこかで生きている。必ず戻ってくる」

 関興が静かに劉徳の肩へ手を置いた。


「しかし、私たちはあまりに多くを失った。蜀の未来も……ここで潰えてしまうのではないか」

 劉徳の嘆きに、関興は毅然と答えた。

「弱音を吐いてはいけない、阿義。俺らが生きてこられたのは、すべて陛下のおかげ。その陛下が今もおられる。ならば、やるべきことは分かっているだろ」

 その言葉に、劉徳の瞳が揺れ、やがて光を帯びた。

「……その通りだ。父上をお守りしなければ。たとえこの身を失おうとも」


 その時――

「敵だ!」

 茂みから呉兵が飛び出し、劉備に刃を振り下ろした。関興が即座に前へ立ち、防いだ。

「やはりここは危険です。一旦、兵が残っている夷陵まで退避しましょう」

 劉備たちは自らの砦である夷陵を目指して急いだ。

 その道中でも何度か呉の伏兵に襲われたが、関興や趙統が決死の覚悟で戦い、劉徳は弓を引いてそれを防いだ。



「はあ、助かった」

 なんとか夷陵に辿り着いた。しかし――劉備たちの前に待っていたのは望んだ光景ではなかった。

 炎と煙が山谷を覆い、空さえも赤黒く染まっていた。

 夷陵の城は既に呉軍に踏み荒らされ、炎に包まれた無残な光景だった。

「……遅かったのか」

 胸の奥が凍りつく。仲間を探しても、倒れ伏す兵と焼け落ちた旗しか見えない。


 城門の前まで進むと、突然声が響いた。

「逆賊劉備よくぞ参った。我が名は韓当。夷陵はすでに我が手中にあり、お前の逃げ場はない」

 呉の武将韓当が冷笑を浮かべながら現れた。

「劉備を討て!」

 韓当の号令一下、城壁に並んだ弓兵が一斉に矢を放つ。黒い矢雨が大地を叩き、蜀兵たちは次々と倒れていった。城門が開き、多くの呉兵が押し寄せてくる。

「陛下を守れ!」

 関興が盾となり、迫りくる敵兵を斬り伏せる。しかし矢は容赦なく突き刺さり、彼の肩や脇腹を穿つ。血に染まりながらも、なお膝をついて劉備の前に立ち続けた。


「ここまでか……」

 劉備の口から、力なき声が漏れる。


「諦めてはなりません!」

 劉徳が叫び、短刀を振るって敵を退けた。その目は涙で濡れていたが、声には必死の気迫が宿っていた。

「陛下は蜀の皇帝。民の希望そのものなのです!」


(このままでは全員ここで死ぬ……私がやらねばならぬ。父上のために、蜀のために! 鍛え抜いてきた技――今こそ使う時だ!)

 劉徳は震える手を抑え込み、深く息を吸った。弦を強く引き絞り、城壁上の韓当の胸を狙い澄ます。その眼には決死の覚悟が宿っていた。

「これで……終わらせる!」

 矢は雷鳴のごとく放たれ、一直線に韓当の心臓を射抜かんと迫った。


 だが次の瞬間――。


 ガシッ。

 信じ難い光景が目に飛び込む。韓当は片腕を伸ばし、飛来する矢を空中で掴み取っていたのだ。


「な……あり得ない……!」

 劉徳の瞳から希望の光が消えた。


 韓当は冷ややかに矢をへし折り、無造作に地に投げ捨てる。

「この程度か。貴様の覚悟も、鍛錬も、すべて無駄だ」

 その声には嘲りと冷酷な確信が混じっていた。

「ここで終わりだ。劉備も、その息子も。ああ、残念だったな」


 その瞬間、朗々たる声が戦場に響いた。

「我が名は常山の趙子龍! 陛下には指一本触れさせん!」

 白銀の鎧をまとった趙雲が駆けつけ、城下の呉軍に突撃した。その隣には丈八蛇矛を掲げる張苞の姿があった。

「張苞ここにあり!どこからでも来るがいい!」

 張苞が叫び、敵を薙ぎ払った。趙雲軍は瞬く間に包囲を破り、呉兵を蹴散らしていく。

(義兄が……助けに来た)

 関興もまた立ち上がり、兵を鼓舞しながら血路を開く。蜀軍はわずかながら息を吹き返し、劉備の退避路を確保した。

 城門上の韓当は眉をひそめた。

「……ここで深入りすれば城を失う。守りを固めよ!」

 趙雲の猛攻に押し留められる形で、韓当は兵を城内へ退かせた。


「今のうちに、西へ向かうのです!」

 趙雲の叫びに従い、劉備たちは命からがら白帝城へ向けて退却した。



「趙雲……そなたが来てくれなければ、全員命を落としていた」

 劉備は震える声で感謝を述べた。

「張苞殿が早馬で知らせてくださったのです」

 趙雲が答えると、劉備は張苞の肩を叩き、深く頷いた。


 蜀軍は大敗し、未来はなお暗雲に覆われていた。

 だが劉徳、関興、趙統、張苞、そして趙雲――命を賭した彼らの奮戦によって、かろうじて希望の灯は繋ぎ止められたのであった。

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