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孫桓を討て

前回のあらすじ

蜀軍は孫桓を攻めて陸遜を誘い出そうと大陣を築いたが、兵の間には油断が広がった。劉徳と馬良は陣営を移設することを諫め、劉備も渋々諸葛亮の意見を仰ぐことにした。しかし、小規模な襲撃を退けたことで、軍の油断はさらに強まった。

劉備は返答を待たぬまま山林へと陣を移し、劉徳だけが不安を抱き続けていた。

 蜀軍は、夷陵から長江を挟んで南にある猇亭(こてい)を本陣とし、山林に陣を集中させていた。

 主力の一部は夷陵に、さらに長江沿いには補給路を守るための陣地が点々と置かれている。この遠征ではすべての兵を陸上に置き、水軍を用いなかった。長期戦に持ち込まれれば補給線を守る兵が必要となり、劉備自身が率いることができるのは一万に過ぎない。

 劉備は移設した幕舎で軍議を開いた。 

「陸遜は、我らが孫桓を本気で攻め立てていないことを見抜いておろう。ゆえに援軍を出さぬのだ」

 劉備は静かに語った。

「ならば孫桓軍を殲滅するまで!」

 関興が気炎を上げる。

「うむ、朕も同じ考えだ。直ちに孫桓の陣を討つぞ」

 劉備は命を下した。


(嫌な予感がする。この戦いは蜀軍にとって良い結果にならない)

 張苞はなんだか胸騒ぎがした。彼はすぐさま江州*にいる趙雲へ手紙を書き、使者に持たせた。趙雲に今の状況を細かく伝え、万が一に備えて秭帰城への駐屯をお願いした。

(これで一安心か)

 いつもは関興と共に意気揚々と戦地へ向かう張苞だが、今日ばかりは妙に冷静だった。


 翌日、劉備軍は再び孫桓の陣へと向かった。しかし、今までの攻撃とは明らかに規模が違う。いつもの五千の兵ではなく、一万の軍を率いてきたのだ。劉備自ら指揮し、後ろには関興、張苞、馬岱など勢いに乗っている将軍たちを戦線に送った。

「ついに真の劉備が来る」

 孫桓の陣営は恐れ慄いた。

「きっと陸遜は助けに来ないだろう」

 孫桓は覚悟を決めた。

 七千対一万の戦いが始まる。



「全軍、突撃!」

 兵の叫びが夕空を震わせた。黄権、呉班、陳式を先頭に蜀軍が波のごとく押し寄せる。劉徳もまた、父のすぐ傍らで戦況を見つめていた。

 蜀軍の勢いは烈火のごとく、孫桓軍は後退を余儀なくされる。だが、夷道の地は起伏が激しく、山地と水辺が交錯している。地形によって進軍を阻まれ、決定的な突破には至らなかった。

「怯むな。応戦せよ!」

 孫桓が自ら剣を振るい、兵たちを鼓舞する。その姿に呼応するかのように、呉兵は必死の抵抗を見せる。

(どうする陸遜)

 劉徳は、陸遜が救援に来るであろうと予想していた。しかし、なかなか陸遜は現れない。


 西の空は赤く燃え、戦場の影は長く伸びた。

「陛下、兵も疲れ切っております。今日はここで退き、明日また仕掛けるべきです」

 劉徳は父に進言する。

 しかし、劉備は頑として首を振った。

「いや、ここで退けば敵は息を吹き返す。今日のうちに孫桓を討ち、呉の士気を下げ、我が軍の士気を上げねばならぬ!」

 声には焦燥と決意が入り混じっていた。


 劉備は陣形を組み替えさせ、側面の山からの攻撃を命じる。だが孫桓の守りは固く、戦はなおも膠着した。兵たちの息遣いは荒く、火花が宵闇(よいやみ)に散った。


 陽はだんだんと沈んでいき、黄昏時に、劉徳は父に告げた。

「戦況を見てまいります」

 そして一人、高所へ向かい近くの山を登り始めた。


 草木をかき分ける途中、うめき声が耳に届く。

(……誰かいるのか?)

 耳を澄まし、声のする方へ進む。

 そこには、岩にもたれかけた一人の兵。肩に矢を受け、血で濡れている。

(……あの衣装は、呉の宗室しか許されぬもの。まさか、孫桓!)

 劉徳は息を呑んだ。服の内に忍ばせた短刀の柄に手をかける。今なら、敵将を討てる――。

 しかし、その足は震えた。

 これまで、私は人を殺したことがない。幼い日に大切な人を戦乱で奪われた記憶が、胸を締めつける。

(この者にも、待つ家族がいるのではないか……)

 そう思った瞬間、短刀は抜けなくなった。

 けれども同時に、そんな思いを抱いてしまう自分を恥じた。

 乱世に生きる男が、敵を前にして手を止めるなど。義弟たちのように勇敢になれない自分が、父のように果断にはなれない自分が、惨めで仕方なかった。


(不意打ちで討ち取るなど道理に反する)

 葛藤の末、劉徳は短刀を服に戻し、背を向けた。


「……誰だ、お前は」

 苦しげな声が背に届く。孫桓が目を凝らしている。

「名乗るほどの者ではありません。ここは蜀軍がすぐに押し寄せます。早く立ち去ったほうがよろしいかと」

「……蜀の兵だろう。なぜ私を殺さぬ」

「敵味方は関係ありません。負傷して苦しんでいる人を殺すわけにはいかないのです。早く呉の陣に戻り医者に診てもらってください」

 それだけを告げ、劉徳は山をさらに登っていった。

 孫桓は呆然とその背を見送り、痛みに耐えながら立ち上がった。


 夜の帳が下りた頃、劉徳は頂上に着き、戦場を望む。

 そこに広がっていたのは――闇を裂く炎。


 孫桓の陣ではない。蜀の補給拠点を結ぶ長江沿いの陣地が次々と燃え上がっていた。火は夜風に煽られ、陣から陣へと連鎖し、黒煙が天を焦がす。


「劉徳殿!」

 使者が駆け上がってきて、叫んだ。

「陸遜の軍が水上から急行、本陣ではなく補給線を襲いました! 退路は完全に断たれております!」

 劉徳の顔から血の気が引いた。

(……そうか。これが陸遜の狙い……!)


 急ぎ駆け下りると、そこには地獄が待っていた。補給線をつなぐ陣地だけでなく、猇亭の陣も炎に包まれ、兵たちは逃げ惑い、悲鳴と怒号が渦巻く。

「本陣にいたもう一万の兵は……!」

 劉備が青ざめて問う。

「皆、炎に呑まれ……阿鼻叫喚の有様です!」


「劉備を討て!」

 火を背に、陸遜の軍が迫る。前からは孫桓の兵が追撃し、蜀軍は前後を断たれた。

 長江は暗黒の水面を広げ、逃げ場はない。

 蜀軍は、散り散りに崩れ落ちていった――。

読んでくださりありがとうございます。評価とブックマーク、感想をぜひよろしくお願いします!


*江州⋯ 現在の重慶市南部一帯。益州から荊州に侵攻する際の物資の中継都市でもある。

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