救いようのない阿斗
前回のあらすじ
劉備には、甘夫人の子、劉禅と孫尚香の子、劉徳という二人の息子がいた。
劉禅は、可愛がられて育ったがために、横暴で世間知らずな性格となった。
しかし、劉徳は、周囲から軽蔑されていたにもかかわらず、素直で優しい子に育った。
自分より優秀な弟を気に入らない劉禅がとった行動とは?
(私は兄上に嫌われている――そう、初めて顔を合わせた時から)
劉徳がまだ宮中に戻って間もない頃のこと。父・劉備に連れられて、兄の劉禅と共に狩りに出かけた。
「鹿だ!」
劉徳は素早く弓を構えた。幼いながらも鍛錬を欠かさず、獲物を射抜ける自信があった。だが――
兄の劉禅が、すぐ横で石を放り投げた。
鹿は驚いて林の奥へと逃げていく。
「な、なんで……」
呟く劉徳に、劉禅は薄ら笑いを浮かべる。
「はは、悪い悪い。びっくりさせようと思ってさ。どうせ当たらなかっただろ」
それだけではない。劉徳がやっと矢で仕留めた兎を、兄が先に走り寄って手に取ると、まるで自分が倒したかのように父へ差し出した。劉備は特に何も言わず、ただ微笑んだ。
宮中でも、兄からの陰湿ないじめは続いていた。劉徳が漢詩を読めば、
「へぇ、またお勉強? そんなもの覚えても、お前が君主になるわけじゃないんだからさ」
と冷笑される。劉徳が丹精込めて庭に育てた水仙を、わざと踏み荒らし、
「悪いな、気づかなかったよ。ま、こんな無駄なことしてる時間があるなら、弓でも磨いとけよ」
と、つまらなそうに言い残すのだった。
だが、劉徳は言い返さない。踏まれた水仙の、無残に折れ曲がった姿は、彼の幼き日の記憶を呼び起こすのに十分であった。
彼は静かにその茎を拾い上げ、泥のついた花を手のひらで包み込むようにして、そっと植え直した。
周囲の侍童たちは、小声でくすくすと笑っている。
「また何も言わねぇよ、あの坊ちゃん」「やられっぱなしで、よくもまあ…」
彼はそれにも気づかぬふりをして、黙って花の根元を固める。
――この花があれば、いつでも私のことを思い出せるでしょ?
泣かず、怒らず、ただ水仙に、彼女の姿を重ねていた。
(兄上は、どうしてそんなふうにしか生きられないのだろう)
それでも劉徳は、宮中近くの射場にて毎朝の弓の鍛錬を欠かさなかった。母・孫尚香譲りの技術と集中力により、その腕前はすでに誰もが舌を巻くほどだった。
ある日、いつものように矢を放っていた時、劉禅が現れた。
「よぉ。まだそんなことやってるのか? お前、小さい頃、怖がって馬にも乗れなかったじゃないか。それに、今でも剣の一本も握れないんだろう」
軽く笑いながら放たれた言葉が、劉徳の胸に刺さった。
事実だった。劉徳は生まれつき握力が弱く、青銅の剣すら満足に扱えなかった。何度も稽古に挑戦したが、柄を握る手はすぐに痛み、振り下ろそうとすれば掌が悲鳴を上げた。幾度となく武器を手放し、侍従の前で恥をさらした。
「剣を握れないようなやつに、大切な人を守る資格なんてねえよ」
軽く吐き捨てるような劉禅の声が、静かな庭に響く。
劉徳は知っていた。剣を握れぬ男が、この乱世で何の役に立つのかと、陰で言われていることも。
そのたびに、心が沈んだ。力なき者が、国を守るなどできるのかと、自問する夜もあった。
だが、それでも彼は逃げなかった。
剣が握れぬのならば、弓をつがえ、矢を射る。敵を薙ぐ力はなくとも、遠くからでも民を守れる手があると信じて。弓は力ではなく、静けさと正確さの武器だ。何よりーー自分のような者にも、戦う術を与えてくれるものだった。
劉徳は何も言わず、矢をつがえた。
そして、まっすぐに的の中心へと射抜いた。音もなく、しかし確かに、矢は突き刺さった。
それでも、劉禅は口の端を吊り上げる。
「ふん、遠くから撃つだけの術なんて、実戦じゃ役に立たないさ。どうせ、お前には最前線なんて無理だろ」
それでも劉徳は答えなかった。
剣を振るえぬ自分を、誰よりも知っているからこそ、言い返す言葉もない。ただ、的から目を離さず、次の矢をゆっくりと引き絞った。
その瞳には、悔しさも、諦めも、憧れも、すべてが宿っていた。
一方、兄の劉禅はというと、学問を怠り、運動もせず、日々の大半を娯楽に費やしていた。
ある日、劉備はついに堪えかね、厳しい声を上げた。
「阿斗、お前は何故いつも怠けるのだ。蜀漢の未来を背負う者として、覚悟を持たねばならん」
劉禅は、少し視線を逸らしながら、形だけの恭しい口調で応える。
「申し訳ありません、父上。皇子としての自覚を持ち、学びを重ね、成長したいと存じます」
そこで言葉を区切り、彼は静かに、しかし刺すような一言を続けた。
「ですが、父上、私は既に十五歳になりました。どうして皇太子には任じていただけないのですか」
劉備の眉間に深い皺が寄る。
「お前が努力を欠いているからだ!」
その言葉に、劉禅の表情は一瞬こわばったが、すぐに不満の色を宿し、無言で踵を返した。
背を向けるその姿からは、父の叱責よりも、自らの不遇を嘆く思いが滲んでいた。
その夜、劉備は庭に一人で出て、北斗七星が輝いているのを見つめた。
「阿斗という名前は、亡くなった甘皇后が北斗七星を飲み込む夢を見たからこそ名付けたのだったな」
「ああ、朕は阿斗の育て方を誤った。阿斗は、長子だが、これといった才能もなく、皇帝の器にない。もし阿斗が立派に成長していたのなら、蜀漢の運命も変わったかもしれない」
劉備はため息をついた。六十歳を迎えた劉備は、もう先が長くないことを悟っていた。
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