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決戦の時

前回のあらすじ

劉備は張苞を讃えて将軍に任じるが、命を懸けて救った黄忠には褒美を与えず、老将の胸に苦い思いを残した。

やがて始まった夷道攻略戦で、黄忠はなお奮戦し、壮烈な最期を遂げる。

張苞は恩人を失った痛みに打ちひしがれながらも、その志を継ぐと心に誓った。

 戦を始めて、約一年が経過しようとしていた頃

 劉備は孫桓の陣に近づくと、馬上から遠くを見渡した。山の稜線は陽炎(かげろう)に揺れ、草いきれと土埃が漂っている。

「……孫桓の軍を窮地に追い込み、陸遜をおびき出さねばならぬ」

 そのため、夷陵から夷道へと続く百里の街道に、柵を連ねて大規模な陣営を築いた。壮麗な柵列は山並みに沿って延々と続き、蜀軍の堂々たる威勢を見せつけるかのようだった。


 その中で兵たちの間に油断の気配が広がり始めていた。

「陸遜など臆病者だ。いつまで経っても出てこぬ」

「大軍を率いながら、こちらを恐れて震えておるのだろう」

 兵士らは口々に嘲笑した。


 しかし、劉備の表情には焦りの色が滲んでいた。

「孫桓を幾度攻めても陸遜は姿を現さぬ。孫桓は守りに徹しており、そう簡単には突破できない……どうしたものか」

 実際には、陸遜は蜀軍の長駆による疲弊を見越し、徹底した持久戦を取っていた。強大な敵を前に、決して動かず、ただ時の流れを待つ――その忍耐こそが恐ろしい策であった。


 幾度となく孫桓の軍を攻撃しても、陸遜は援軍を差し向けようとしない。そのうち、酷暑の中に野営を続ける蜀軍の疲労は日に日に濃くなっていった。


「この炎天下では兵も馬も持たぬ。陽を遮るものもなく、長期戦には不向きだ。……陣営を山林や渓谷へ移せ」

 劉備の命に、全軍はざわめいた。即座に移動の準備が始まる。


 その策を聞いた劉徳は、思わず顔色を変えた。

「――いけない!」

 すぐさま参謀・馬良のもとへ駆けつける。


「陣営を移してはなりません! 夷道の地は背後に山が迫り、陣地を分散できず、必ず密集することになります」

 若き声が切実に響く。

「それに……長江は西から東へ流れています。川沿いに東へ進軍するのは容易ですが、いざ退くとなれば船を動かすのは困難で、逃げ場を失います!」

 真剣な訴えに、馬良も表情を改めた。

「……同感だ。すぐに陛下へ申し上げねば」

 二人は急ぎ劉備の天幕へと駆け込んだ。


「陛下、陣営を移すにあたり、まず絵図を描き、丞相のご意見を仰ぐべきです」

 馬良は深く頭を下げて進言する。

 しかし劉備は険しい顔で手を振った。

「その必要はない」

 張りつめた空気の中、若き劉徳は一歩前へ進み出て、声を張った。

「陛下、一つの考えにお頼りになるのではなく、広く臣下の知恵をお聞き入れになれば、より確かな道が見えてくるかと存じます」


 劉備は目を細め、黙って劉徳を見つめた。まだ成人にも満たない子が皇帝である父へ堂々と意見する。その姿は頼もしくもあり、一種の反抗にも見える。

 馬良も重ねて進言した。

「陛下、先を急がれるお気持ちはわかります。しかし……かつて曹操から漢中を奪おうとした時、周羣(しゅうぐん)の進言を聞き入れず、呉蘭(ごらん)雷銅(らいどう)を無謀に出撃させ死なせてしまいました。結局、漢中は得たものの、住民は曹操に移されていて空虚な勝利にすぎませんでした。あの痛恨を二度と繰り返してはなりません」


 その言葉に、劉備の胸中に暗い記憶がよみがえる。己の独断が招いた悲劇――。


 天幕に重苦しい沈黙が落ちた。

 やがて劉備は長く息を吐き、眉をゆるめて小さく頷いた。

「……なるほど。確かにそなたらの言う通りだ。諸葛亮の意見を求めよう」


 そう言うと、劉備は机の上に地図を広げ、陣営の配置を描き始めた。


 その時だった。

「――敵襲!」

 陣の外から慌ただしい声が響く。陸遜自ら一軍を率い、蜀の陣営へ襲いかかってきたのだ。


「馬岱、出番だ!」

 劉備の声に、馬岱は即座に馬を駆ける。


「我こそは錦馬超の甥、馬岱である! 陸遜、出てこい!」

 白刃がきらめき、馬岱は兵を率いて正面から敵を打ち払った。蜀軍の奮闘により、陸遜はあっさりと撃退され、被害はほとんど出なかった。


「見よ、陸遜など所詮その程度よ」

 兵士たちの間に嘲笑が広がり、蜀軍の油断はさらに増した。


 ただ一人、劉徳だけが重苦しい胸騒ぎを覚えていた。

(……陸遜には、必ず企みがあるはずだ)


 しかし、その正体をつかむ術はまだなかった。


 やがて、諸葛亮からの返答を待たぬまま、蜀軍の陣営は次々と山林地帯へと移されていった。


 鬱蒼とした森を切り開き、急流の谷に橋を架け、兵士らが汗に濡れながら柵を築く。日中は蝉の声が耳をつんざき、夜は湿気を帯びた霧が視界を覆った。


「見よ、この堅固な陣形を。これならば孫桓の軍を押し潰すこともできるし、持久戦も容易だ」

 劉備は自信に満ちた声で述べた。


 しかし――その誇らしげな言葉を、劉徳は黙して聞いていた。胸の奥に広がる不安は、決して消えることはなかった。

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