佷山の惨事
前回のあらすじ
阿義は伊籍から、自分が劉備の子・劉徳であるという秘密を知らされる。
呉軍の荊州侵攻により、たった一人佷山を離れ成都へ向かうこととなった。
日が落ち、闇が街を包み始めていた。
「……さあ、そろそろだな」
伊籍先生、黄鈴、そして私――三人は、人目の少ない裏門の脇に身を潜め、馬車を待っていた。冷たい風が吹き抜け、土の匂いに、黄鈴からもらった水仙の匂いがかすかに混じる。けれど胸の奥には、言葉にできない不安が広がっていた。嫌な予感が、すでに私を締めつけていたのだ。
「阿義、もし何年経っても再び会えぬことになった時のために……これを渡しておこう」
伊籍先生は小さな錦の袋を、そっと私の手に置いた。
「そなたが人生で道に迷い、行き先を見失った時に開けるのだ」
「……分かりました。でも、またすぐに会いに行きますよ」
「ははは……それは嬉しいことだ」
そのとき、街の中心から叫び声が響いた。
「なんだお前は!」
「きゃーっ、助けて!」
「おい、命が惜しければ、武器を捨ててひざまずけ」
怒号と悲鳴が闇を震わせる。乾いた衝突音、倒れる音、何かが打ち砕かれる鈍い響き――。胸が凍りつく。
(呉兵が侵入したのか……?)
「先生!街が襲われています。助けに行かねば!」
思わず叫ぶ私に、伊籍先生は表情を崩さぬまま、森へと続く小道の奥を見つめた。
「大丈夫だ。すぐに馬車が来る」
「違います!このままでは皆が――」
そのとき、低く鋭い声が夜を裂いた。
「十歳ほどの小僧だ。逃すな」
続いて、はっきりとした命令が聞こえた。
「……劉備の子を見つけ出せ!」
(……僕だ)
全身から血の気が引いた。
街では面布で顔を覆い隠した黒衣の影が民家に押し入り、抵抗する者は次々と地に伏していく。護衛の兵でさえ歯が立たず、混乱は一気に広がった。闇に紛れる彼らは正規の兵ではない。音もなく屋根を駆け、塀を越え、獲物を狙う獣のように忍び寄る。何者かに命じられた刺客に違いない。
「僕が行けば、止まるかもしれない。僕のせいでみんながーー」
「愚かなことを言うな!」
伊籍先生の声が鋭く遮った。
「そなたは主君のご子息ぞ!ここで命を落とさせるわけにはいかぬ!」
だが騒ぎは止まず、黒い影の足音が近づいてくる。
「――いたぞ、劉備の倅だ!」
闇を裂いて無数の影が押し寄せる。その時――。
「劉徳様に手出しはさせぬ!」
横から躍り出たのは、趙統の叔父・趙賢であった。刀を振るい、迫る影を次々となぎ払う。
「今のうちにお逃げを!」
稲妻のように刀身が走り、黒衣が二つ、三つと沈む。
私はその背に一瞬、希望を見た。
趙賢の刀が振り下ろされた何者かの戟を受け止め、火花が散った。しかし――。
受けきれたはずの刃はきしみ、力を失って手からこぼれ落ちる。
「ぐはっ……!」
胸を深く貫かれ、趙賢の身体が崩れ落ちた。その視線の先に立っていたのは――昼間、門で目にした女と、その隣に立つ少年だった。だが、今の彼女は昼間の姿とはまるで違っていた。
黒金の鎧に身を包み、紅の羽根飾りを揺らす女。鋭い眼差しは獲物を見据える猛禽のごとく、口元には冷ややかな笑みが浮かべている。長い柄の先には尖った矢じりがつき、そのすぐ下に三日月状の刃が付いた武器を手に持っている。
その隣に立つ少年もまた、鋭い刃を構えていた。鎧を着ているからか、門で見たときよりもずっと大きく見える。顔立ちはまだ幼さを残しているのに、肩幅は広く、背丈も大人に劣らぬほどたくましい。
「逃すと思うか、小僧」
女の声は冷たく、残酷であった。彼女が踏み出すごとに、兵たちが薙ぎ倒される。裏門の守りも次々と弾き飛ばされ、抗う術はなかった。
(ただ者ではない、誰もこいつを倒すことはできないのだ……)
黒衣の一団は増えるばかり。塀の上、屋根の影からも次々と現れ、じりじりと取り囲む。夜気そのものが敵の群れになったように、息苦しい。
(だめだ……もう、ここには先生と黄鈴しか……! 誰か……助けて……!)
「馬車が来たぞ!」
先生の叫びとともに、轟音を立てて馬車が裏門に滑り込んできた。
「逃すか!」
女が戟を構える。
「遅くなりました――劉徳殿、急ぎお乗りください!」
御者が声を張り上げる。車体は木で組まれ、黒光りする車輪が二輪がついている。急ごしらえの小型なものであるため、子ども一人を乗せるのがやっとだった。これ以上誰かが乗れば速度が落ち、追っ手に捕まってしまう。
馬を森へ隠して、走ってきたであろう護衛三人が盾を構え、私の前に壁を作った。
「ですが、このままでは皆が死んでしまう……僕だけ逃げるなんて――!」
三人の護衛は、命を賭して私を守らんと、戟の女の前に身を投げ出した。
胸が張り裂けそうで、足が地面に縫いつけられる。
「私たちのことはいいから、早く!」
黄鈴が振り返って叫ぶ。目は潤みながらも、まっすぐに私を押し出す。
「あなたは行かなくちゃいけないの! この国には、あなたが必要なんだから!」
「でも……!」
「いい? 私も先生も、あなたに生きていてほしいから、ここに残っているの! そうじゃなければ、こんなことになる前にとっくに逃げていたわ!」
声は震えているのに、不思議と強く響いた。
「だからお願い……行って。生きて。いつかまた会えるから――!」
「行け、阿義!」
伊籍先生の掌が、背を強く押した。体が前へ投げ出される。私は泣きながら駆け、荷も取らずに馬車へ飛び乗った。ただ、先生がくれた錦の袋と一本の水仙を握りしめて。
涙が滲み、視界が揺れる。
(くそっ……どうして……! 僕のせいで、先生が、黄鈴が……!)
最後に振り返ったとき――。
伊籍先生は最後まで私を庇い、あの大柄な少年に斬られた。黄鈴の悲鳴が夜を切り裂いていた。
「いくぞ! はっ はっ」
御者がすばやく鞭を打ち、馬車が走り出した。車輪が地を叩き、身体は何度も揺さぶられる。胸を押し潰すような虚無感と罪悪感に呑まれ、息が苦しくなる。
(僕のせいだ……僕さえいなければ……!)
頭の中で声が響き続ける。十歳の私には、背負いきれない重さだった。
背後から足音と怒号が聞こえてくる。しかし、刺客は馬を持っていなかったため、誰も馬車に追いつけまいと諦めた。やがて足音は遠ざかり、ただ車輪の響きだけが残った。
「もう安心ですよ。劉徳殿」
「……はい、ありがとうございます」
馬車の小窓から外を覗くと、ただ真っ暗な闇が広がっていた。まるで、自分の未来を見ているかのようだった。
その後、佷山がどうなったのか――私は知らない。しかし、黄鈴も、街の人々も、皆あの夜で命を落としたに違いない。
森を過ぎ、山を越え、馬車は成都に到着した。
地に足をつけて顔を上げた瞬間、ちょうど朝日が昇った。
空を染めるはずの太陽は、なぜか濁って見えた。あれほど醜く、胸に突き刺さる朝日を、私は見たことがない。
人々はそれを「希望の光」と呼ぶが、この時の私にとって、それは絶望を照らし出す目障りな光でしかなかった。
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