あの夜を知らずに
前回のあらすじ
劉徳は、戦で両親を失った少女・黄鈴と出会い、共に日々を過ごす中で、互いの孤独を癒し合っていく。
笑顔を取り戻した彼女と交わす小さな約束や、射場や庭での思い出は、幼き二人に確かな絆を刻んだ。
しかしその温かな時間は、戦乱の世の運命によって儚く断ち切られることになる。
私が黄鈴と出会って一年余りが経った頃、待ち望んでいたその時がついに訪れた。だが――あのような事実を知ることになろうとは、この時の私は夢にも思っていなかった。今なお、その場の空気を鮮明に思い出すことができる。
伊籍先生が私を呼び寄せ、静かに告げた。
「阿義――。時が来た」
その声音はこれまでに聞いたことのないほど重々しく、胸が締めつけられるような響きを持っていた。
「そなたは、もうすぐここを去ることになる」
「え……?」
思わず息が詰まり、言葉が出ない。
遊び、学び、暮らしてきたこの場所から離れる?なんで。
「なぜですか……?」
私の問いに、先生は深く息を吸い、目を閉じた。そしてゆっくりと、重く芯のある声で言葉を紡ぐ。
「そなたの真の名は――劉徳。漢中王、劉玄徳の御子である」
雷が落ちたような衝撃に、身体が凍りついた。
私が……劉玄徳の子? そんなはずはない。
私は阿義。ただの子ども。佷山に住む一人の民だ。
「そんなの嘘に決まってます……!」
声にならない声を絞り出す。
伊籍先生は、私の動揺を静かに見つめながら続けた。
「阿義という名は、私が与えた幼名だ。これまで秘してきたのは、父・劉備の意向、そして、そなたを守るためでもある……許してくれ」
許してくれ、と言われても頭が追いつかない。
ここで友と走り回り、汗まみれになって笑った日々。
畑の手伝いで手を荒らしたこと。
学問と向き合い、先生の厳しい叱責に泣きそうになったこと。
そんな私が、天下を分ける君主の息子なのか?
「では……なぜ、私はここに……なぜ先生が……?」
しどろもどろに問う私に、伊籍先生は目を閉じ、遠い記憶を呼び起こした。
* * *
十年前、荊州。
「伊籍よ。そなたに頼みがある」
劉玄徳の声音は低く、しかし揺るぎない力を帯びていた。
「そなたには佷山に家があるな。私は今後、益州へ遠征に向かう。それゆえ、関羽と共に荊州を守ってほしい。そして……もう一つ」
劉玄徳は懐から幼子を抱き上げ、そっと差し出す。
「この子――劉徳を、そなたに託したい」
「……!」
伊籍は思わず息を呑んだ。だがすぐに膝を正し、顔を伏せる。
「はっ、承知いたしました」
「長男の阿斗は私と共に戦場に連れてゆく。だが、この子は……そうはできぬ。母は我らを裏切り、逃げ去った。阿斗をも奪おうとしたのだ。いずれ、この子は朝廷に居場所を失うだろう。母親のせいで、そんな環境で育つのは、あまりに不憫だ」
劉玄徳の声に、一瞬の哀しみがにじむ。
「だからこそ……安全な郊外で、健やかに育ててほしい。民の暮らしを知り、苦労を知るのだ。些細なことにに感謝し、人を思いやる心を持ってくれるように。出生も身分も、決して明かしてはならぬ。……頼めるか」
「必ずや。この命にかえても」
「うむ……。そなたならば、と信じている」
こうして私は、この子と共に歩む宿命を負ったのである。
* * *
伊籍先生は瞼を開き、私をまっすぐに見据えた。
その眼差しには、十年という歳月を背負った覚悟の炎が宿っていた。私はただ震え、言葉を失いながら、その視線を受け止めるしかなかった。理解は追いつかない。ただ胸の奥がざわめき、幼き心は嵐のように揺れていた。
「それでだ、阿義――いや、劉徳。なぜ今日になってこのことを明かしたか、分かるか」
先生の声は低く、重く、胸に響いた。
私はかすかに首を振ることしかできなかった。
「呉の孫権が、呂蒙・陸遜を密かに荊州へ差し向けた。関羽殿に背を向けた南郡太守の糜芳、公安の士仁らはすでに寝返り、降伏したとの情報が密かに入った。――ここ佷山も例外ではない。このままでは、呉軍の兵火に巻き込まれるかもしれん。そんな危険な場所に漢中王の息子であるそなたを置いておけないと判断した。事は一刻を争うのだ」
頭が真っ白になった。人も、家も、街も、すべてが炎にさらされるのか。
そのとき、外から急ぎ足で駆け込む声がした。
「伊籍殿!」
入ってきたのは漢中王の使者であった。額には汗がにじみ、息も荒い。
「総督呂蒙はすでに公安と南郡を制しました。佷山に迫るのも時間の問題にございます」
「……そうか。思っていたより早いな」
「明日の夜、馬車を用意いたします。劉徳殿を成都までお送りせよとのご命です」
「承知した。必ずやお守りしよう」
すべてが急であった。悲しむ暇も、考える余地もなかった。
その夜、私は眠れずに天井を見上げていた。頭の中で言葉が渦を巻く。
(ここを離れる……? 成都へ? 君主の子として……?)
胸が詰まり、何度も深呼吸を繰り返した。
翌朝。荷をまとめながら、私は静かにこの家での日々を振り返った。
伊籍先生に叱られ、笑わされ、学び、友と遊んだ庭。
黄鈴と過ごした、かけがえのない時間。
あの生活すべてが、今日で終わるのだと思うと胸が締めつけられた。
「先生は……一緒に来てくださらないのですか」
震える声で問うと、先生は深く息を吐き、静かに答えられた。
「ああ、すぐには行けぬ。私にも果たすべき務めがある。だが、いずれ必ず顔を出そう」
私は唇を噛み、ただうなずくしかなかった。
街を巡ると、人々の顔はどこか険しく、殺伐とした空気が漂っていた。呉の侵攻は皆に知れ渡り、笑い声は消え、足早に行き交う人ばかり。
お世話になった家々に別れの挨拶をして回り、城門近くでちょっとした騒ぎを目にした。
「止まれ、その荷は何だ」
兵士の鋭い声が響く。
振り返ると、堂々とした体格の勇ましい女性と、その息子だろうか、私と同じくらいの年の少年が荷を抱えていた。
「南郡太守から県令への贈り物だ。これを見よ」
女が取り出したのは手形と命令書。
「……確かに。通れ」
兵は渋々身を引いた。
(皆、気を張りつめている……。昔の佷山は、もっと穏やかだったのに)
そんな思いが胸をかすめた。
私は趙統の叔父、趙賢さんにも挨拶をした。
「今日、この街を去ることになりました。今までありがとうございました」
「そうか……。達者でな、阿義」
その眼差しはすべてを知っているかのようだった。きっと、この人は私の素性を知っていたのだろう。
夕暮れが迫り、家に戻ると――黄鈴の姿があった。
声をかけようとしたが、胸がつまって言葉が出ない。
やっとの思いで口にした。
「……僕、今夜ここを去らなければならないんだ」
彼女は静かにうなずいた。
「知ってる。昨日、先生から聞いたよ。……あなたの身分のことも」
驚きに言葉を失う私に、黄鈴は一度外へ出て、すぐに戻ってきた。
手には一本の水仙があった。
「はい、これ」
「……ありがとう」
「ほんとは摘むつもりなかったんだけど……阿義に渡すにはこうするしかなかった。……この花を見れば、いつでも私のことを思い出せるでしょ?」
その言葉に胸が熱くなり、涙があふれた。
「これからどんなことがあっても、また必ず会おう。そして……そしたら結婚しよう」
絞り出すように言うと、黄鈴は少し照れたように笑い、頷いた。
「うん……約束だよ」
二人は小指を絡めた。
夕陽の中、その小さな約束が、私の胸に永遠に刻まれた。
だが、永遠を信じたこの日こそ、最も儚いものであった。この後、全てが崩れ去ることも知らずに。
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少し文章量が多くなってしまいました。次が過去編ラストの予定です。お楽しみに。