伊籍先生
前回のあらすじ
趙統は忠義と友情の間で揺れつつ、夷陵の街で劉徳と再会した。二人はすれ違いを抱えたまま、故郷・佷山を訪ねることとなった。
私は、生まれ落ちた時から、宜都郡 、佷山県の一角にある邸に身を置いていた。
その屋敷におられたのが、伊籍先生である。私にとっては恩師であり、父にも等しい存在であった。物心ついた頃から常にそばにあり、先生のいない日々など想像すらできなかった。
当時の私は、自分が皇子であることなど夢にも思わず、ただ平民の子として、無邪気に駆け回っていた。隣家に暮らしていたのが趙統である。趙雲殿の兄、すなわち叔父さんのもとに預けられていた彼とは同じ年で、幼馴染として朝から晩まで遊び続けた。
時には、関羽殿の息子である関平殿や関興が立ち寄り、我らと共に竹馬を競い、川で魚を追った。
また、先生の友である馬良殿や馬謖殿が来訪され、机を囲んで戦術や兵法を語ってくださることもあった。幼き私にとっては到底理解しきれぬ話であったが、胸の奥に火を灯すような時間であった。
佷山の街は、当時まことに活気にあふれていた。王位に登られる前の陛下の領地はまだ荊州に限られており、多くの将兵が遠征に赴くたび、妻子を親族や友人に託してゆく。そのため、この地には人が集い、賑わい、また人々の暮らしの苦楽がすぐ目に映った。私は民の子と同じように田畑を走り、近所の子らと蹴鞠や独楽で遊んで、笑い転げた。
ある時、畦道で蹴鞠に夢中になっていた私は、転んで苗を踏みつぶしてしまい、伊籍先生にこっぴどく叱られた。
「阿義よ、学ぶ者が民の苗を駄目にしてどうする!」
しゅんと項垂れた私を見て、先生はなお厳しく言い放った。だがその後、私を慰めようとした趙統の前で、伊籍先生がぽつりと漏らしたのを聞いた。
「実のところ、わしも若い頃は蹴鞠でよく叱られたものだ」
そう言って苦笑する先生の横顔を、私は忘れられない。厳格に見える師もまた、同じように駆け回った少年だったのだと知ったからだ。
この街での生活は決して楽なことばかりではなかった。
飢えに耐える者、破れた衣を身にまとい道端に座り込む者、草鞋を売り糧を得る者。幼いながらに、私は民の暮らしがいかに厳しく、またその営みがどれほど尊いものかを知った。
そのような状況で、伊籍先生は佷山に学問所を開き、子供らに儒教の教えをはじめ、多くの学問を授けておられた。先生はかつて劉表に仕え、のちに陛下に帰順して関羽殿とともに荊州を守った。その働きの一環としてこの地に住まわれ、人々に学問を施されたのだ。身分や家柄を問わず、誰にでも分け隔てなく接されるその姿勢は、私の心に深く刻まれた。いま私が誰に対しても心を開き、言葉を尽くそうとするのは、すべて先生の教えの賜物である。
学びの場において先生は厳しくもあったが、決して驕らず、どんな問いにも誠実に応えてくださった。
「刀で切り結ぶより、言葉で人を動かす方がはるかに難しい。だが、その難しさを恐れぬ者こそ、真に国を守る者となる」
そう諭された言葉を、私は今も忘れない。かつて孫権殿に使者として赴いた時、その機知ある応対に深く感嘆されたと聞いたが、先生は決して誇らず、「民の安寧のため当然のこと」とだけ仰った。
学問だけでなく、剣を執らせていただいたこともある。だが、私はどうしても剣を振るうことができなかった。その代わり、弓を引いたときには、不思議と矢が自然に的を射抜いた。
その姿を見て、先生は優しく微笑まれた。
「人にはそれぞれの強みがある。刀を握れぬなら、弓を極めればよい。己の力を知り、それを伸ばすことこそ大切だ」
その言葉に胸を打たれた私は、以来、毎日欠かさず弓を練習するようになった。気がつけば、確かな腕前となっていた。
もし先生がいなければ、私は武の才を持たぬ者だと早々に諦めていたに違いない。道を見出すきっかけを与えてくださった先生の偉大さと、その恩に、今なお心から感謝している。
すべてが宝のような日々であった。先生と過ごした学びの時も、趙統と草原を駆けた日も、関平殿らと声をあげた夕暮れも。あの佷山こそが、私の故郷であり、心の原点である。
――もっとも、年を重ねるにつれ、私はどうしても知りたくなった。私の本当の父は誰なのか。私はいかなる家に生まれ、なぜ今ここにいるのか。
それを知るのは、伊籍先生だけであろう。あるいは、馬良殿や関平殿も承知していたのかもしれぬ。だが、問いかけるたび、先生は「時が来れば話そう」と微笑まれるばかりで、決して答えを与えてはくださらなかった。
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