夷道の戦い
前回のあらすじ
劉備は諸将の反対を退け、張苞に五千の兵を与えて孫桓討伐を命じた。
張苞は父・張飛の志を胸に、冷静さを誓いつつ意気高らかに初陣へと向かう。
はたして、張苞の仇討ちは叶うのか?
数日後。
「お前たちはここで待機せよ」
張苞は孫桓の陣の手前の茂みに軍を潜ませ、低く命じた。
「我が先に状況を探ってくる。合図があれば突撃だ」
言うやいなや、精鋭百人を率いて静かに敵陣へと忍び込む。
夜の帳が下り、陣営は松明の赤い灯りに照らされていた。張苞は柵を越え、影のように潜む。巡回の兵を素早く斬り伏せ、息をする間もなく草陰に引きずり込んだ。
「……ここは武器庫か」
低い独り言と共に、張苞は戸を押し開けた。棚には槍、剣、弓がぎっしりと並んでいる。
「良質な武器が多いな」
その中に、異様な存在感を放つ一本の矛があった。
刃は蛇のようにうねり、黒鉄の柄は重厚な光を宿している。
(この大きさ、この形、この色……まさか……!)
「これは父上の丈八蛇矛ではないか!」
瞬間、張苞の胸を熱いものが駆け上がった。幼き日、父・張飛がこの矛を振るい、敵をなぎ倒す姿を目にした記憶が蘇る。
「そうだ……父を裏切り殺した張達、范彊。奴らは呉に投降したはず。そして今もこの陣内に潜んでいる!」
張苞は矛を手に取り、武器庫の戸口から大声で叫んだ。
「聞け!我が名は張苞、燕人張飛の子なり!父を殺した張達、范彊、いるならば出てこい!」
突如として轟いたその声に陣営は総立ちとなった。張苞の声に孫桓の軍は気づき、笛を鳴らした。
「敵襲だ!」
「蜀軍だ、戦え!」
怒涛のように押し寄せる兵。だが張苞は矛を振るうごとに数人を薙ぎ倒し、血しぶきが松明の灯を赤黒く染めた。
「呉の力はこの程度か!大将、出てこい!」
挑発の咆哮が夜空に轟く。だが現れるのは雑兵ばかり。
その時、待機していた張苞の五千の兵も突入し、陣営はたちまち修羅場と化した。
一方、孫桓は急報を受け、帳内で軍議を開いていた。
「張苞には誰も歯が立たぬ。どうするべきか」
沈黙を破り、進み出たのは二人の将。
「我らが討ち取ってみせましょう」
それは、かつて張飛を裏切った張達と范彊だった。
「よかろう。今こそ呉への忠義を示せ」
二人はうなずき、血走った目で戦場へと向かった。
「呼んだな、張苞!」
炎に照らされ、張達と范彊が現れる。
「裏切り者ども……ようやく顔を出したか!」
張苞の怒声が唸る。
「裏切り?それは誤解ですぞ。お前の父上こそ我らを死地に追い込んだではないか」
范彊が嘲笑を浮かべた瞬間、張達が一気に襲い掛かる。
「隙だらけだ!」
丈八蛇矛が閃き、張達の首は空に舞った。
「なっ……!」
范彊の顔が蒼ざめ、無意識に後退する。
「愚か者め。一度戦うと決めたのなら正々堂々戦わんかい」
張苞は猛追した。雑兵を蹴散らし、火の粉の舞う戦場をひた走る。
五分ほど追い立てられた范彊は、不意に振り返り剣を振り上げた。だがその刹那、丈八蛇矛が腹を貫いた。
「かかったな……!」
血を吐きながら、范彊は薄笑いを浮かべる。
「なぜ笑う」
苛立ちのまま、張苞は矛を引き抜き、腹を裂いた。
その直後、気付いた。
(……しまった!)
周囲にはおびただしい数の呉兵が立っていた。いつの間にか百騎以上の兵が円を描き、矛先を一斉にこちらへ向けている。
張苞の背筋に冷汗が流れた。全身に重苦しい緊張がのしかかる。
「ここまでか……!」
その時、地を揺るがす蹄の音が闇を切り裂いた。
「我が名は黄忠!蜀の五虎将軍なり!」
白髪をなびかせ、老将が堂々と馬を駆る。背後には千の兵。
雨のような矢が放たれ、呉兵が悲鳴を上げて倒れ伏す。包囲は瞬く間に崩れ去った。
「黄忠殿……なぜここに!」
「問答無用!まだ死にたくなければ戦え!」
老将は短く叱り飛ばし、再び弓を引く。矢は正確に敵の眉間を射抜いた。
張苞は息を呑み、そして矛を構え直した。
「このご恩は生涯忘れませぬ!」
こうして二人は乱戦を突破したが、孫桓の陣にはなお数千の兵が控えており、大将に迫ることは叶わなかった。
「……仕方ない。退け!」
張苞と黄忠の軍勢は無念を抱えつつ撤退した。
退いた後、張苞は息を荒げて問う。
「黄忠殿、なぜこの場に?」
「馬良に夷道の様子を探れと言われたのだ。……わしが遅れていたら、お前の首はもう地に転がっておったぞ」
黄忠は若武者に叱責する。
「……仇討ちに囚われ、周りを見失っておりました。申し訳ございません」
「初陣ゆえ許す。だが次はないぞ」
老将の眼差しは厳しくも温かい。
「肝に銘じます」
張苞は深く頭を垂れ、胸の奥で誓った。次は必ず、父の名に恥じぬ勝利を掴むのだと。
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