4. まずは家計の把握から
「神は自分の中におわします。目を閉じて、神の御力を感じて下さい。ゆっくりと息を吸って、吐いて。己の中にある神の器を大きく、力強く育て、成ったものこそ神の愛し子となるのです。」
神聖な空気の満ちる聖堂に、澄んだ音色のようなシスターの声だけが響いている。
……いや怖い怖い怖い、なにこれ?
絶対にFIREしてみせる! と意気込んだはいいが、今日は教会で定期的に行われている礼拝があるとの事で、カインと共に参加している。
まだ成人していない子供は必ず参加しなければならないらしい。
教会は街の中心に位置していて、前世であれば文化遺産になっていそうな荘厳な建物だった。
繊細かつダイナミックな彫刻や色彩豊かで優美なステンドグラスに内心大興奮していたのもつかの間、礼拝が始まると、シスターによる怪しげな宗教の儀式のような語りが始まり、もうかれこれ三十分ほど経っている。
これ、やばいやつ? 子供に強制参加させて洗脳していたりする?
いかん、お兄ちゃんは私が守らなければ……!
私の今世における良心、一筋の希望の光、お兄ちゃんはすでに天使なので神の愛し子なんかにはさせません!
ふんす、と意気込んでいたが、シスターの声が心地よすぎてだんだん眠くなってくる。
隣の兄をちらりと盗み見ると、こくりこくりと舟をこいでいる。まわりを見回してみると、ほとんどの子が夢の世界へと旅立っていた。
この様子だと洗脳は大丈夫みたい、と心の中で苦笑する。
結局、礼拝という名の謎の儀式はその後も一時間程続いた。
私もいつの間にか眠ってしまっていたようだ。
仕込み等で我が家の朝は早く、まだ幼児の私には睡眠不足気味だったので気分はスッキリ爽快。子供にはちょうど良いお昼寝になったみたいで、周りの子たちも元気いっぱいだ。
子守歌のごとく非常に良い声で眠りにいざなってくれたシスターが、にこにこと慈愛に満ちた笑顔で子供たちを見送っている。
色白で、ふわふわとした雰囲気を持つ優しそうな若い女性で、とても美人だった。
あと、修道服の上からでもわかるたわわな果実をお持ちだ。
参加者のほぼ全員が話の内容を聞いていなかったと思うのだが、シスターの表情を見る限り気分を害した様子はなかった。
……言ってることはめちゃくちゃうさん臭いんだけど、悪い人ではなさそうかな?
「おにいちゃん、かみさまってなんてなまえ?」
「えっ、神様は神様だろ。他に名前なんてあるのか?」
教会からの帰り道、カインに尋ねてみるとそんな返事が返ってきた。
神様に名前がない?
異世界だから神様も本当にいるのかと思ったけどそうじゃないのかな?
中世ヨーロッパでは教会が絶大な権力を持っていて国家と対立していたと前世で習ったような気がするけど、そういうのがここでもあったりするんだろうか?
でも、あの美人なシスターさんは偉そうな感じは全然しなかったなぁ。
そんなことを考えながらカインと手をつないで石畳の道を家に向かっててくてく歩く。
さぁこの後は、今日も今日とて、家業の飯屋で労働である。
「ぱんのおかわり、です」
ランチタイムでガヤガヤとにぎわう店内で給仕のお手伝いをしながら、今世でのFIRE計画について頭を巡らせる。
FIREへの道のり、ステップその一、家計の把握!
まず家に今どのくらいの金融資産があるのか確認しなければ。
うちって、貯金とかちゃんとしてるのかな?
この店の収支も知りたいけど、簡単に子供に教えてくれるだろうか。
というか、帳簿とかつけてるところ、見た記憶がないんだけど。
子供が寝た後、夜にそういう作業をしているんだと思いたい。
黙々と給仕をしながら家計について考えていると、母と常連客のやり取りが耳に入ってきた。
「おかみ、ごちそうさん! 最近はこのあたりの店じゃどこも値上がりばっかりだが、ここは昔っから同じ値段で食えるから助かるよ!」
「違いねぇ! こづかいは増えねえのに飯はどこも高くってよぉ!」
「ハハハ! うちの店はじいさんばあさんの創業から同じ値段ってのが売りだからね! これからもごひいきに頼むよ!」
……マジかぁ。うちの店って周辺の店に比べて混んでるなとは思ってたけど、それが理由かぁ。
繁盛してるのはいいことだけど、物価が高騰してるのに商品の値段が昔からそのままなら、もしかして利益はそんなに出てないんじゃない?
原価率もどのくらいか知りたいなぁ。
さて、どうやって調べるか……。
ランチタイムの就業中、幼児の私が家族に怪しまれずにこの家の台所事情を知る方法について色々考えを巡らせたものの、これといって思いつかず、休憩時間になってしまった。
厨房でみんながまかないスープをほうばる中、ダメ元でとりあえずストレートに尋ねてみることにした。
「おかあさん、ちょきんってどのくらいあるの?」
私からそんな言葉が出てくると思わなかったのか、母が目を丸くしている。
「貯金!? あんたどこでそんな難しい言葉を覚えてきたんだい!?」
「……おみせで、おきゃくのおじさんがいってた」
嘘だけど。
「客の会話から覚えたのかい? はぁ~、子供ってのは、本当にどこで何を仕入れてくるか予想もつかないね……」
実際に店の客達の間では様々な世間話が飛び交っていて、お金の話題が聞こえてきてもおかしくはないので、驚きつつも一応納得はしてくれたようだ。
母は私の方へ向き直り、諭すような声色で語る。
「いいかい、リリー。貯金ってのは、お金に余裕がある裕福な家がするものなんだ。うちはそうじゃないけど、家族みんな丈夫で健康なんだから大丈夫さ! 毎日一生懸命働いていれば、貯金なんてなくても生きていけるんだよ」
……そうじゃなぁぁぁぁぁぁい!
そうじゃないよ、お母さん!
じゃあ家族の誰かが急に事故や病気で働けなくなったらどうするの!?
この世界、保険とかないよねぇぇぇぇ。
うぅぅ、うち、まさかの貯金ゼロだった。
借金は、さすがにない、よね……?
「……じゃあ、ねあげはしないの? ほかのみせみたいにねあげしたら、ちょきんできる?」
「そんなに貯金がしたいのかい? う~ん、あのね、リリー。お金は確かに大事だけど、それ以上に大事なものがあるんだよ。今は大変な世の中だから、うちが値上げをしない事で助かってる街の人がいっぱいいるんだ。困ったときは助け合いさ! そういう助け合いの心は、お金儲けよりもずっとずっと大切なことなんだよ」
そう言って母はニカッと笑うと、私の頭を撫でた。
……助け合いの精神は素晴らしいけど、大変な世の中だからこそ、何かあった時の為に家族のための貯えが少しでも必要なんじゃないの?
家族よりも、街の人の方が大事なの……?
母の言葉を聞いて、「またこれか……」と思ってしまった。
前世の実家のことである。
百合の実家は地方のド田舎で、東京の大学に進学して一人暮らしをするまで、両親と三人暮らしだった。
田舎すぎて近くにスーパーもコンビニもなく、実家では小さな商店を営んでおり、近隣住民が食料やちょっとした日用品の買い物をする、その辺りではほぼ唯一の店だった。
私が小さい頃に亡くなった祖父母から親が受け継いだその店は、主に母親が切り盛りし、父親は近くの工場勤務で、私はたまに手伝いで店番をすることもあった。
その店は私が大人になり家を出てから諸事情により畳んだのだが、後から聞いた話だと、実は祖父母がやっていた時から経営状態はずっと赤字だったのだそうだ。
なぜ赤字経営を続けていたのかというと、店を畳むと車などの足がなく遠くのスーパーなどに買い出しに行くことのできない近所のおじいさんおばあさんが困るから、とのことだった。
ご近所の人たちのために、その想いは素敵な事だと思う。
ただ、店を畳んだ後も何度か里帰りをしたが、店がなくなって困っているという話は聞かなかった。
私の耳に入ってこなかっただけかもしれないが、店がないならないで、買い出しを家族や知り合いに頼んだり、配達を利用したり、方法はあるのだ。
うちの店がなくても、世界は問題なく回る。
祖父母や両親の献身は果たして意味があったのだろうか、と思ってしまった。
その話を聞いた時は、就職したばかりで給料も安く、都内の高い家賃の支払いと大学の奨学金の返済もあり、人生で一番経済的に苦しい時期だったから、余計にモヤモヤしてしまったというのもあるだろう。
だが、申し訳ないとは思うが、私は決して両親や祖父母と同じような生き方はできない。
私はいつだって自分の事に精一杯で、他人に施しを与えられるほどの余裕なんてなかった。
こんな風に考える私は、多分性格が悪いのだろう。
でも、そういう性格なんだからしょうがない、ととっくに割り切っている。
もし、前世の祖父母が赤字経営の店をさっさと畳んで私達に少しでもお金を残してくれていたら。両親が共働きをして十分に家にお金があったら。もしかしたら私の人生は全く違ったものになっていたかもしれないと想像したことはある。
でも、そんなのはただの想像でしかない。
祖父母には祖父母の、両親には両親のやりたい事や欲しいものがあり、そのために時間やお金を使うのだ。子供を優先するとは限らない。
その人の大事にする考え方を変える事は難しいし、私の考えを押し付けることはできない。
けれど、祖父母や親の生き方に沿って子供も同じように生きる必要はないのだ。
親子でも考え方は人それぞれ、相容れないことだってある。
今世の両親も決して悪人ではないが、その考え方は私のFIRE計画にとってはかなりの強敵だ。
ここから経済的自立に向けて動いていくのは骨が折れそうではある。
……ふん、高い山ほど登りがいがあると言いますからね。
いざという時には私が家族全員まとめて養えるくらいの経済力を手に入れてみせようじゃないか。
前途多難、具体的な方針は今のところ全くないけど、私は絶対にあきらめない!