第一話
「休み中は絶対に電話に出ないからな!」
鈴木は、そう同僚に言い放つと、足早に会社から抜け出した。夏を全力で楽しむ!その決意のもと、鈴木は休暇の前日までに全ての仕事を片付けたのだ。走り去る鈴木の背後で、誰かが何か言っているような気がしたが、気のせいに違いない。きっと、先祖の霊だろう。お盆だからな!
翌朝、目覚ましよりも早く起きた鈴木は、まだ陽の昇りきらない朝の空の下、自宅を出発した。
アナザーワールドツアーズ社が入るビルは、竣工当時は東洋一と呼ばれた高層ビルに入っている。見慣れた商業ビルの一角にあるはずなのに、そのフロアだけ異様なまでに洗練されていた。
まるで近未来の空港を模したようなチェックインカウンターが広がり、制服姿の案内スタッフがテキパキと対応に当たっている。
チェックインを済ませると、鈴木は「搭乗ロビー」と記された個室ブースへと案内された。
中に入ると、静かで落ち着いた照明に包まれた空間。中心にはふかふかのクッションが効いたハイバックソファが鎮座し、その横にヘッドセットが置かれている。
扉が閉まると、やわらかな音声のアナウンスが室内に流れ始めた。
「間もなく、異世界への旅が始まります。リラックスして、ヘッドセットを装着してください……」
指示通りヘッドセットを被り、ソファにもたれかかる。
心地よい重力に身体を委ねると、鈴木の意識はすうっと闇に沈んでいった。
***
焼けつくような日差しを感じて、鈴木は飛び起きた。目の前には、どこまでも続く荒涼とした砂の大地。頭上には、雲一つない青空が広がっている。
「……あれ?」
あたりを見回す。転生先は南国の海沿いのリゾート──色とりどりのパラソルと、冒険の仲間たちが待つ楽園のはずだった。だが、現実に目に映るのは、ひび割れた砂丘と、ゆらめく陽炎だけだ。
「何かの間違いだな……」
鈴木は、冷静にサポート端末を起動する。数秒後、耳元に女性の落ち着いた声が響いた。
『はい、アナザーワールドツアーズ社サポートデスク、永瀬でございます。お客様、いかがされましたか?』
「すいません、いま転生したんですが、登録した場所と違うところにいるみたいなんです」
『確認いたします……申し訳ございません。お客様は、本来“エルフィン・リゾート”に転移される予定だったのですが……どうやら同姓の別のスズキ様と、転移データが入れ替わってしまったようです』
「……え?」
『重ねてお詫び申し上げます。原因は現在調査中ですが、おそらくシステムの初期読み込み段階で、IDの参照先に誤りが……』
「そんなことより! あの、今すぐ入れ替われないんですか?今回、俺、プレミアムオプション付きで!その、……仲間に、何かあったらマズいんですが!」
鈴木の声が思わず上ずる。リゾートにいるはずのお気に入りのNPC、ユイファ。彼女は、エルフ族のヒーラーだ。他のエルフ族の例に漏れず、見惚れるほどの美形である。
ユイファとはこれまで何回も旅をして、仲間と呼べるほど仲良くなった。ちなみに、鈴木は異世界では、強力な魔剣使い“エリク・ヴァルレイン“を名乗っている。キャラメイクにこだわった爽やかイケメンだが、これが那由多の異世界での姿だ。
現実世界では、非モテのヲタクである鈴木も、この世界では自身を持って女性と接することができる。ユイファがNPCでも構わない。鈴木は、何とかして彼女と特別な関係になりたくて、奮発してプレミアムオプションを付けたのだ。
『それなのですが……もう一方のスズキ様にご連絡したところ、「このままで構わない」とのことで……』
「いや構うよ!?」
『……本当に申し訳ございません。ですが、現在の位置からでは転移先の変更ができない仕様でして……』
通信の向こうのサポートスタッフは申し訳なさそうに答えた。
『……ただひとつだけ、方法があります』
「方法?」
『現在お客様がいらっしゃる場所は、“修験者の谷”と呼ばれる高難度ゾーンです。この谷を抜け、北の岩山地帯にある転移ゲートまで辿り着ければ……そこから、本来の転移先に再転送することが可能です』
「じゃあ、それで──!」
『はい、お客様が直接、スズキ様を阻止することはできるかと…しかし』
永瀬は、そこで一呼吸置いた。
『修験者の谷は、弊社でも“推奨レベル80以上”とされる危険地帯です。しかもお客様は、転移の誤りによって本来のアバターではなく、スズキ様の“見習いシーフ”でログインされています』
「は……? 見習いシーフって……俺、いつも魔剣使いなんだけど……」
『そのため、谷を抜けるのは“ほぼ不可能”と見られます。私どもとしましては、全額返金の上、地球へ帰還いただく形が最善と判断しております。その場合、規約に基づき、ご予約時間分の無料チケットをお渡しさせて頂きますが……』
「……」
ユイファの笑顔が、脳裏に浮かぶ。
彼女は、鈴木の記憶と、想い出の中で、確かに存在していた。データのはずなのに、その笑顔は、本当の記憶のようにしか感じられなかった。
「俺……行きます。どんなに無謀でもいい。俺が行かないと、彼女が……!」
『……わかりました。そこまで言われたら、サポート係としてじゃ物足りませんね!』
「え……?」
『本件の責任を鑑み、私──永瀬は、現場ガイドへの配置転換を申請いたします。すぐに承認が下りるはずです』
「ガイドって、つまり……攻略を助けてくれるってことですか?」
『はい。最後までちゃんと責任取りたいですから。それに──』
一拍置いて、微笑むような声色が加わった。
『ユイファさんへの想い、ちょっと感動しました』
数秒後、端末から新たな通知が表示された。
《担当ガイド:永瀬 由香里》
──その下に、サポートからガイドへの変更を示す更新マークが点滅している。
『これからは“鈴木さん”じゃなくて、“那由多さん”とお呼びしてもよろしいですか? もう一人のスズキ様と紛らわしいので』
「……ああ。じゃあ、俺も“永瀬さん”って呼ぶよ」
『はい、那由多さん。ここから、死ぬほど大変ですけど……頑張りましょう!!』
灼熱の砂が巻き上がり、彼の視界を一瞬白く染めた。那由多は、目を細めて、遥か彼方で待つユイファのことを想った。