答え
9月のコンテスト。
残暑の厳しい日差しが、アスファルトから熱気となって立ち昇る中、大学の講堂に向かう。冷房の効いた建物に入ると、急激な温度差に身震いした。額の汗を拭いながら、Deep Rookiesを応援し始めてから、ちょうど1年が経ったことに気づく。
会場に足を踏み入れると、学生たちの話し声や、ステージで機材をセットする物音が耳に届いた。いくつかのバンドが演奏を済ませた休憩時間だった。携帯を確認すると、村上は渋滞で遅れるらしい。少し寂しさを感じながらも、1人で席に着く。
MCの声が響く。
「次はDeep Rookiesです。バンドとしての原点に戻ります」
原点?
違和感が走った。彼らの原点はDeep Purpleのコピーバンドだったはずだ。
幕が上がった。
想像もしなかった光景が、そこにあった。
ギターもボーカルもいない。菊池くんが、要塞のように左右に積み重ねたキーボードの間に立っている。ドラマーとベーシストがその横に控える。三人だけだ。
まさか。
サイレンのようなアナログシンセの唸りが会場を包み込んだ瞬間、背筋に電流が走った。
Emerson, Lake & Palmer。ELP。70年代のプログレッシブ・ロックを代表する伝説的なバンド。キーボードのキース・エマーソンは、ロックにおけるキーボードの可能性を切り拓いたパイオニアだ。
その代表曲『Hoedown』。鬼気迫るキーボードテクニックで知られる曲。
しかし、菊池くんの演奏はそれをさらに上回るスピードだった。スタジオ・アルバムの1.5倍は速い。
嘘だろ。
指が鍵盤の上を縦横無尽に駆け巡る。正確なバッキングを刻みながら、同時にメロディを紡ぎ出す。このスピードでだ。
そして、ベース、ドラムと息のあったエンディング。寸分の狂いもないタイミング。このタメは、プログラムなどでは絶対に出せない。生身の人間が、呼吸を合わせているからこそ生まれるタメだ。
心臓が早鳴っている。
息つく暇もなく、2曲目『Tarkus』へ。ELPの代表的な組曲で、20分を超える大作だ。それを彼らは巧みにダイジェストで演奏している。
変拍子の嵐。5拍子、7拍子、目まぐるしく変わるリズム。その中で、10度はあろうかという大アルペジオをベースとユニゾンで奏でる。菊池くんの左手とベーシストの指が、寸分違わず同じフレーズを刻んでいる。
まるで進撃する戦車だ。
ベーシストの指が弦の上を踊り、ドラマーの腕が複雑なリズムを刻む。菊池くんは全身で演奏し、汗が飛び散る。髪が額に張り付いている。それでも指は止まらない。
気づけば、椅子の肘掛けを握りしめていた。
3曲目、『Toccata』。作曲家ヒナステラの曲をELPがロックにアレンジしたものだ。
不気味なファンファーレが響き渡る。まるで何かの儀式が始まるような、荘厳で不穏な空気。
そして、突如として怒涛の12連符が炸裂した。
息を呑んだ。
これはもはやスラッシュメタルよりもスラッシュ的だ。いや、スラッシュメタルでもここまでの轟きを感じることはない。菊池くんの両手が、鍵盤の上で稲妻のように閃いている。
彼らはプログラムを完全に捨て去っている。ELPの超絶技巧の曲たちを演奏できるだけでも大したものだが、これをロックとして、それも桁違いのエネルギーでぶつけてくる。細かなミスタッチなど気にならない。
信じられない。あの居酒屋で酔いつぶれていた男が、今、目の前でこんな演奏をしている。
演奏が終わると、会場は静寂に包まれた。皆、反応に困っているようだ。何が起きたのか理解できていない顔。当然だ。プログレッシブ・ロックを知らない学生たちには、これが何なのか分からないだろう。
いつの間にか隣にいた村上が呆然と言った。
「なんだ、これは……」
「ELPだよ。プログレッシブ・ロック」
自分の声が震えていることに気づいた。
「キーボーディストのキース・エマーソンは、ロック界に革命を起こしたんだ」
「名前は聞いたことはあるけど……こんなに激しいとは」
「ああ。だが、まさか今の若い奴らがこれをやるとは……」
言葉が途切れた。胸がいっぱいで、うまく話せない。
4曲目の音が鳴り響いた。『Rondo』だ。
「ほら、始まったぞ」
村上に囁いた。声が上ずっている。
「これからが本当のショーだ」
菊池くんが正面の小型オルガンに向かい、リフを刻み始める。そして、指先が鍵盤の上を這い回る。超高速グリッサンドの反復で曲を盛り上げていく。会場の空気が、熱を帯びていく。
その時だった。
突如、菊池くんはオルガンを跨ぐような形で飛び越えた。
観客からどよめきが起こった。何人かが立ち上がりかける。
オルガンの逆側から、ドラムとベースに乗せてバッハのフレーズを弾き始めた。
待て。今、何が起きている。
左右のみならず白鍵と黒鍵の前後関係も逆になっているはずだ。それなのに、菊池くんは左手と右手を交差させ、複雑な対位法を奏でている。逆向きの鍵盤で、バッハを弾いている。
あり得ない。
観客は何がすごいのか分からなくても、何かすごいことが起こっていることを体で感じ取っていた。会場全体が息を詰めて見守っている。
菊池くんの表情は真剣そのもので、全身全霊で音楽に没頭している。あの居酒屋で酔って熱弁を奮っていた姿とは別人に見える。だが、あれも、これも、同じ菊池くんなのだ。音楽への情熱が、形を変えて現れているだけだ。
そして、驚くべき光景が目の前で繰り広げられた。
再びオルガンを飛び越えると、菊池くんはポケットからナイフを取り出した。
会場が凍りついた。
何人かが小さく悲鳴を上げる。隣の村上が「おい」と声を漏らした。
菊池くんは右手でナイフを高々と掲げた。照明に反射して輝く刃先に、数百の目が釘付けになった。
一瞬の静止。
時間が止まったかのようだった。
そして、鋭い動作でナイフを鍵盤の隙間に突き刺した。
ガンッ、という音と共に、鍵盤が押し下げられたまま固定された。低音が唸りを上げ、会場に響き渡る。
心臓が喉元まで跳ね上がっている。
菊池くんは再びポケットに手を入れ、2本目のナイフを取り出した。
今度は左手で高々と掲げる。一瞬の躊躇もなく、別の音程の鍵盤に突き刺した。
2つの音が重なり、不協和音となって会場に響き渡る。
観客は固唾を呑んで見守っている。誰もが、この予想外の展開に釘付けになっている。隣の村上は、口を半開きにしたまま動けずにいる。
手に汗が滲んでいた。握りしめた拳が、小刻みに震えている。
そして最後に、3本目のナイフが現れた。
菊池くんは両手でナイフを掲げた。まるで儀式のように、慎重に、しかし決然とした様子で最後の鍵盤に突き刺した。
3つの音が同時に鳴り続け、不協和音の唸りとなってホールに響き渡った。
まるで楽器が叫んでいるかのようだ。
全身に鳥肌が立った。腕の産毛が逆立っている。
菊池くんの指は、ナイフで固定された鍵盤の周りを巧みに動き回り、さらなる音を重ねていく。不協和音の上に、新たなメロディが生まれていく。混沌の中から秩序が立ち現れる。
そして菊池くんは、両手で激しくオルガンを揺すり始めた。
スプリングリバーブによる爆発音が会場に轟いた。雷鳴のような音。地響きのような振動。まるで楽器と一体化したかのようだ。いや、菊池くんはもはや演奏者ではない。楽器そのものになっている。
ベースとドラムも最高潮に達した。ベーシストの指が弦を引きちぎらんばかりに動き、ドラマーのスティックが空気を切り裂く。三人の演奏が完璧に融合し、巨大な音の塊となって会場を飲み込んでいく。
涙が込み上げてきた。
なぜだか分からない。ただ、目頭が熱くなって、視界が滲んでいく。
フィナーレ。
菊池くんが両手を広げ、オルガンの上に倒れ込むように演奏を終えた。
静寂。
誰も動けなかった。誰も声を出せなかった。
会場全体が、金縛りにあったように静まり返っている。
次の瞬間、割れんばかりの拍手と歓声が沸き起こった。
立ち上がっている者がいる。口笛を吹いている者がいる。「すげえ!」「なんだあれ!」という声が飛び交う。
隣を見ると、村上も立ち上がって拍手をしていた。目が潤んでいる。
自分も立ち上がっていた。いつ立ったのか分からない。ただ、手が痛くなるほど拍手をしていた。
これが菊池くんの答えだった。
これがDeep Rookiesの答えだった。
プログレッシブ・ロックという複雑な音楽を選び、ボーカルもギターも不在という大きな制約の中で、打ち込みに頼ることなく、生身の人間による高難度の演奏とパフォーマンスを披露してみせた。
そこには、バンドとしての一体感があった。ライブならではの、予測不可能な興奮と熱気があった。菊池くんのキーボードは、まるで生き物のように踊り、唸り、時に叫んでいた。ベースとドラムも、単なる伴奏ではなく、キーボードと互角に渡り合い、複雑なフレーズとリズムで音楽を紡いでいった。
彼らは現代のテクノロジーを駆使した「完璧」で予定調和な音楽ではなく、あえて不完全だが生命力にあふれた音楽を選んだのだ。火花を散らすようなプレイとパフォーマンスが、観客の心を揺さぶり、会場全体を一つにした。
興奮冷めやらぬ中、震える手で投票用紙を取り上げた。
涙が頬を伝っていた。
いつから泣いていたのか分からない。慌てて袖で拭ったが、次から次へと溢れてくる。止まらない。止められない。
隣の村上が、黙って肩を叩いてきた。何も言わない。ただ、その手の温かさが、胸に沁みた。
卒業して10年。毎年このコンテストに足を運んでいた理由。
それは単なる懐かしさではなかった。若者たちの演奏を通じて、自分自身が夢中になれる音楽との出会いを求めていたのだ。
そして今、目の前でそれが起きた。
菊池くんたちの熱演は、眠っていた何かを呼び覚ました。観察者でいることに慣れきっていた自分の胸を、熱く激しく震わせた。
もう「見守る」側ではいられない。彼らの音楽に、完全に巻き込まれてしまった。
それでいい。それがいい。
投票用紙を手に取り、震える指でペンを握りしめた。心の高鳴りが残響のように響いている。
そして、書き始めた。Deep Rookiesへの賛辞と共に、彼らが与えてくれた、かけがえのない贈り物への感謝を――。
もし作中のバンドや楽曲にご興味があれば、多くの楽曲がYouTubeで視聴可能ですので、ぜひ聴いてみてください。物語を、音楽の魅力を感じていただければ幸いです。




