転機
6月のコンテスト当日。梅雨の晴れ間を縫うように、大学の講堂は熱気に包まれていた。エアコンのひんやりとした空気が、湿度の高い肌に触れる。
会場に入ると、すでに数組のバンドが演奏を終えていた。壁際に並ぶ楽器ケースや、ステージ袖で待機する学生たちの姿が目に入る。緊張と期待が入り混じった空気が、会場全体を包んでいた。いくつかのバンドを見て投票をするうちに、Deep Rookiesの出番となった。メンバーがステージに上がる。
「おい、島田」
村上が小声で言った。
「ギターがいないぞ」
そして、驚いたことに、ドラマーはイヤフォンを装着している。
MCが説明を始めた。
「今回、Deep Rookiesは新たな挑戦として、ギターレス編成での演奏をお届けします」
会場がざわめく中、1曲目が始まった。Van Halenの『Jump』だ。Van Halenはエディ・ヴァン・ヘイレンの革新的なギタープレイで知られるロックバンドだ。『Jump』は彼らの代表曲の一つだが、ギタリストであるエディがキーボードを弾いており、ギターはほとんど表に出てこない。キーボードの菊池くんが、あの有名なシンセサイザーリフを奏で始める。音は予想以上に厚みがあり、ギターがないことを感じさせない。安藤さんのボーカルも力強く、かなりの熱量だ。サビでは、ベースとドラムが見事なグルーヴを刻み、会場の空気が一気に変わる。
続いて、Bon Joviの『It's My Life』。2000年にリリースされた彼らの代表曲の一つだ。シンセサイザーによる特徴的なハートビートの音が会場に響き渡る。ギターソロの部分では、菊池くんが太く表情豊かなアナログシンセサウンドを手弾きし、違和感なく原曲の雰囲気を再現している。ボーカルの歌唱力が存分に発揮され、サビでは事前にサンプリングしたであろう安藤さん自身の分厚いコーラスサウンドが重なり、豊かな響きを生み出している。
3曲目は、Nightwishの『Nemo』。Nightwishはフィンランド出身のシンフォニックメタルバンドで、00年代の『Nemo』は叙情的な歌詞と劇的な音楽構成が印象的だ。オーケストラのような壮大な音響が会場を包み込んだ。キーボードの菊池くんの指さばきには目を見張るものがある。安藤さんのボーカルも、物語性のある歌詞を情感豊かに歌い上げる。ギターソロの部分は、キーボードのストリングスサウンドで巧みに置き換えられ、原曲の雰囲気を見事に再現していた。
そして最後は、Metallicaの『Nothing Else Matters』。ヘヴィなサウンドと技巧的な演奏で知られる彼らのバラード曲だ。ギターの繊細なクリーンサウンドと力強いディストーションサウンドの対比が印象的だ。会場が静まり返る中、菊池くんのピアノの繊細なアルペジオが響き渡る。原曲のギターパートを見事にピアノで再現している。安藤さんの柔らかな歌声が重なり、曲の世界観を見事に表現していく。
サビに入ると、ドラムとベースが加わり、曲に力強さを与える。菊池くんのピアノは、時に力強く、時に繊細に音を奏で、ソロパートでは美しいメロディを紡ぎ出し、会場を幻想的な雰囲気で包み込む。安藤さんの歌唱は、原曲の力強さとは異なる、感情的で繊細な表現で曲を解釈している。その歌声は、曲の持つ悲しみや強さを独自の方法で表現し、聴く者の心に深く響く。
クライマックスでは、ピアノ、ドラム、ベース、そして安藤さんの歌声が完璧なハーモニーを奏で、原曲とは異なる新たな魅力を引き出している。曲が終わると、一瞬の静寂の後、会場は拍手に包まれた。ヘビーメタルの名曲をこのようなアレンジで演奏するという大胆な試みは、観客に強い印象を与えたようだ。会場のあちこちで感嘆の声が聞こえる。
「すごいな……。ギターがなくても、これだけのパフォーマンスができるとは」
村上が感心した声を上げた。私も頷きながら答えた。
「菊池くんのプログラミング技術と演奏力、そして安藤さんの歌唱力が光るね。なによりアレンジが上手い」
しかし、同時に気になることもあった。ステージ上のメンバーたちの表情が、どこか硬い。特にベースとドラムは、以前のような自由な演奏を楽しむ様子が見られない。
「でも、なんだか生々しさが減った気がしないか?」
そう村上がつぶやいた。私も同感だった。打ち込みに頼らない最後のMetallicaはよかったが、それ以外の曲ではバンドとしての一体感や、ライブならではの熱気が失われているように感じた。
悩んだ末、投票用紙のコメント欄には、次のように記入した。
「ギターレス編成という新しい挑戦も興味深く、将来性を感じます。技術的に非常に高いレベルのサウンドになっています。音源としてCD-Rにしたり、配信するのであれば、アマチュアとしてはもう十分なクオリティでしょう。ただ、もう少しバンドとしての一体感や、ライブならではの即興性が欲しいところです。これからの成長に期待しています。」
Deep Rookiesの新たな挑戦。それは成功だったのか……。胸中に複雑な思いが広がっていった。
***
投票用紙を係の学生に渡すと、MCが次のバンドを紹介した。
「続いては、新しく結成されたNeoclassic Playersの登場です」
私と村上は顔を見合わせた。ステージに上がってきたのは、なんとDeep Rookiesの元ギタリスト、吉本くんだった。
「よりによって、次の出番に彼が……」
私がつぶやくと、村上も驚いた様子で頷いた。
最初の音が鳴り響いた瞬間、私は即座に曲を認識した。Yngwie Malmsteenの『Far Beyond The Sun』だ。80年代に彗星のごとく現れ、当時のギタリストたちに衝撃を与えたという天才ギタリストの、代表的なインスト曲。クラシック音楽、特にバロック音楽の影響を強く受けた高速のアルペジオとハーモニックマイナー・スケールは、当時のロックギタリストたちに衝撃を与えた。
ドラマチックな決めフレーズから、流れるような高速の下降フレーズへ。難しいメロディを、まるで呼吸をするかのように自然に弾きこなしている。その姿は、まさに彼が目指していたギターヒーローそのものだった。周囲の学生たちからは期待と興奮の声が上がる。ギタリストにとって、イングヴェイの名は憧れと挑戦の象徴だ。
しかし、演奏が進むにつれ、違和感が募っていく。確かに吉本くんの演奏は素晴らしいが、音全体がどこか物足りない。原曲ではクラシカルなコード進行とバッキングで支えられている音場が、今はスカスカに感じる。
その理由はすぐに分かった。吉本くんがメロディを奏でている間、バッキングの役割を果たす楽器がないのだ。キーボードも不在で、コード感を支える要素が決定的に不足している。ベースとドラムは必死に音を埋めようとしているが、吉本くんの技巧に圧倒されているようで、全体の調和が取れていない。
よく見ると、ベーシストは緊張でカチカチになっている。きっと新入生なのだろう。技術的に追いついていないのは明らかで、ルート弾き中心にもかかわらず、三連のリズムを正確に刻むことができていない。ドラムにも力強さやメリハリがなく、演奏するだけで精一杯という様子だ。
村上がつぶやいた。
「無理やりメンバーを集めたのかな……。彼は技術的には素晴らしいんだけどね。でも、バンドとしての一体感がない。イングヴェイの音楽は、ギターソロが目立つけど、それを支えるパートも重要なんだ」
演奏が終わると、吉本くんのギターテクニックに感銘を受けた一部の観客たちから拍手が起こった。しかし、その拍手はバンドではなく、ほぼ吉本くん一人に向けられているように見えた。
吉本くんの表情は、誇らしげでありながら、どこか寂しげにも見えた。彼が目指していたのは、このような「ギターだけが上手いバンド」だったのだろうか。Yngwie Malmsteenの楽曲の美しさや、それをバンドとして表現することを理解しているのだろうか。そんな疑問が、私の中に浮かんでいた。
Deep Rookiesの新たな挑戦と、吉本くんの選んだ道。二つの異なるアプローチを目の当たりにし、バンド音楽の難しさを今更ながら実感した。
***
居酒屋の奥まった座敷で、私と村上はまたまた菊池くんと向き合っていた。テーブルの上には空になった生ビールのジョッキが何個も並び、菊池くんの頬は赤く染まっている。周囲からは学生たちの賑やかな声が聞こえるが、私たちのテーブルだけが妙に静かだ。
「実はっすね……」
菊池くんが揺れる体を支えながら口を開いた。
「今日で安藤さんは最後なんすよ」
私と村上は驚きの表情を交換した。村上が眉をひそめる。
「元カレとよりを戻したらしくて。こっちのバンドは辞めるって」
菊池くんは続け、グラスを乱暴に置いた。
「どうしようか、マジで悩んでるんすよ!」
彼は突然声を張り上げた。周囲の学生たちが一瞬こちらを見る。
「ボーカルもギターもいない。ドラマーとベースも最近はブツブツ言ってるし……」
菊池くんは髪をかき乱しながら、さらに熱を帯びた口調で続けた。
「プログラミング使った音楽、可能性あるんすよ!でも、なんか違う気もする。バンドの一体感ってやつっすかね、それが欲しいんす。それに、今日の投票のコメントいくつか読んだんですが、打ち込みに頼るな、楽器もまとも弾けないのかって。でも、この路線で人気出てきたし……くそー!」
彼は拳で軽くテーブルを叩いた。グラスが小さく跳ねる。
「吉本のやつはさ」
菊池くんの目に涙が浮かんでいる。
「音楽性の違いだって言って抜けていった。一般受けを狙うのは嫌だ、自分は迎合したくないって。もっとギター上手くなりたいんだってさ。せっかく、みんなに聴いてもらえるようになってきたのに、頑張ってきたのに……、くそっ、悔しい! でも、寂しいんすよ……」
菊池くんは顔を両手で覆った。肩が小刻みに震えている。
「バンドって……、みんなで音出し合うもんじゃないっすか。俺、間違ってるのかな……」
私の胸は締め付けられるようだった。村上も困惑した表情で菊池くんを凝視していた。
「菊池くん」
私は先輩として、大人として何か言わなければと口を開いた。
「正解なんてないんだ。でも、お前たちなりの答えはきっとある。それを見つけるのが……」
「うわーーーん!」
突然、菊池くんが大声で泣き出した。
「先輩ぃー!俺、どうすりゃいいんすかぁー!」
周囲の学生たちが慌てて駆け寄ってきた。
「菊池、大丈夫か?」
「また飲みすぎたのか」
彼らは申し訳なさそうに私たちに頭を下げながら、泣き叫ぶ菊池くんを抱き起こした。
「すみません、先輩方。連れて帰ります」
私たちは無言で頷いた。しかし、学生たちに支えられながら立ち上がった菊池くんは、突然私たちの方を向いた。彼の目は涙で潤んでいたが、その中に決意の光が宿っていた。
「先輩……」
彼は震える声で言った。
「次のコンテストまでに、必ず答えを出します。俺たちのバンドの、俺の音楽の答えを。だから……だから、絶対に見に来てください!」
私と村上は思わず目を見合わせた後、菊池くんに向かって力強く頷いた。
「ああ、必ず行くよ」
私は答えた。
「楽しみにしてるぞ」
菊池くんは満足げに笑うと、仲間たちに支えられながら居酒屋を出ていった。彼の泣き声は、徐々に遠ざかっていった。
静寂が訪れた後、村上がため息をついた。
「若いっていいな」
「ああ」
私も頷く。
その瞬間、私たちは互いの目を見て、思わず二人で噴き出す。
「おいおい」
村上が笑いながら言った。
「また同じこと言ってるぞ、俺たち」
「本当だな」
私も笑いを堪えながら答えた。
「卒業して10年経っても、またこうしてバンドコンテストを見に来ている。やっぱり、俺たち成長してないんじゃないか?」
村上は少し考え込むような表情を見せた後、にやりと笑った。
「でも、またお前と音楽の話ができて嬉しいよ。それに若いやつらを見ると、元気をもらえる気がするんだ」
私はグラスを手に取り、軽く頷いた。
「そうだな、昔を思い出すと同時に、新しい発見もある気がするな」
居酒屋を後にする頃には、外は雨が降り出していた。梅雨の夜の空気が、私たちの複雑な思いを優しく包み込んでいるようだった。しかし、その雨の中に、かすかな希望の光が見えたような気がした。