始まり
残暑の陽炎が揺れる中、母校の正門に立つと、あの日々が鮮やかによみがえった。指先に残る弦の感触、深夜まで続いた練習の疲労と高揚感、そして何より音楽への果てしない憧れ。
土曜の午後、キャンパスは静けさに包まれているはずだった。しかし、遠くから聞こえてくるバンドサウンドが、この場所が今も若者たちの情熱の舞台であることを物語っている。
ふと背後から聞き覚えのある声が響いた。
「おい、島田! まさかお前か?」
振り返ると、そこには学生時代からの親友である村上の姿があった。年月を経ても変わらぬ屈託のない笑顔に、思わず口元が緩む。
「久しぶりだな、村上。変わってないな」
互いの肩を軽く叩き合い、笑い声が静かなキャンパスに響いた。
「お前こそ。まだバンドコンテスト見に来てるのか?」
「ああ、これが俺の人生の調味料さ。お前は?」
村上は少し照れくさそうに首をかしげた。
「久しぶりなんだ。仕事に追われてさ。でも、たまには青春時代を思い出すのもいいかなって」
彼は少し間を置いて続けた。
「そういえば、お前は結婚したんだってな。奥さんは音楽好きか?」
私は微笑んで答えた。
「ああ、ロックは聴かないがクラシックが好きでね。最近はよく一緒にコンサートに行くんだ」
二人で肩を並べ、かつて青春を燃やしたキャンパスを歩き始める。足取りは軽く、まるで時間が巻き戻ったかのようだ。
向かうのはサウンド・インフィニティ。この大学が誇る名門軽音楽サークルだ。半世紀以上の歴史を持ち、数々の著名人を輩出してきた。ミュージシャンはもちろん、音楽業界の様々な分野で卒業生が活躍している。
「覚えてるか、島田。俺たちが一年の時のコンテスト」
村上が懐かしそうに言った。
「ああ、あの時は緊張で手が震えて、全然安定しなかった」
「俺もチョーキングが上がり切らなくてな。散々だったよ」
一年生の時、ギターの村上とベースの私は一緒にバンドを組み、互いに切磋琢磨した。それからは別のバンドへと分かれたが、よく下宿で飲みながら朝まで音楽について語り合ったものだ。思い出話に花を咲かせつつ、私たちは音楽ホールへと足を向けた。
このサークルの魅力は、ただ華やかというだけではない。年に3、4回開催されるこのコンテストこそが、サークルの最重要イベントだ。現役生たちが結成したバンドが、互いの音楽性や技術を競い合う。そしてその評価を決めるのは、現役生だけでなく、私たちOB・OGも含めた投票なのだ。
コンテストでの順位は、単なる名誉以上の意味を持つ。上位のバンドは、学園祭などの大きなイベントでメインステージに立つ権利を得られる。さらには、音楽業界で活躍する卒業生達の目に留まるチャンスにもなる。
私は今や一般企業で働く平凡なサラリーマンだが、仕事が休みのときは、できる限りこのコンテストに足を運んでいる。若者たちの成長を見守ることが、今の私の密かな楽しみとなっている。
「さあ、入ろうか」
村上が扉に手をかけると、中からはすでにざわめきが聞こえてきた。緊張と期待が入り混じる空気の中、チューニングの音が響き、機材の匂いがかすかに漂っていた。
「なんだか、タイムスリップした気分だな」
村上がつぶやいた。私は軽く笑みを浮かべて応じる。
「懐かしいだろう?まあ、俺にとっては最近の光景だけどね」
「そうか、お前はよく来てるんだったな」
村上が感心したように言った。
席に着くと同時に、私の心の中で期待が膨らんでいった。
「さて、今日はどんな演奏が聴けるかな」
舞台の幕が上がるのを、静かに、そして少しばかり高鳴る胸を抑えながら待った。かつての仲間と共に見守る今年のコンテスト。きっと、また新たな出会いがあるはずだ。
***
MCのアナウンスが終わり、Deep Rookiesのメンバーがステージに登場した。前回はDeep Purpleの『Smoke on the Water』を演奏した。いかにも一年生の微笑ましいバンドだった。
Deep Purpleは70年代のハードロックを代表するバンドの一つで、今でもCMソングにもよく使われている。その楽曲は基本的なロックの要素が詰まっており、比較的簡単なものもあるので、アマチュアバンドが挑戦するのに適している。
そんなことを思い出していると、演奏が始まった。今回もDeep Purpleだ。『Highway Star』の出だしのギターとオルガンが鳴り響く。しかし、その音の厚みは前回とは比べものにならない。特にオルガンサウンド。Aメロ突入前のブレイクでは上方への素早いグリッサンドと下方への豪快なグリッサンド。これまでとは何かが違うと感じさせられた。
前に見たときには、確かキーボディストは女子で、譜面を見ながら弾いていた。それが今回は男子に代わっている。彼の演奏にはメリハリがあり、ギターとの絡みは絶妙だ。オルガンソロに突入すると、歪んだディストーションサウンドで特徴的なフレーズを奏で、そこから勢いよく両手でのアルペジオを弾き切った。村上が言う。
「おい、島田。あのキーボード、なかなかじゃないか」
「そうだな。新メンバーだ」
ギターソロが始まった。ピッチやリズムは安定している。前回よりずいぶん上達したようだ。キーボードはバッキング代わりの八分の刻みと、セカンドギター代わりの3度のハーモニーパートを同時に担当し、刻みを音量と少しずつ変化させ、ソロを盛り上げている。そして、ギターソロ後半。メカニカルな十六分のリックだ。
「ギターも結構やるな、村上」
「ああ、音の粒が揃ってる。きちんと基礎ができてるみたいだ」
そして、曲はエンディングを迎え、存在感のある分厚いオルガンサウンドが会場を埋め尽くした。大きな拍手が沸き起こる。村上が感嘆の声を上げた。
「すごいな! まるでジョン・ロードだ」
ジョン・ロードはDeep Purpleのキーボーディストだ。村上は少し興奮気味に説明を始めた。
「プリセットの音色でオルガンを選ぶだけじゃこうはいかないんだ。あの時代特有の歪んだ音を再現している。恐らく、キーボードをギターアンプで鳴らして、それをマイクで拾っているんだろう。相当研究しているよ」
私は感心しながら聞いていた。前のキーボードは下手ではなかった。むしろ楽譜通りに弾く技術は高かったのかもしれない。しかし、バンドのサウンドからは微妙に浮いた平板な印象だった。そう言うと、村上は頷いた。
「ありがちなパターンかもしれないな。バンド結成時にキーボードが見つからず、とりあえずピアノをやってた子に入ってもらったとか」
「うん、よくあるな、それ。言ってみれば、鍵盤は弾けるけど、キーボードじゃないってことか」
「そうそう。さっきの音作りにしても、ギタリストがエフェクターを足元にズラッと並べて試行錯誤するみたいに、このキーボードはちゃんとそういうこともやってるんだと思うよ」
私は新しいキーボーディストに目を凝らした。一見したところ、ロックをやっているという感じではない。どちらかというと大人しそうだ。ステージでも、観客や他のメンバーを見ることはなく、じっと音を聴いていたようだ。だが、音は紛れもなくハードロックだった。
ステージ袖からスタッフが現れ、投票用紙を配り始めた。私たちはペンを手に取り、真剣な面持ちで用紙を見つめた。技術力、オリジナリティ、ステージパフォーマンス、将来性を評価する。
「バンドとして聴き応えあるよな」
と私が言うと、村上も頷いた。
「ああ。技術力はキーボードは満点。ギターとドラムも上手い。ボーカルは音程はともかく声量はある。ベースはそつがない感じかな。でも、コピーバンドだからオリジナリティはないし、まだステージパフォーマンスも無いに等しい。けど、今後が楽しみだから将来性は高得点だよ」
「だけど、Deep Purple以外だったら? ハードロックやヘビーメタルでも、彼らに向いていないものもあるんじゃないか?」
「そうだな……確かにそれはあるが、現時点では高評価、ということでいいんじゃないか」
最後に、コメント欄に目を落とす。ここに書く言葉が、彼らの次のステップにつながるかもしれない。少し考えてから、私はペンを走らせた。
「素晴らしい演奏でした。特にキーボードの音作りと技術は圧巻です。バンド全体のサウンドも優れているので、今後の成長が非常に楽しみです。ぜひ練習を重ねて、さらなる高みを目指してください。ただ、Deep Purple以外のバンドの曲も聴いてみたいです。みなさんの技術と音楽性なら、きっと素晴らしい演奏を聴かせてくれると思います。次回のコンテストが待ち遠しいです。頑張ってください」
書き終えて顔を上げると、村上も同じようにコメントを書き終えたところだった。
「何て書いた?」
と私が尋ねると、村上は照れくさそうに首を軽くかしげた。
「まあ、たぶん似たようなことさ。期待してるって書いたよ」
私たちは投票用紙を提出しながら、Deep Rookiesの今後の展開に思いを巡らせた。彼らの成長が楽しみでならなかった。
***
その日の打ち上げは、大学近くの小さな居酒屋で行われた。薄暗い照明の下、煙草の煙が漂う店内は学生や社会人で賑わっていた。私たち以外のテーブルからも、時折大きな笑い声が聞こえてくる。
あのバンドのキーボード、大人しそうな印象だった菊池くんが、酔いの勢いを借りて熱く語り始めた。言葉は次第に早く、声は徐々に高くなり、その豹変ぶりに、私と村上は驚きの視線を交わした。
「大体ねぇ、ハードロックやヘビーメタルって、バンドにキーボードいなかったり、いてもサポートメンバーだったりするんです。キーボードなしでは成立しない曲作っててもですよ」
菊池くんは憤懣やる方ないという態度で続けた。
「その先入観のせいで、アマチュアの僕らが演る時にも、音響や照明の人にキーボードの存在を忘れられるんですっ。いくら弾いても会場に音が出なかったりとか、暗がりの中で鍵盤押さえるはめになるんですよっ。信じられますか!?」
「おっ、おう……」
私と村上は顔を見合わせた。かつては自分たちも音楽について熱く語り合ったが、彼の熱量はそれ以上かもしれない。菊池くんはさらに続ける。
「キーボードには、もっと光が当たらないといけないと思うんですよ。第2期Deep Purpleのスタジオアルバムって、左チャンネルはリッチーのギターだけど、右チャンネルの歪んだ音はジョンのキーボードなんすよ。あれをギターだと思ってるやつらのなんと多いことか。それにね、Judas Priestの『PainKiller』だって、ベースはドン・エイリーがシンセで弾いてるんですよ? 知ってました、島田さん?」
Judas Priestと言えば、70年代後半から80年代にかけてヘビーメタルシーンを牽引した伝説的なバンドだ。特徴的なハイトーンボーカルと、ツインギターは、多くのメタルファンを魅了してきた。『Breaking the Law』などはファンでなくとも耳にしたことがあるだろう。しかし、菊池くんの指摘は私も初耳だった。
「へえ、それは知らなかったな。『Painkiller』といえば、スピード感溢れる名曲だけど、まさかベースがシンセだったとは」
私の反応に、菊池くんは目を輝かせた。
「そうなんです! でも、多くの人はそれに気づいていないんですよ。キーボードやシンセの可能性をもっと知ってほしいんですよっ!」
菊池くんは空になったジョッキをテーブルにガンッ!と置いた。隣のテーブルの客が振り返る。
一回りも若い男子に気圧されている私を見て、苦笑いの村上が助け舟を出す。
「じゃあ、キーボード重視だったら、RainbowやEuropeをやってみたらどうだ?」
村上が提案した。その言葉には、過去の自分たちが試行錯誤していた頃を思い出すような懐かしさが含まれていた。
Rainbowは、Deep Purpleのギタリスト、リッチー・ブラックモアが結成したバンドで、彼のギタープレイと、壮大なキーボードサウンドが特徴だ。一方、Europeは80年代を代表するスウェーデンのハードロックバンドで、キーボードのイントロが印象的な『The Final Countdown』で世界的に知られている。
「確かに……『Spotlight Kid』とか『The Final Countdown』とか、やってみたいです。でも、メンバー的に厳しいと言うか……」
「そうかな。練習すればいけそうだけど……」
そう言って気付いた。これらのバンドはメロディアスな楽曲が多いので、シャウトで押していくタイプの今のボーカルだと厳しいのかも知れない。伸びやかで表現力豊かなボーカルスタイルは、簡単に真似できるものではない。
「その練習もね、みんな、スタジオに入ってからも個人練習してるんすよ。自分のパートの練習なんて自分で済ましてきて、スタジオはバンドとして合わせる練習をすることに集中すべきじゃないですかっ。時間の無駄だし……」
菊池くんは一気にビールを飲み干すと、少し寂しそうな表情を浮かべた。
「大体ね、キーボードって超重いんすよ。担いで練習に出てくるのが大変だって皆分かってくれない……ボーカルなんて、手ぶらで済むのに、バイトだとか言って練習にもあまり来ないし」
その言葉を聞いて、私と村上は思わず顔を見合わせた。バンド内の人間関係の難しさは、時代が変わっても変わらないようだ。
「でもさ」
村上が優しく言った。
「君たちの演奏を聴いていると、そういった苦労も報われているように思うよ。特に君のキーボードは素晴らしかった」
菊池くんの顔が輝いた。
「本当ですか?ありがとうございます!」
その言葉を合図に、菊池くんはさらに饒舌になった。キーボードの歴史から始まり、最新のシンセサイザーの機能、果てはMIDIインターフェースの話まで、次から次へと話題が飛び出す。私と村上は、その知識の深さと情熱に圧倒されながらも、懐かしさと微笑ましさを感じていた。
しかし、話し続けるうちに菊池くんの言葉が徐々に不明瞭になっていく。顔は赤く、目はうつろになってきた。
「あの……キーボードってサ……重いんすよ……誰も……わかってくれ……」
そう言いかけたところで、菊池くんはテーブルに突っ伏した。完全に酔いつぶれてしまったようだ。
「おいおい、大丈夫か?」
村上が心配そうに声をかける。隣のテーブルにいた学生たちが気づいて駆け寄ってきた。
「菊池!また飲みすぎか」
「すみません、先輩方」
サークルメンバーの一人が私たちに頭を下げる。
「いつもこうなんです。音楽の話になると止まらなくて……」
「いや、こちらこそ楽しく話せて良かったよ」
私は苦笑しながら答えた。現役生たちは菊池くんの両脇を抱え、ゆっくりと立ち上がらせた。
「じゃあ、私たちで送っていきます。本当にありがとうございました」
私と村上は立ち上がり、菊池くんの背中を軽くたたいた。
「頑張れよ。次のコンテストも楽しみにしてるからな」
仲間たちに支えられながら、菊池くんはフラフラと店を出ていった。その後ろ姿を見送りながら、私と村上は深いため息をついた。
しばらくの沈黙の後、村上がつぶやいた。
「若いっていいな」
その声には羨望と懐かしさが混ざっていた。
「ああ」
私も頷く。グラスに残った生ビールを見つめながら続けた。
「でも、あの頃に戻りたいかって言われたら……」
言葉を濁す私に、村上が笑いながら続けた。
「そうだな。まあ、今は今で悪くないさ。それに、仕事のストレスを音楽で発散できるのは、音楽好きの特権かもしれないな」
彼の目には、どこか誇らしげな光が宿っていた。私も同意して付け加えた。
「それに、若い頃には気づかなかった音楽の深さが分かるようになった気もする」
グラスを手に取り、一口飲む。村上が興味深そうに尋ねた。
「島田、それって奥さんの影響か?」
「どうだろうな」
私は少し考え込むように言った。
「でもクラシックだっていいもんだよ」
会話が途切れ、居酒屋の喧騒だけが耳に入る。しかし、この静寂は心地よいものだった。長年の友人と共有する沈黙は、時に言葉以上に雄弁だ。
やがて、店員が片付けに来る気配を感じて、私たちは顔を見合わせた。帰り時だという無言の了解が交わされる。
「そろそろか」
村上が立ち上がりながら言った。私もゆっくりと席を立つ。
「ああ、また飲もうな」