第706話 ワイアットの苛立ち
クルシュ歴372年5月半ばを過ぎた頃――。
キールたちがちょうどカインズベルクのクリストファーとフランソワに会っている頃、その西の国キュエリーゼ王国では、一つの問題が発生していた。
後継第一位の王子、ウィリアム・フォン・キュエリーズは秘書官からの報告を受けて眉を寄せた。
「――ったく、リトアーレめ、外交問題を引き起こすつもりじゃないだろうな……」
報告によれば、ローベからダーケートに向かっていた一個商船団が、海上でリトアーレの船団と遭遇し、一時、航路を塞がれたという。
ローベの船団がこれを迂回し航路を変更したため、結果、ダーケートへの到着が1日遅れたというのだ。
「――王子、これでもう2度目です。先週にも同じようなことが起きたばかりですから、さすがに偶然とは言い逃れしかねる状況と言えます。状況・船の形状・遭遇位置から見て、同一の船団の仕業ではないかと思われます」
そう意見を呈した秘書官に、そうだなと応じておいて下がらせる。
(くそ、キールのやつ、何をしてやがる――)
ウィリアム、いや、「ワイアット」はいら立ちを隠せなかった。
ワイアットはキール・ヴァイスを買っている。それは、否定しない。
それが故に、ローベの港の拡張部を専用港にする計画に間接的に手を貸したのだ。
ローベの有力商人であるハーマン・ラオ・ギャラガーと引き合わせたのは、今後のキュエリーゼ王国の未来の為、キールの成そうとしていることが必要になるだろうと、その考えに共感したからでもある。
あいつは、「海に国を創る」と言った。
もちろん、「国」というのは「国土」つまり「領地」があってこそ成り立つものであると、ワイアットも考えている。
が、広大な海の先には、我々人類が未だ足を踏み入れていない土地もあるはずだ。それらをすべて「自身の領土」として主張すると、そうキールが言っているのではないと理解している。
キールが言っているのは、「観念的な」国であろう。
そもそもあいつは「王」という器ではない。
それは自分自身のことがよくわかっているワイアットには共感できるところがある。
「王」とは常に国民や国土のことを最優先に考え、判断を迫られる存在だ。
その判断は、一部のものに有利な判断ではなく、常に全体最適なものである方が望ましい。
そして、その判断について、多くの国民が納得する、いや、多くの国民を納得させられる、それだけの「人徳」が必要な存在なのだ。
(俺もあいつもそこはよく似ている。残念ながら、少数の人間には理解され、支援してもらえるとしても、圧倒的多数の人間たちから、『あの人が決めたことならやってみるか』と支持してもらえるような人間ではない――)
キールが言っているのは、あくまでも、レント族とエルルート族の二極化を防ぐための第三勢力を作るということと、今後活性化するであろう海上運用時における治安の悪化に介入するための行動力(もしくは軍事力)を持つこと、大きくはこの「二つの目的」のためだろう。
その為に必要なものは、海上を縦横無尽に移動できる機動力、そしてそれが可能な艦船の性能と数である。
決して、「国民と領土」ではない。
そういう意味で言えば、「キールの国」がレントの大陸にある現状の14カ国と、エルルートの国土と領民に対して攻撃や侵略を加えることはまず考えられないとみている。
それであればなおのこと――。
今回のような事案が海上で発生しているということについてキールはどう考えているのかが気になってくる。
仮にこの状況について放置するようなことがあれば、さすがにキールを支援することに躊躇いが生じないと断言できない。
(キールが動かないのであれば、自分で何とかするしかなくなる。今はまだ、航路を塞ぐという程度だが、今後もし船団に攻撃的な行動をとるようなことがあれば、さすがにリトアーレに抗議を申し入れる形になるが……)
そうなれば少なからず、二国間の関係に歪みが生じるだろう。
場合によっては、リトアーレが放置し続けた結果、こちらが実力行使に出なければならなくなり――。
(――行きつく先は、リトアーレとキュエリーゼの戦争、か……。キール、一体何をやっている)
これがワイアットの苛立ちの現況なのだ。
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食事を終えたあとのこと。
キールは久しぶりにカインズベルクの夜の街をふらつくことにした。
ミリアとアステリッドはフランソワと話し込んでいたし、クリストファーも最愛の妻の元を離れはしないだろう。リーンアイムはと言えば、食べ過ぎた結果、腹を抱えてソファの上で眠ってしまっている。
キールは皆に気を使いつつも、自身も久しぶりに一人でこの街を歩いてみたいとそう思い、「すこし散歩してくるよ」と言い残して居間から出ようとした。
ユルゲンさんが気を使って、誰か供につけましょうかと言ってくれたが、国家魔術院の誰かがキールを監視していることは今でも変わりなく、おそらくのところ、キールたちがカインズベルクに到着していることを嗅ぎ付けた諜報員の誰かがすでに邸宅の周囲で様子を伺っていることだろうから、護衛の心配はないと思う。
大丈夫です、と短く答えておいて、邸宅の玄関を出た。
果たして、キールが邸宅から出てしばらく街を歩いていると、一人の見知らぬ人影がすぅっと寄ってきて、キールに耳打ちする。
「キール様。海上で少々問題が起きています。キュエリーゼとリトアーレの間でです。できる限り早く、詳細を隠れ港の情報網から得てください――」
彼は目を合わさずそう言うと、そのままキールの元を離れていき、また人ごみの中に姿を消した。