第694話 前世の記憶と自身の記憶
「じゃあ、いくぜ? 灯りを頼む――」
ジルベルトがそういって、闇の入り口へと足を踏み入れた。
これに呼応して、アステリッドが「灯火」の術式を発動し、廃水道の中を照らし出す。
「目的の場所はそう遠くない。20メートルほどまっすぐ行ったところだ」
キールはジルベルトにそう伝える。
わかった、と答えたジルベルトがゆっくりと歩き出す。
廃水道の中はからりと乾いていて、そこまでの悪臭はしない。が、横幅2メートルほどしかないため、かろうじて二人並んで歩けるほどだ。
ジルベルトを先頭に、キールとアステリッドが並んで続く、そして殿にミリアが続いた。
「何もいねぇな?」
沈黙に耐えられなくなったか、ジルベルトが言葉を発する。
「居なきゃ居ないに越したことは無いだろ?」
と、仕方なく返してやるキール。
「まあ、そうなんだけどよ? ほら、なんつーか、ここはばぁっと何かが出て来て、それをずばんと切り捨てたりして、いいとこ見せたいじゃねぇかよ?」
「だれに、だよ?」
「え? そりゃあ、メストリルでも指折りの美女が二人も後ろにいればよぉ、決まってるじゃねぇか」
「ジルベルトさん、無駄ですよ? 私たちにいくらアピールしても、何も意味はありませんから――」と、アステリッド。
「いやぁ、別に気を引こうなんて思っちゃいないぜ? あんたら二人は、旦那にぞっこんだからな? ただ、なんつーか、ほら、俺って以外と誤解されてるんじゃねぇかなと思っててな。すこしは役に立つってところを見せたいわけよ」
などと、無駄な会話を続けながら一行は廃水道のなかを20メートルほど進んできた。
「ジルベルト、あと2メートルほどだ、そこが目的地点だ」
「2メートル? 何もないぜ?」
「ああ、いまは、な――」
キールは自身の中にある『ヒルバリオの記録』を引っ張り出そうとしているわけではなかった。
不思議なことに、完全に『自分の記憶』として認識していると感じている。これは初めて味わう感覚だ。
(なるほど、デリウス教授がなかなか造船所から離れられないわけだ――)
おそらくのところ、デリウス教授も自身の過去の人物の『記録』をまるで自身の記憶かのように感じ、船を造ることに没頭してしまっているのではなかろうかと、キールは思ったのだ。
(――これは一度、デリウス教授を無理やりにでも造船所から離した方がいいかもな。場合によっては、過去の人物の『記録』に飲み込まれて、人が変わるなんてことも無くは無いかもしれない)
「前世の記憶」――と分かり易くまとめるが、これらの『記録』は、普段はあくまでも自分とは違う別の人物の『記録』だと理解している。
だが、『その人物の記録』にかなり近い状況まで迫ると、自身の『記憶』として認知し、滞りなく対応できるようになるのかもしれない。
今のキールの感覚は、「自分はこの場所をよく知っている」というものだ。もちろん目的地点である『壁』の位置も分かっているし、そこで唱える魔法式句もはっきりと『覚えている』。
この状況に長く浸っていると、もしかしたら、本来の自分と過去の自分が混同し、自我を見失う可能性が無いとは言えない気がする――。もちろん、憶測の範囲は出ない。実際のところは、それ程気にしなくてもいいものかもしれないが、やはり、デリウス教授が大学に戻ってくる機会が減っているような気がするのは、少し気になる。
「そこだ……。ジルベルト、警戒を怠らないでくれ。何が出るかわからないからな?」
「ああ、もちろんだ。いつでもいいぜ?」
「二人は、少し下がって――。じゃあ、開けるよ」
キールは、アステリッドとミリアに下がるように指示すると、壁に向かって手をかざす。
そうして、『記録』の中にある魔法式句を唱え始めた――。
そもそも、この「式句」というのもどこの言語かわからないものだ。もしかしたら、どこの地方の言語でもないのかもしれない。
たぶんそうなのだろう。要は、ただの『暗証番号』のようなものだ。人によっては意味のある数列かもしれないし、そうでないかもしれない。
キールが「式句」をすらすらと淀みなく唱えていくと、その壁にぼんやりと魔法陣が浮かび上がり、そしてついにその壁が音を立てて動き出した。
「――すごい。これも魔法の力なの?」
と、ミリアが少し驚きの声を漏らす。
「どうだろうね。僕にはこれが誰が施した術式かなんてわからないからね。それに関しては、ヒルバリオ――いや、ウィンガード家の人たちも知らなかったのかもしれない。それに、いま唱えた「式句」もいつのものかわからないし」
と、キールは答えておく。
もしかしたら、当時の当主キリアス・ウィンガード男爵だけは前当主から聞かされていたかもしれないが、今となってはそれもわからないことだ。
「キール――」
と、ジルベルトが珍しくキールの名前を呼んだ。
「ああ、わかってる――」
そのやり取りと同時に、4人は戦闘態勢を整える。
「あれは――ブラックスライムか? それにしては――」
と、ジルベルトが眼前に広がる粘着性のあるゲル状の物体を見て言うと、
「ああ、とんでもない大きさ――だな」
と、キールも応じた。