第685話 伏龍紋とは
「あ、キールさん、おかえり……あぁっ! その手に持ってる箱は、『ハニーさんのドーナツ』じゃないですかぁ! もしかして、差し入れですかぁ!?」
キールが教授室へ入るなり、アステリッドが目ざとくキールが下げているドーナツの箱に目を付けた。
「アステリッドよ、それは、旨いのか? なんともいえぬ良い香りがほのかに漂ってきておるが――」
と、リーンアイムが鼻を鳴らす。
まったくこいつは、本当に食べることしか頭に無いのか――。というより、これだけ長く生きていてほとんどの時間を「食」に費やしてきたのではないかと思える節がある。
「ああ、そろそろ小腹もすいてる頃だろうけど、ジョドが話があるからって言ってたからね。少しは腹の足しになるだろう?」
そう言いながら、近寄ってきたアステリッドにその箱を手渡す。箱を受け取ったアステリッドは、すぐさま丸テーブルの上に箱を置くと、それを開いて覗き見た。
「ああ! ショコラ・クリーム・クランチに、クッキー&クリームもあるぅ! キールさん! わかってますねぇ!」
などとアステリッドが歓声を上げたが、キールは、良く分からなかったから店の人にお願いしたと、言い出しにくくなる。
「そ、そうかい? 適当に選んで来ただけなんだよね――」
と、言葉を濁すキール。
「ま、まあ喜んでくれてるなら買って来たかいがあったってものだよ。さあ、遠慮なくどうぞ? あ、僕は、そのミート・パイっぽいのでいいから――」
「あ、じゃあ、キール、私と――」
と、キールの言葉にミリアが何か提案しかけた瞬間――。
「キールさん! ここのイチオシは、このショコラ・クリーム・クランチなんですよぉ! 私と半分ずつにしましょう! 折角買ってきた人が、おススメを食べないなんて、ありえないですから!」
アステリッドがそう言って、ぱぱっと二つのドーナツを箱から取り出し、一つをキールに渡した後、自分の持っているチョコレートのかかったドーナツを二つに裂いて片方をキールに差し出してきた。
「あ――」と、ミリアが言う間もないほどの時間である。アステリッドの行動が異常に早い。
「むう、アステリッドよ、我にも一つくれんか――」
と、リーンアイムが口を挟むが、
「どれでも好きなの取ったらいいじゃないですか。私はキールさんの分を取るので手一杯なんですから――」
と、素っ気なく振る。
「あ、ああ、みんなも、好きなのとっていいよ? 数は充分にあるはずだから、なんなら2つ食べてもいいから――」
と、なんとか言葉を挟むキール。
「リーンアイムさん、聞きました? 2つまでですからね? それ以上はダメですよ!」
アステリッドがすかさずリーンアイムを制する言葉を掛ける。
――この子、相手が数万年以上も生きている生命体で、なんなら、「カミサマ」よりも長寿の存在であることを、全く意に返さずに『制御』している。
キールはアステリッドこそ、現世生物最強なのではないかと、おもわず考えてしまった。
その後、数分かけて、みんなでドーナツ・タイムを過ごした後、「会議」がおもむろに始まった。
今この教授室に集まっているのは、キール、アステリッド、ミリア、ジョド、べリングエル、そしてリーンアイムの6人だ。
まずは、キールから、静謐の玉の処理に関しての報告。ボウンさんにも任務の完了報告をしたことなどを話す。次の試練は6月の上旬ごろだということも付け加えておいた。
ついで、ミリアから。ミリアはこの二日ほどの間は、公務に明け暮れていた。国家魔術院魔術師の魔法訓練や、来賓の応対、式典への出席などで多忙にしていたらしい。
そして、本題――。
「まずは、『伏龍紋』についてじゃ――」
と、ジョドが話し始めた。
キールたちが、『奈落の迷宮』内で遭遇した、ボス部屋の紋章――。
床の上に浮かんだ、竜が伏せたようなあの紋章のことだ。
ジョドの説明によると、あの『伏龍紋』というのはドラゴン族固有の結界魔法の一つだという。
ある地点の別の次元に物を収納するという魔法で、現代の「次元魔法」と同様の種別に類する魔術式と考えてもいいと言った。
前に示したように、ドラゴン族が魔法を使用する際には、術式展開のような面倒な「儀式」は原則として行わない。
「――しかし、あの魔法については例外じゃ。あれは複数のドラゴン族、大抵は3名ほどがその命を賭して編む術式でな……」
ある一定の場所に亜空間――つまり異次元空間――を生み出し、そこに対象の物体を収納する。そして、ある条件を満たせばその扉が開かれ、一時的に収納されたものが姿を現す――。
そして、一定時間が経過すると、術式が再発動して、その対象物をふたたび亜空間に収納するのだという。
今回その空間に納められていた『静謐の玉』を、だれがいつ何の目的でその場所に安置したのかは不明だが、少なくとも、周辺の魔物のバランスを調整しているという事実は、すでに「カミサマ」が言及しているといっても過言ではない。
「それで? あの『赤嶺石』を砕いたのがその「開錠方法」だってことで、いいのかい?」
と、キールがここで質問をする。
ジョドは、返事をすぐには返さず、少し間をおいてから静かに言った。その表情には最後まで、決断を悩んでいるような節が見られた。が、数秒後、ジョドは意を決したように言葉を返した。
「いや、実はそうではないのじゃ――」