第669話 小さいながらも
「別に構わないのだぞ? ここを使ってても」
『英雄王』さまが優しい声でそう言ってくれた。
だが、やはり、いつまでもお世話になるわけにはいかない。自分も一人前の人として自立することも必要だと思うのだ。
ローズは、『英雄王』にふわりと笑顔を向け、
「本当にありがとうございました。祖母が亡くなってからいままで、こちらで過ごすことが出来て、充分に心の整理も付けることが出来ました。でも、いつまでも誰かに甘えているわけにもいきません。私もそろそろ自分の足で立ちたいんです――」
ローズはそう言うと、深々と頭を下げた。
「そうか――。俺はそのう、なんだ……、少しの間だったが、一緒に暮らせて楽しかったぞ? ここはお前の第2の故郷だ。いつでも遊びに来るがいい。いや、そうじゃないな。せめて一週間に一度ぐらいは顔を見せてくれ」
『英雄王』さまの表情がいつもの快活さを失っているように見える。ローズが『英雄王』さまと過ごしてきたこの一月ほどの間で、このような表情を見るのは初めてのことだった。
「おじさま――」
一緒に暮らすのにいつまでも『陛下』と呼ぶのは少し窮屈だと言って、『英雄王』さまがそう呼ぶようにと命じた「呼び方」だが、今では自然にローズもそう呼べるようになっている。
ローズが一人で生きていくために必要な全てのものを揃えるまで、「おじさま」にはずっと見守ってもらった。
「ん?」
「失礼します――!!」
やや、困惑し返事を返す『英雄王』に、ローズは、だっと駆けよると、両腕で抱きついた。
「ローズ……!」
「本当に、帰ってきてもいいんですね?」
抱きついたまま、ローズはそう聞いた。
すると、ローズの体全体を、力強く、だが、そっと優しく包み込むように英雄王が抱きしめて言った。
「言っただろう? ここはお前の「第2の家」だ。自分の「家」に帰るのに、許可を取る奴がいるか?」
「はい――。おじさま、毎週日曜には帰ってきます――」
ローズはそう言うと、名残惜し気に英雄王の懐から離れる。
「では、また――。次の週末に――」
「ああ、ご馳走を用意して、待っているぞ?」
そう言った『英雄王』さまの表情には先程の寂寞はすでに消えているように見えた。
ローズはもう一度頭を下げると、踵を返して歩み始める。
その足取りにはすでに自信とやる気が漲っている。
おばあさんが居なくなって、クエル村を出る時のこれからの行く先が定まらない不安感のあった時とは違う。
今は、「行く場所」が定まっている。そして「希望」も「仕事」も「自分のするべきこと」もあるのだ。
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「ねぇ、ローズぅ、これはここでいい?」
ハルちゃんが短杖を掲げながらそう言った。
短杖の指し示す先にはゆらゆらと小テーブルが浮いている。
「うん、そこに置いて――。あとはっと、台所の調理器具だけかな……。ふぅ、ようやく片付いたわね。ありがとう、ハルちゃん手伝ってくれて」
「ローズひとりじゃ、重たいもの運ぶの大変だろうからさ。それに、この部屋、結構広いよね?」
ローズはこれまでのクエスト報酬を貯めて、自分で部屋を借りることが出来た。
場所はメストリーデの商店街近くのアパートだが、部屋数は2DKで、一人暮らしには充分すぎる広さだ。
「うん、たまたま、前の人がちょうど引っ越した後でね。タイミングが良かったわ」
「ここなら、ボクらのパーティの作戦会議にも使えるね?」
「そうね――。その代わり、使った後はしっかりと掃除してもらうからね?」
「ははは、まあ4人でやればすぐできるよ。あ、ライとケイはあとで来るって。なんでも、引っ越し祝いを用意してるからって言ってたよ?」
「引っ越し祝い?」
「あ、しまった。思わず言っちゃった……。ローズ、聞かなかったことにしといて?」
「え? いまさら?」
「だって、ライとケイはローズを驚かせるつもりだって言ってたんだよ」
「ハルちゃん。それ、言っちゃダメなやつでしょ?」
「ははは、だからー、適当に合わせといてよね?」
――コンコン!
扉を叩く音が響く――。恐らくは、ライカールトとケイトの二人だろう。
「はーい! あいてるわよ? どうぞー」
ローズ・マーシャルの新しい人生が今日、この部屋から始まった。
その日、『囁く狼』の4人は、ライカールトとケイトが持ってきた引っ越し祝いの「アップル・パイ」を囲んで、「英雄王さま」が餞別に持たせてくれた赤ワインを楽しんだのだった。




