第648話 お帰りなさい、クリス
クルシュ暦372年4月下旬ももう半ばに入る――。
あと数日で、4月も終わりを告げようとしている。
メストリルに戻った一同のうち、『火炎』は一応事の次第を『氷結』へと報告し、デリアルスの国家魔術院もそのうち軟化するだろうと告げて自国へと帰っていった。
実際のところ、国王の「緊縮外交」に倣っていただけのことで、国王ミハイルが「積極外交」へとシフトすれば、ユリアス院長もまた、レイモンド院長との交渉のテーブルに着くことだろう。
そして、それを加速させたのは、クリストファーと国王ミハイルとの秘密会談だった。
クリストファーは、久しぶりに座る自分の席に腰を下ろして、部屋の中をぐるりと見渡した。
この部屋、「|デリウス教授の教授室《キール一味学生部のアジト》」はあの時から何も変わってないんだな――と、心を包むような郷愁に誘われる。
4人は昔のように丸テーブルを囲んで座っている。
いつもなら、教授机の椅子にデリウス教授が座っていたのだが、今、デリウス教授はケウレアラの造船所に入り浸っているため、代わりに現在の部屋の主である、リーンアイムさんが座っていた。
「おかえりなさい、クリス――」
不意にミリアがそう言った。
彼女はいつも、クリストファーの右隣に座っていた。そして今も、そこに座っている。
クリストファーは右へと視線を移し、
「ああ、ただいま、ミリア。ここに戻るのに、随分と時間がかかってしまった――」
と、応じる。
「クリストファーさん、お帰りなさい、です」
と、次はアステリッドが言った。
彼女は思ったことを率直に言うところがあるのだが、その実、とても優しい人を思いやる気持ちに溢れている女の子だ。
今も、感極まって、その瞳を潤ませているのが窺えた。
「ありがとう、アステリッド。たくさん心配かけてしまったね」
クリストファーは左に座るアステリッドの方へと視線を移してそう返した。
「――もう何年になるんだっけ?」
と、相変わらずの様子で聞いてくるのはキールさんだ。
この人だけは、どこまで行ってもたいして変わらない。
常に飄々としていて、それほど感慨に浸らない。恐らくそれは、この人が常に前を向いて生きているが故なのかもしれないと、クリストファーは最近そう思うようになっている。
「――そうですね。おおよそ4年、ですか……。思ってたよりかかりましたね。まあ、今「メストリル」に戻ってきたとして、僕が出来ることなんてあまりないですし、何より――」
「ヘラルドカッツでやらなければならないことがある。――いや、世界中で、と言った方が正解かな?」
クリストファーの言葉尻を捉えて、キールさんがそう続けた。
「ですね。ヘラルドカッツの経済力はやはり頭一つ以上抜けています。今回のデリアルスへの割賦支援にしても、ヘラルドカッツであるがこそできることなんです。おそらくメストリルでは資金の建て替え払いなど、無理があるでしょう」
割賦販売をするということは、支払いが後回しになるということだ。
しかし、音声通信施設やアンテナの建造には資材はもとより人手もかかる。それらにかかる費用は基本的には随時払いなのだ。
つまりは、誰かが、デリアルス王国の替わりにその費用を捻出する必要が生じるというわけだ。
その額は相当の金額となる。
それを丸抱えするには国家予算にかなりの程度余裕がないとできないのだ。
そして、一つの国家に対してその優遇措置を取ったということは、すぐに世界中に知れ渡ることになる。
そうすれば、我も我もと交渉に乗り出してくる国家はいくつかあるだろう。
その為の予算も準備しておかなければならない、ということだ。
「――キールさん。ここから急速に世界中に音声通信技術が行きわたります。おそらくあと数か月――。今年の年末にはほぼ大陸全域で通信が可能になるでしょう」
「――ヘラルドカッツの経済力の高さが現れているね?」
「ええ。各国間の貿易も活性化され、流通経済には大きな変化が訪れます。僕の目算では、一年後には国際為替市場が開かれます――」
「――このままだと、ヘラルドカッツの一人勝ち、だな」
「そうなるでしょうね。ただ一つ、これに対抗できる可能性があります。それは――」
「エリザベス教授の『水力発電所』だよね。今の発電機では電力を賄い切れないというより、それほど多くの発電機を作る時間がないんだ。世界中に通信施設が建造されるということは、電力が今後大量に必要になるということだ。ここに対して、自然の力を利用して電力を大量に生み出すことが出来る『水力発電所』は、世界中が注目することになる――」
「――そうよ、キール君! だから、私も急いでいるのよ!」
そう言って部屋に入って来た女性がいる。
年齢の割に肌つやがよく、相変わらずの色気は変わらない――。やや大きく開いた胸元からは張りがよく豊満な胸が覗いている。
クリストファーの恩師であり、導師。そして今や、クリストファーと肩を並べることのできる『唯一の科学者』――。
クリストファーは立ち上がって、懐かしき恩師へと正対する。
「教授、長い間留守にして申し訳ありません。また、その節は――」
「クリス――!」
申し開きをしようとしたクリストファーをがばぁっと正面から抱きしめるエリザベス。
「いいの、いいのよ。本当にたくましく立派に育ったわ――。もう私があなたに教えることはないかもしれないわね。でも、クリス、私はあなたを一人にはしないわよ? 私にだってまだ、学者としてのプライドがあるんだからね?」
クリストファーは、今は、彼女の体温を素直に受け入れようと、彼女が自分から離れるまでじっと待つことにした。




