第597話 ローズと「教授」
クルシュ暦372年3月25日――。
ローズはメストリル王立大学内のエリザベス教授の研究室にいる。
そこで何とも不思議な話を聞くことになってしまった。
私があの文字列を「読める」のは、私に前世の記憶が残っているからだと、エリザベス教授が言った。
『前世の記憶』? まずはその意味がわからない。
私たち人間は何もない母親の胎内に命の種が贈られ、それが結実し、生まれ出る、と初等教育学校でそう教わった。
「何もないもの」に記憶などあるはずがないではないか。
ところが、エリザベス教授は、実はそれは事実ではないのだとそう言った。
人が誕生するというのは、男女が性交を交わした時に、男性の体内で作られた種と女性の体内で作られた種が交わり、そこに「魂魄」というものが神から贈られ、一人の人間の赤子として結実し、いずれ出産によって世に生まれ出ることなのだという。
ここでも聞きなれない言葉が出てくる。
『魂魄』――。
これはいわゆる自分の体に宿っている「意識」というもののことだと考えていいらしい。
つまり、今こうやって考えている「意識」が「魂魄」であり、これが物質である自身の身体に宿って、人間を形成しているというのだ。
そして、この「魂魄」の中には、すでに一度もしくは数度人生を終えている経験を持つものもあり、その魂魄に「記録」として残っているらしい。
「――まあね、そんなこといきなり言われても、今はまだ信じられないどころか、言っているこの私を頭のおかしい人だと思われても仕方ないんだけどね?」
と、エリザベス教授は困ったように笑った。
「あ、いえ、そんなことは――」
と、一応は返す。
事実、たしかに私を言いくるめてしまうつもりかと疑ってしまわなくもないのだが、よくよく考えれば、わざわざ私のような平民を言いくるめてしまったとしても、なにもメリットなどないこの人たちが私を騙す理由が見つからない。
「――もう、キール君がいてくれれば、一発で解決する話なんだけど、彼、今は海の上だから……」
と、教授が不満を表した。
「キール、くん?」
「あ、ああ、英雄王が言ってた仲間の一人――って言っていいのかな。『稀代の魔術師』なんて呼ばれている青年なんだけどね? 確か年齢は24――だったかな。その子がここにいたら、あなたに今説明したことが即座に解決するって話。でも、彼今は遠く西の海の上に遠征に出てて、ここに戻ってくるのにまだ掛かりそうなのよ」
「はあ――」
「――ところでローズちゃん、元々はノースレンドに住んでいたんでしょ? 家とかはどうしたの?」
エリザベス教授の問いに、これまでの自分の経歴を掻い摘んで説明する。
物心ついた時には祖母と二人暮らしだったこと、ノースレンドの東、クエルの街の郊外の集落に住んでいて、そこに家がまだあること、クエルの街の雑貨屋ベルルさんの家に間借りして暮らしていたことなどを話した。
「――ってことは、そのベルルさんのところにまだ荷物は置いたままってことよね?」
「はい。戻るかどうか決まったら、連絡してくれってベルルさんには言われています。ですので、手紙を書こうかと思うのですが、どうでしょう?」
「なるほど――。あ、そう言えば今日あたりあの子が帰ってくるかもしれないわ――。ローズちゃん、私に少し考えがあるの、その手紙の件、少し待ってもらえない?」
「考え、ですか?」
「ええ、うまく行けば、クエルの街にいったん帰れるかもしれないわよ?」
「クエルに帰るって、往復で何日もかかりますよ?」
「大丈夫、だから私に任せて――」
そう言うと、エリザベス教授は、私早速行ってくるから、あなたは街の中でも見て回っていらっしゃい、ハルちゃんに迎えに来させるからここで少し待っててと口早に告げるなり、教授室を飛び出して行ってしまった。
なんとも、せわしのない人だなぁと思ってしまうが、大学の教授なんて、ああいう風に「即行動」って感じの人が多いのかなぁとわからないなりに自分の中で結論付けることにする。
ローズは一人になった部屋の中をぐるりと見渡す。
先程のエリザベス教授の性格がよく表れている部屋であると、そう思った。
机やテーブルの上には何かわからない難しそうな本や紙切れや、金属の塊や、ガラスの破片みたいなものも散乱していて、お世辞にも整理されているとは言えない。
(やっぱり、こんな感じの人だから教授とかになるのかな――)
と、思っていると、コンコンとドアをノックする音が聞こえた。
「はい、開いていますよ?」
と、ローズは反射的に返してしまったあと、部屋の主がいなかったことに気が付く。
でも、それはそれで、留守だと告げてやればいいかと思いなおすことにした。それに、ハルが来てくれたのかもしれないし――。
がちゃり――と音がして扉が遠慮がちに開くと、そこには中年の冴えない感じの男の人が立っていた。
「あ、ごめんなさい! 部屋をまちがえた? かな?」
と、その男の人は焦ったように言う。
「あ! いえ、エリザベス教授はいま少し外されていて――」
と、慌てて返す。
「あ、そうなんだ。この時間にって約束だったんだけどな――。まあ、いつものことだから、別にいいんだけど、ね。ああ、ごめんね驚かせて、私の名前はエリック・ヒューラン。エリザベスの夫と言えばいいのかな――」
その男の人から俄かには信じられないような言葉が飛び出てきた。この人と教授が夫婦? なんだか、イメージが――。
この男の人には悪いけど、本当に大学の教授って、よくわからない人が多いのかもしれないと、そう思ってしまったのだった。




