第570話 策士キール、竜を罠にかける
クルシュ暦372年3月20日――。
西の大海・洋上にて。
ローベの港を出て、7日目――。
ようやく、その声が聞こえた。
「船長! 見えたぜ! 大滝だ!」
副長のミューゼルが、船長室にいたキールへ報告に来た。
キールは頷くと、やっとか――、と返す。
ここに来るまで、なかなかに困難な航海だった。季節外れの大風、大雨に煽られ、思うように航路が取れないと思ったら、全くの無風が丸一日起きたりもした。
キールや副長ミューゼル、航海長のオネアムらの計算では、5日で到達できるとしていたのだが、二日も多くかかってしまったのはまさに天候の仕業という他ない。
「キールさん、着いたんですか?」
アステリッドがぱぁっと表情を晴れやかにして問いただしてくる。
「見えた、と言ってただろ? 実はここからがまた大変なんだよ――。でも、ここはリーンアイムにも働いてもらおうかなと思ってる」
と、キールはそう言うとリーンアイムの表情をうかがう。この一週間、結構うまいものを食べて、悠々自適な時間を過ごしていたんだ、そろそろ働いてもらうぞ、という意思を込めて。
「――我に? 我は船の扱いなど何も知らんぞ?」
と、構えるリーンアイムだが、もちろん、船をどうにかしてもらおうなどとは思っていない。
「船を動かすのは頼まないさ。やってもらうのは、誘導だよ」
「誘導って――、リーンアイムさんがですか?」
リーンアイムではなく、アステリッドが疑問符を投げる。船を操船したこともないものに船の進路を指示するなんてできるのかという、全く基本的な疑問だ。
「――リーンアイムがいなかったら、見張り台のものがやるところだけど、斜めから見るより、真上から見る方がより正確だろうから、ね」
「見るとは、なにをだ?」
「それをこれから説明する。じゃあ、甲板に上がろうか」
キールはそう言うとようやく椅子から腰を上げた。アステリッドとリーンアイムもこれに続くと、3人は連れ立って船長室を出る。
甲板に上がった3人を見かけたロイとレックスがこちらに向かって手を振って、次いで、船の舳先の方角へと指を差した。
「キール! あれがユニセノウ大瀑布か! とんでもない場所だな!?」
と、ロイ。
「俺もいろんな景色を見て来たけど、さすがにこれは過去一だぜ! この景色は一生忘れねぇ――」
と、レックスが言った。
「レックス、この景色を絵に描いたらどうだい? たぶん君がデッサンを完成させるぐらいの時間はまだ十分あると思うよ?」
キールはレックスにそう返してやる。レックスが「画家」を目指していることをキールはアステリッドから聞いている。
「――なんだ、しってたのか……。アステリッド、話したな?」
そう言いながら照れくさそうにアステリッドの方を見やるレックス。なかなかに武骨そうな男だが、こう言った仕草をするあたり、随分と打ち解けてきていることが良く分かる。
「――だって、レックスさんとロイさんの夢ですから。仲間の夢は応援するものですよ?」
と、アステリッドも不敵に返す。
「夢か――」
「違うぞ、アステリッド! それは夢じゃなくて目標って言うんだ。夢は見るだけのものだけど、目標は達成するために動くものだからな――」
「夢」という言葉にやや寂しそうな反応をするレックスに被せるように、ロイが訂正する。
アステリッドも、そうですね、目標でしたねと受け、
「――さしあたり、私たちの目標の場所を、私もじっくり見てきます!」
と、言って舳先の方へと駆け出して行った。
「それで? 我に何をしろというのだ?」
「リーンアイム、まずは船の上から海面を見てくれないか?」
「ああ、わかった――」
と言って、舷側へと近づこうとするリーンアイムに、
「違うよ、リーンアイム。上っていうのは上空からって意味だよ?」
と、キールは空を指さして言う。
「なに? 空からだと? でも、ここでは竜変化は――」
「船の上で出来なければ、もっと広い場所があるじゃないか――」
「もっと広い場所――?」
「ああ、海はこんなに広いんだ。遠慮せずに翼を広げられるだろ?」
まさか――。
という声が聞こえるかと思うぐらい驚きの表情でリーンアイムがキールを見返す。その顔を見たキールは思わず吹き出しそうになったが、努めて冷静に、
「すこし水浴びでもしたらどうだ、リーンアイム。ずっと美味いものを食べてばかりいたんだから、そろそろ運動も必要だろ――?」
と言い放つ。
リーンアイムは、やられた、と悟った。
この一週間ほど、確かにリーンアイムはこの船の上での食事を遠慮なく食べ続けた。それは皆が知っている。
それなのにリーンアイムはただ船の上で漫然と過ごしていたのも事実だ。
食事の量は、この船上の誰よりも、間違いなく自分が一番多かった――。
ここで、キールの依頼を断れば、帰りの食事に明らかにそれは現れるだろう。また、船内の自分に対する空気ももしかしたら――。
「ぐ、むむむ……。キールよ、お前――」
「もちろん、帰りの食事も考えてある――。リーンアイム、頼んだよ?」
これがとどめの一撃だった。




