第561話 クリストファーのこれからの仕事場
時間は少し戻る。
クルシュ暦372年3月13日のことだ。
クリストファーはキールとアステリッドの船を見送ると、後ろを振り返った。
クリストファーの背後には、これから始まる事業の現場が広がっている。
港町ローベ。
そして、その奥の丘に広がる王都キュエリーズ。
この街に通信設備を設置する。それがこれからのクリストファーの仕事だ。
クリストファーはかつてよりこの街に関心を寄せていた。
この街ローベは、「中央大陸(=北の大陸)」の西海岸線のほぼ中央に位置している。古くから、海運業や漁業が盛んな街で、ヘラルドカッツに入ってくる魚介類や、貝やサンゴを用いた工芸品などの60%ほどがこのキュエリーズ王国のローベから輸入されているものだ。
この街に通信設備を配備することは、クリストファーが目指す「為替市場」の設立の為に、どうしたって避けては通れない「壁」の一つであった。
ヘラルドカッツには多くの商用品が集まってくる。
この自由経済主義の世において、それら「輸入品」には関税がかからないということで各国が協定を結んでいるのだが、運ぶためにはどうしたって「運賃」がかかる。こればかりは人の手を借りるものだから回避の方法が無い。
一事が万事、ヘラルドカッツでは物の販売金額が高くなる。
それは、ヘラルドカッツが内陸国であり、海産物に恵まれないのは地理的な問題として致し方が無いことなのだが、実のところ、海産物に限ってのことではなかった。
ヘラルドカッツはかつてはそれほど「大きな国」ではなかった。
もちろん、国土においてはメストリルの方がもっと小さいし、ヘラルドカッツより国土が広い国の方が少ないと言える。
しかし、ここで言う大きさは、土地の広さのことではない。
経済の話だ。
先程触れたように、ヘラルドカッツは内陸国であるがゆえに海産物の産出量は全くのゼロだ。それに加え、鉱山の産出もそれほど多くはない。隣国のキュエリーズとレクスアースに間に広がる山脈には鉱脈が数多く存在し、主に鉄の産出については世界一と言われるほどのものだが、ヘラルドカッツにはそれほど大きな鉱脈もないのである。
東にあるダーケートの「竹」のような地域特産品もない為、世界の市場で「売り」となるものを持っていないのだ。
それならばどうして、世界経済の中心地と呼ばれるほどの経済大国になったのか。
答えは、「立地」である。
ヘラルドカッツ王国は、この中央大陸のほぼ中心に位置している。そして、周囲の地形もさして要害もなく、ヘラルドカッツまでの道中はなだらかだ。
そして何よりも、その街道の整備に手を付けるのが他国よりも圧倒的に早かったこともある。
物を運ぶのは今でこそ運搬業者が主流になっているが、それまでは行商人が個人で行っていたのがほとんどであったため、街道の整備や警備が整っているところを選ぶ傾向が強かった。
それに何より、他国の特産品に興味のある購買者が多い地域を選択するのは自明の理だ。
ヘラルドカッツ王国のカーゼル・フォン・ヘラルドカッツェはそういったものへの投資を惜しまず行い、他国の特産品を積極的に王城でも用い、街も行商が行いやすいよう整備をした結果、今日の巨大経済都市を作り上げたのである。
(今後も、経済の中心と言えば、カインズベルクで揺るぎないだろう。だけど、このローベも海洋貿易都市としてさらなる発展が見込まれる。キールさんがこの街を選んだ理由もおそらくそれを見越してのことだ――)
クリストファーは、数年後には本格化するだろうエルレア大陸との交易において、この港町が注目を浴びることになるだろうと予測している。
距離的に言えば、ケウレアラの港で、ケウレアラ・メストリルの共同造船所がある、エランがエルレア大陸に最も近い。
だが、エランの港は狭いのだと聞いている。
地形的にも、拡張がやや難しい場所らしく、そこに港湾都市をつくるとなると、とんでもない費用と時間がかかると目算されているという。
それ故に現在のところ、このエランを開拓して拡張するという計画は上がっていないということだ。
それに比してこのローベの港は拡張しやすい周辺状況であり、古くから港湾都市として使われていた経験もあり、さらに、たくさんの船が入出港するのに適した開けた地形をしているため、さらなる拡張が期待できる。
実際、キールさんの船体係留所も、港の端を拡張工事して増設されたものだ。
「ねぇ、教授。公邸までの帰り道に少しローベを見て回って構いませんでしょうか?」
フランソワが、ふわりといい香りを漂わせて、クリストファーの腕に自分の腕を絡めてくる。
最近彼女が良く取るようになった行動だ。
出会って初めての頃、「偽装結婚」という形を取っていたころは、こんなに自然に彼女が自分に触れてくることはなかった。
せいぜい、ひじのあたりを摘まむ程度で、それ以上体が触れ合うまでには至らなかった。
今思えば、よくもまああの態度で「夫婦である」と言えたものだと思う。周囲の大人たちが疑いの目を向けなかったのは、二人の結婚に関心がなかったからか、はたまた、そういう距離感の二人なのだと、割り切って見ていたかだろう。
クリストファーもまた、自分の腕に絡むフランソワの手にもう片方の手のひらを添えて、
「ああ、かまわないよ? そうだな、アイスクリームなんかどうだい?」
と、返してやる。
フランソワがこちらを見て、それこそ弾けるような笑顔で、零れ落ちそうなほどに開いた大きな瞳を輝かせて、いいですわね、と言った表情を見て、クリストファーは本当にこの女性を心から愛おしいと思えるようになったことを改めて実感していた。




