第496話 アステリッドの相棒
アステリッドにとって今日は、人生最大の決断をした日と言えるかもしれないと、そう思っていた。
国家魔術院や『翡翠』さまからの仕事でもない限り、メストリル国内からでることもなく、日々訓練に勤めていた。
また、自身のプロデュースする『MItHa』の方も順調に売り上げを伸ばし、娼館の子たちの生活環境改善に大きく貢献できている。
大学卒業後、大学院に進み、エリザベス教授のアシスタントをする傍ら、『翡翠』さまの訓練を受けつつ、『MItHa』の仕事をこなす。そんな毎日だった。
おそらく現在のこのアステリッドの待遇は、院長と『翡翠』さまの配慮によるものだろうと、アステリッドは感じていた。
実際のところ、アステリッド自身の魔法の練度はかなり向上している。
が、素質の方は相変わらず、錬成「2」上位クラスのままである。
せめて、錬成「3」が開花すれば、ミリアさんと同等の素質となるのだが、その片鱗さえ見えない。
それでも、アステリッドの才能の高さは別のところで評価されていると言ってよかった。
彼女の魔法錬成には二つの大きな特徴がある。
一つは、錬成速度。そしてもう一つは、練成精度、だ。
この二つの要素は、魔術師の素質として、練成・クラスに次ぐ、大きな位置を占めている。
錬成速度は詠唱開始から発現までの時間の短さをいい、練成精度は、意図した位置に発現させるという精度を表している。
また、この精度の中に、射程距離も含まれている。
そして、アステリッドのこの二つの要素に関する素質という部分では、おそらくのところ、ミリアをもしのぐのではないかと『翡翠』は見ているのだが、その事実については言及するまでに至っていない。
ただ、アステリッド自身は、まだまだ経験も知識も練度もすべてが追いかける二人には全く手が届いていないと感じていることだけは事実で、『翡翠』さまもそう言っていることを潔く受け入れ、これまで訓練を怠ることはなかった。
結果として、魔術師としての性質的には方向がかなり違うが、ハルちゃんと模擬戦でやり合っても数度に一度は一本を取れるほどまでに上達している。
ハルちゃんは、さすがに『翡翠』さまの直弟子であり、その魔法技術は卓越したものがある。
おそらくのところ、こと魔法戦に限って言えば、ミリアさんとも五分ではないだろうか。
聞いた話によると、キールさんとハルちゃんは初めて会った時に対決して、キールさんが勝ったらしい。
アステリッドは今の環境に不満を持っているわけではない。
ハルちゃんと一緒に受ける『翡翠』さんの訓練は、実に実践的で、おそらくのところ、これほど実践的な訓練は、魔術院の訓練でも行っているところはないと思えるほどだし、それをこなしているということで、反応速度も術式選定も、より実践的な方向に調整されていっている。
おそらくのところ、冒険者ギルド所属の魔術師と比べても、遜色ないほどの技術と状況判断を身に付けていると思える。
が、やはり、一線級の魔術師たちと比べると、何か自分に足りないと感じているのもまた事実だ。
例えば、ウォルデランのシルヴィオさんを筆頭とする諜報部の魔術師たちや、ルドさん、ジルベルトさんなどと比べれば圧倒的に足りないものがある。
それは、経験だ。
いくつの修羅場を潜り抜けてきたか、それは自信と技能に大きく影響を与える要素だ。
キールさんは、常に修羅場をくぐってきている経験を積み重ねてきている。ミリアさんもまた、最近では魔術院の仕事でその経験を積み上げてきている。
アステリッドのみ、訓練は実戦的とはいえ、現実的に敵を前にして戦うという経験はまだまだ多くない。
「――お父さま、お母さま。私は明日から旅に出ることになりました」
唐突な娘の発言に二人は驚きの表情を隠せなかったが、いつかその日が来るだろうと予想していなかったわけではなかったらしく、
「気を付けていってらっしゃい。仲間を信じて、自分で何とかするなどと言うエゴを持たないようにするんだよ?」
と、父はそういい、
「しっかりやってきなさい。あなたが悔いのない生き方をすることを母さんは願っているわ」
と、母も理解を示してくれた。
「――少し待っていなさい」
と、父がソファから立ち上がり、しばらくすると、長さ50センチほどの長方形の木箱をもって戻って来た。
「――これは?」
「これは、コルティーレ家の家宝だ。残念ながら、私を含めて数代はこの箱の中身を手に取ることはなかった。それは、私たちにはその資格がなかったからだ。アステリッド、お前にはどうやらその資格があるようだと、お母さんとも前から話していたんだよ」
そう言ってその木箱を、アステリッドの目前に差し出した。
「開けてみなさい」
そう言われて、恐る恐るその木箱を開封すると、中には一本の短杖が納められていた。
銀色の杖身の先に、赤く光る魔法石が取り付けられている。
その真紅の魔法石の中でひらひらと光が揺らめくのが見て取れる。
「――やはり、お前にこれを託すのが正しい選択だったようだ。杖が閃いている。私たちはこんな光を見たことはなかった。さあ、手に取って見せてくれ」
言われるままにその杖身に手をかけ、箱から取り出してみる。
瞬間、先端の赤い宝石の中の閃きが一層強さを増した。
と、同時に、アステリッドの中に温かい何かが流れ込むようなそんな感覚が走る。
「――すごい魔力……」
「『深淵の血潮』――。当家の初代から伝わる魔杖だ。今でこそコルティーレ家は文官の地位に就いているが、初代のエルステンド・コルティーレは元は国家魔術院の主戦魔術師であった。そのエルステンドの愛杖だ。その魔石は、かつてエルステンドがダンジョンの地中深くに挑んだ時に発見したと言い伝えられている――。お前の力になってくれるだろう」
「『深淵の血潮』――。地底深くに流れる大地の血潮――。そうなのね、あなたが私の相棒になってくれるのね。これからよろしくね」
そう言ってアステリッドはその銀色の短杖を抱きしめた。




