第483話 サインをください
キールはそのままカウンターへ向かった。
約束の時間は夕方16時だ。
なので、今ここを訪れたのは、その要件ではない。
「すいません。この間は、登録だけで終わってしまいましたんで、今日は依頼の受け方やそういったことの説明を――」
と、 キールは受付カウンターに座っていた見知った顔の女性職員に声を掛ける。 先日、支部長のブリックスさんに取り次いでくれたひとだ。たしか、エリーさん、だったよな?
「え――? あ! キールさん!? 約束の時間は夕方ですよね!?」
と、エリーさんが目を丸くして驚いている。
もちろん、書簡は受け取っているのでそのことは承知しているが、それはついさっきのことだ。キールからしてみれば、今日は朝からギルドへ来て、この間の続きを説明してもらおうと昨日から決めている。
「ええ、もちろん知っています。書簡はさっき受け取りましたから。ただ、昨日から今日はこの間の続きを聞こうと思って――、って、エリーさん? 聞いています?」
キールが話している間も、エリーさんは口を大きく開けたままで、硬直しているため、キールの言葉が聞こえているのか若干心配になる。
「え、え、ああ! はい! だいじょうぶです! 聞いています! まさか、こんな朝から来られるとは思わなかったもので、心の準備が――。あ、いえ! なんでもありません! 気にしないでください! 説明ですね! そうでしたね! この間は登録だけでしたね! 少しお待ちください!」
なんとかこちらの要件は伝わっているようで安心した。が、そう返答したエリーさんは、慌てて、カウンターから後方に下がっていく途中で裏の事務机にぶつかったり、床に置いているゴミ箱を蹴飛ばしたりする始末だ。
(本当に、大丈夫かな。エリーさん、あんなに慌ててどうしたんだろう?)
と、さすがに不安になる。
エリーの心中を知らないキールがそう思うのは当然だろうが、エリー本人の気持ちを代弁するなら、
『いきなり朝一番に「推しのアイドル」が自分の職場に現れるなり、まっすぐ自分の目の前にやってきて直接声をかけてきた』
のだ。
そう考えれば、心臓が破裂するほどの驚愕とともに、頭に血が上るほどに惚けてしまうのはむしろ当然ではないか――。
机にぶつかったり、ゴミ箱を蹴飛ばしたりぐらいで済んで、むしろ、落ち着いている方だと言えるだろう?
エリーは自身に、「落ち着いてエリー、キールさんは、初級冒険者なのよ? これから先の彼の冒険者ライフがあなたの説明に掛かっているのよ?」と、いい気かせながら、手早く説明用の書類を揃える。
(ああ、どうしよう? 私の説明が拙かったせいで、キールさんが大怪我をしたりしたら――。大丈夫よ、エリー、彼は何といっても『稀代』なのだから。でも、もし――)
堂々巡りの思考がエリーの頭を駆け巡るが、職務を全うしなければならない。そうなのだ、私は、冒険者ギルド職員なのだ。
などと、わけのわからない使命感に何とか背を押され、ようやくキールの前に戻る。
「お、お待たせしました! あ、あちらでご説明いたします!」
と、カウンターわきの商談スペースを指さした。
キールは、指さされた方に視線を向け、その場所を確認すると、そちらへ歩を進めた。
二人掛けの小さなテーブルと、それを挟むように配置された椅子があるので、その入り口側の席にキールが着く。すると、エリーさんも、対面の椅子に腰かけた。
「キ、キールさん! こちらにサインをいただけませんか!」
席に着くなりエリーさんが正方形に近い硬めの紙を差し出してくる。
「え? サインですね。はい、えっと、この厚紙にですか?」
「はい! キールさんのサインが欲しいんです!」
「ええ、もちろん、サインはしますよ? でも、この紙には何も書いてなくて――。あ! もしかして、これって――!」
「ハイ! そのもしかです!」
「わかりました。この紙の真ん中でいいですか? へえ~、こんな制度があるんだ――はい、これでどうです?」
「とても素晴らしいです! かっこいいです! ありがとうございます! あ、では、冒険者ギルドのシステムについて説明いたしますね!」
「あ、はい。よろしくお願いいたします!」
そうしてようやくキールはエリーから冒険者ギルドの依頼票のシステムや、冒険者ランク、各国冒険者ギルドの取り扱い方法など、基本的な説明を受けることができた。
そもそも今日は一日予定がなかったため、近くでこなせる依頼があれば、試しに受注から達成報告までを一通りこなしてみようと思っていたのだ。
「ありがとうございます。良く分かりました。それでは、また夕方に来ますね。その前に、エリーさんから紹介してもらった僕の「初クエスト」、しっかりやり遂げてきますね!」
そう言って、席を立つと、そのままギルドをあとにした。
しかし、知らなかったなぁ。まさか今発行中の冒険者証に自分の直筆サインが彫りこまれるなんて――。
そんなことを考えながら、キールは依頼主の自宅へ向かって歩き始めた。
ああ、読者諸兄には先に断っておくが、もちろん冒険者証に直筆サインが彫りこまれる、などという制度はこの世界にはない。冒険者証に刻まれるのは、登録番号と氏名のみだ。しかも、統一活字で、である。
つまり、エリーがもらった「サイン」はなんなのか? 言うまでもないだろう。




