第421話 ひさしぶりにあの感覚に見舞われる
キールは大書庫の中をうろうろと見て回ることにする。
この大書庫の造りは、まず一階には大きなロビーが広がっており、貸出カウンターや、事務員さんたちの作業場がその片隅に配置されている。ロビーは読書スペースになっていて、いくつもの机や、ソファなどが並べられている。
その一階から吹き抜けになっている2階3階4階は書庫だ。3層とも同じ造りになっていて、吹き抜けの為、一階の一部が上からも見える。
キールは今2階に上がっているのだが、吹き抜け部分から下を見下ろすと、机の上に広げたエルレア大聖典を食い入るように並んで見ている二人の頭と背中が見えた。こうしてみると『英雄王』の背中の大きさがより際立って見えるのが印象的だ。
しばらくすると、ハルが目の前の聖典から視線を外し、メモを取る様子が見える。そして、『英雄王』を置いてけぼりにして次のページをめくった。どうやらうまく進んでいるようだ。
キールは、書架の方へと視線を移す。
確かにこれほどの蔵書数を誇るこの書庫の雰囲気に浸れるのは、本好きのものには得も言われぬほどの幸せを感じる瞬間だ。カインズベルクの大図書館もなかなかに凄かったが、ここはさらにそれを上回ってくる。
書架の本を何気なしに手に取ってみる。
記述は標準語でされているため、キールにももちろん読める。古代エルレア文字で書かれたものはさすがに読めないが、その比率はかなり少ないと言ってよさそうだ。エルレアも、レントの世界の存在を知ってから、長い時間をかけて邂逅する日のために準備をして待ち続けていたことが窺える。
異人種が交流するにあたって、言葉や文字はとても重要なファクターだ。互いに言葉が通じないと、相手の意図が正確に汲めず、ただことさらにその外見の違いで「敵視」してしまう傾向が強い。これは今でも言葉が通じない魔物どもと人類が互いに敵対していることからも明らかだ。
エルレアの人々は、いつか来るであろうレントとの邂逅に備えて、標準語を習得し、文字もそれに合わせて標準化させたのではないだろうか。寿命が長く、聡明な知能を有する彼らにとって、多言語の習得などはそれほど難易度の高いものではないのかもしれない。
「標準語」というのは簡潔な言語とは言えないかもしれない。例えば『一人称』を表すだけでも、私、自分、僕、俺、わたくし、手前、我、余など、いくつも存在する。そうしてそれを立場や自分の性格、場所や相手との関係によって使い分けなければならない。かつてキールが、いや、原田桐雄が生きていた世界にはこの「標準語」よりももっと単純な言語が存在した。例えば「英語」などがいい例だろう。英語の場合、基本的に『一人称』はたった一つ、『I』だけだ。どのような立場のものであってもいつであってもどこであっても、それは変わらない。すべての人が、一人称を『I』と表現する。
だが、キールはこう考える。
(一つだけだと、わかりにくいんだよな――)
「相手が自分をどう見ているか」が、である。
例えば相手と自分が初対面だったとして、敵意の無いものであれば、通常は、「私」を用いるだろう。そして、相手には「あなた」もしくは「そちら」を用いる。
ところが、敵意を持つ相手に対するときは、「俺」や「自分」を使うだろうし、相手には「お前」や「そっち」などを用いるだろう。
こういう言葉の表現が多いことで、即座に相手と自分の距離感や関係性が把握できるというのがこの「標準語」の優れている点だ。その分、習得には経験と反復が必要になる。
キールたちレントの者たちは、どの地方でもこの「標準語」で基本的には統一されているため、生まれたときから少しずつ時間をかけて習得してゆくので、それ程難しく感じることはない。
だが、初めてこの言語に接したエルルートの者たちはどうだったのだろう?
古代エルレア文字(語)がどのような文法なのかを全く理解していないキールにはそれはわからないが、別の言語を習得するということの困難さは、なんとなく(前世の)記憶の片隅に残っている。
この土地に来ても、船でも、『翡翠』も、ハルも、エルルートの者たちは今では何も問題なく「標準語」を用いているが、初めの頃はそう簡単には行かなかっただろう。
そんな彼らが、いつか訪れるレントとの邂逅の為に長い年月をかけて準備をしてきたことがこの書庫に並ぶ本たちを見ているだけで理解できる。
(エルルートとは絶対に戦争を起こしてはいけない。だって彼らはこんなにも長い時間をかけて僕たちレントを理解しようと努力し、準備し、待ち焦がれていたのだろうから。そんな彼らと戦うことになるなんて絶対に避けなければならないんだ――)
エルルートとレントの間にはまだまだいろいろな問題がこれからも噴出してくるだろう。でも、言葉がしっかりと通じる彼らとなら、互いにより良き未来を協力して模索し続けられるはずに違いないと、キールは改めて深く胸に刻み込んだ。
キールは2階から階段を上って、3階へと至る。
吹き抜けから見下ろすと、二人は相変わらずの姿勢で大聖典と睨み合っていた。
(なんか、おじいちゃんと孫が一緒に本を読んでいるみたいだな――)
と、思ったが、もちろんそんなことをあの『英雄王』の前で口に出す勇気はない。
キールは少し可笑しくなり、頬をほころばせながら、周囲の書架を見渡した。
「ん? なんだ、この感覚――、もしかして――?」
久しぶりに味わうこの感覚。
その感覚に誘われるようにキールは歩みを進めてゆく。
何か音がしているわけでも、甘い臭いがするわけでもないのだが、ただなんとなく、その先に何かがあるような、そんな不確定な感覚に従って、ただ身を任せる。
そうして、とうとう、「辿り着いた」。
キールはその感覚に任せて、一冊の緑色の背表紙の本に手を掛けた。




