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主よ、ひとの望みの喜びよ

作者: 渚 弥和子

特に刺激的なわけではないとは思いますが、一部表現により念のためR15としています。

「死ぬときはどうかかならず一緒に死のう」

 その言葉はふたりの合言葉だった。赦されぬ恋だと互いに解っていたことだから、誓い合えるのは愛よりも死でしかなかったのだ。愛することが赦されぬのなら、せめて最後の死だけは共にしたい。ふたりとも同じ気持ちだったから、そう誓い合って口付けた。

 いつかの最期を共に添い遂げることを想像する。それだけでふたりには、この上もなく、この世で一等の幸福だった。


 王家にも縁ある由緒正しい侯爵家の令嬢たる彼女には、序列こそ下位ながらも万が一のためにと歴とした王位継承権が存在している。この国は長子先継ながらも君主たる王の性別を問わぬところであったから、継承権は女子にも平等に与えられるのだ。だから彼女は末席ながらもたくさん居る王女のひとりとして生まれ生きていた。生まれながらの王族と言っても過言でないほど可憐な少女は、母が命と引き換えに産んだのもあって蝶よ花よと愛されながらも、侯爵たる父によって厳しく律し躾けられ、それは素晴らしい女子となった。領地でも彼女の名は高く、誰もが彼女を称賛している。まるで朽ちることを知らぬ春のようだと、誰しもが娘のことを心に讃えた。

 一方彼は国軍属の正騎士で、まだ三十手前と若いながらも実直な性格と確かな実力により、このままなら最年少で肩書を得るだろうというほどの有望株であった。表情に乏しく、顔立ちも特段整っているわけでもなかったし、どちらかと言えば口下手なところがあるようだから寡黙がちな方だったけど、そんなところがまた周囲には好感を与え、本人のよく解らぬままに周囲は彼に優しく接し、よく気を配り、そして多くの期待を寄せていた。辣腕を奮いながらも心根が柔いことも知れ渡っていたものだから、言葉少ない彼ながら、知人友人はずいぶんと多かったのである。

 

 ふたりが出会ったのは幸なのか不幸なのか今でも解らない。その頃王家では当代が生存しながらも高齢に差し掛かったことから次の継承者を争い、陰謀巡らせ血で血を洗うような凄惨な事件が毎日のように起きていて、継承権を持つ者はその順位に関係なく不慮の死を遂げたり暗殺されたりと物騒な日々だった。王がどう止めようとも止まらずに、犯人を特定しようにも相手も相当上手くやったと見えてなかなか糸口が掴めない。なんとか現場に居合わせた実行犯を捕縛しても、その裏で一体どの家の誰が糸を引いているのかまで掴めないのだ。どいつもこいつも隠れ鬼がお上手と見え、王は忿懣やる方ない思いのあまり、怒髪天をついてとうとうその場に倒れてしまった。誉ある王家がその位のために争うなどと言う醜聞が民にも知れ渡るほどの事態となっていることが、潔癖な王は耐えられなかったのである。だがしかし、そうなってしまえば、結局のところ争いは激化する一方だった。

 王都から少し離れた場所に領地を持つ侯爵家の娘もまた、末席とは言え王位継承者のひとりであるわけだから、なにか事が起きてはと心配した侯爵が彼女のための護衛を国中目を皿にして探していた。そこで目をつけたのが軍属の彼であり、彼の前身や身辺、病歴家族構成なんかを片っ端から調べ上げて後ろ暗いことがないと確認すると、なによりその能力の高さに感服し、病床の王の寝室まで侍るとどうにか娘のためにも口説き倒すと、なんとか承知を得て彼を軍属から引き抜いて娘専属の護衛としたのだ。やや強引な手段だった上急な話だったから、急に軍属を離れる彼へと同情やら侯爵に対する反感やらが噴出したけれど、王位争いで王宮内の太陽が陰りかけているのなら仕方あるまい。王族とは即ち、軍人は勿論遍く国民の太陽であり、父であり、母であるのだ。国の安寧のためには王族の安定が一番であったから、結局周囲も受け入れた。受け入れるしかなかったのだ。ただまあ、有望株だったはずの彼が軍内で一直線な昇進の道から外れてしまったことには惜しいと嘆ぎ憂いたが、抜擢された彼自身は、これといってそんなことをあまり気にしていなかった。元来地位や名声、権力などにこだわるような男でもなかったからだ。そうして彼は、侯爵に招かれるまま、軍を抜け、都を下がり、侯爵の待つ領地へと馳せたのだった。


 命を狙われる可能性がある侯爵令嬢と、そんな彼女を守るために選ばれた元軍属の辣腕騎士。

 出会ったふたりはひと目で互いに恋をした。見つめあった眼差しでそれはいとも容易く互いに知れた。だが同じだけそれは赦されぬ恋だという自覚があったから、ふたりはそれぞれ恋心を胸に秘め、飽くまで主従としてはじめましての挨拶をした。握った掌が、娘にはうそのように硬く、男には嘘のように柔かった。砂糖菓子のように溶けてしまうのではないかと危惧した彼が慌てて手を離しかけるくらいには、ふたりの身体の大きさも、硬さも、柔さも、香りもなにも違ったのだ。娘は笑った。握手をしていきなり飛び跳ねるほど驚き手を離そうとされることが人生で一度もなかったものだからその動きがあまりに面白くて、ついくすくすと赤い顔で笑ってしまった。子猫が無くような笑い声だった。鈴の音が転がるような音だった。彼は困り顔に目を逸らし、暗い色の髪の毛を指で乱した。

 

 飽くまで主従、当たり前でありながら自然とは程遠いそのその日々が、一日二日と過ぎる分にはまだ良かった。しかしそれが半年、一年、更に三年と続けばとうとう互いに心は隠せなくなり、ふたりは隠れて気持ちを通わせ抱き合った。なんとか生き残った第三王子が、この長く続いた内乱に終止符を打ち、正式に王位を継承することに決まっても、娘を心配して騎士を護衛のままに据えた父は、当然ながらふたりの胸の内など知る由もない。知らぬから騎士の彼に未だ全幅の信頼を置いており、君さえ良ければこれ以降も軍に戻らずこのまま我が家のつるぎとして働いてくれと懇願した。彼がそれを断るはずもなかった。その姿勢はどこまでも忠義をあらわにした美しさであったかもしれないが、その実まるで濁った醜さであったことを、やはり侯爵は気づけない。

 延命したふたりの時間に、どこまでも互いに酔いしれた。

 肩を並べて歩いても、ふたりきりで過ごしていても、部屋に彼だけ招いても、主従であればそれが普通。

 ちょっと娘がいたずらに腕を絡めてみたって、抱きついてみたところで、ふたりはこれまでの日々の中で多くから健全に、そうそれはあたかも兄と妹かのように仲を深めた良好な関係だと思われているものだからこれも普通。

 普通普通普通、普通に見えた普通じゃない。だけど誰も気づかない。気づかないから気づけない。気づけないから、影を見つけてそっと息継ぎするように、彼らは互いに持ち寄った情を重ね続ける。

 重ねて織り続けた情が日毎体積を増して行きながらも、だけど彼らはどこまでも聡明であり、互いの身の程をよくよく弁えていた。

 青々茂った木の下で、視えない赤い糸で小指を繋ぎ、口付けるように囁き合う。

「一緒に死にましょう」

「死ぬときは共にあろう」

 伝えられない恋だから、死でしか遂げられない愛だから。


 好きと言うより死のうと言った。死ぬことで完成するふたりの世界だった。


 娘が二十六になったある日、結婚適齢期とされる十八歳の頃から断り続けた縁談にいよいよ侯爵閣下がお怒りになった末、彼女には知らされず他の家との婚約の段取りを裏で勧められ、とうとう婚約披露宴が明日に迫るという頃に、彼女はそれを知らされた。もう逃さないぞという父の強い意志が感じられ、逃げられないと彼女さえ思った。共に聞いていた騎士の顔が青白くなったのが見ずとも気配だけで解ってしまったが、それをまさか父の前で見せるわけにはいかない。母のことを引き合いに出してまで罵ろうとしてくる父から騎士を連れて逃れる背中に、唾を飛ばした怒号がぐっさりと飛んでくる。

 貴族の、まして侯爵なんて地位にまであるような家のひとり娘が「結婚したくない」だなんて、どんな理由があっても赦されない。誰であれ婿を取り家の存続と繁栄させることこそが、この国の、この世の女の役割なのだ。別にそれ自体に不満はない。ただ、彼女が結婚し、子を生み育て、世に血を繋ぎたいのは、誰ともしれぬ貴族の男などではなく、この世にたったひとりの彼なのだ。一眼で互いに恋に落ちた、自分の運命そのものなのだ。

「大丈夫よ、なんとかするわ」

 その夜、彼女の部屋に忍び侍った男の頭を抱き抱え、彼女はしっとりそう囁く。彼女より年上のはずの男が子どものように彼女の腹に顔を埋めて抱きつく様はあまりに愛しく、憐れにも似て、娘の薄い胸が締め付けられた。

 明日になったら父が選んだ男が結婚するつもりでこの家にやってくる。きっとそこで撥ねたとしても、すぐ結婚とはいかずとも婚約ばかりはなどと言ったりもするだろう。その婚約すら成立させない程度に場を壊してやればどうだろうか。露骨に悪辣な言動をして相手から願い下げだと言われて構わない。父は怒るなんて言葉にないほど怒られるかもしれないが、出来ることといえばそれしかない。……いいやでも、ただひとつに賭けるなら。明日のその茶番を乗り越え、明日の夜をひとりで迎えることが出来たなら。

 一瞬があれば良い。その一瞬が、もう少し長ければなお良い。荷物なんて最低限で構わない。ちょっとのお金と数着の衣類、それだけあれば事足りる。豪奢な飾りもドレスもなにひとつ捨てていくから、ちょっとのお金があれば良い。……本当は、換金用にいくつか宝石も持っていきたいところだけど、果たしてどれだけ持っていけることかしら。

 頭の中で、火花が散りそうなほどの速さで明日のことを考える。こんなに頭を回して考え事をするなんて、勉強していたときにも一度としてなかったくらいだ。滑稽にも誇らしくも思えた。彼女はそんな自分を唇で笑いながら、未だに腹に突っ伏して身動ぎひとつしない男の、夜より暗い髪の毛をそうっと撫でる。男の割にさらさらと柔らかいこの髪が、彼女は一番好きだった。初めて肌をかわした日に触れたときから、今もずっと。

「大丈夫。大丈夫だから、ね、明日まで辛抱して頂戴。わたしがなんとかしてみせるから。だから大丈夫よ。大丈夫、大丈夫」

 ねえ。

 優しく優しく撫でても男は黙して語らなかったが、女を抱きしめる力を強くした。

 それを是と捉えた彼女は男のつむじに口付けて、合言葉をそっと唱える。

「死ぬときは一緒よ」

 ──それだけが救いだった。


 

「──嘘」

 翌朝、彼女は呆然と立ち尽くし、天地も解らぬ心地になって、今にも倒れそうになってしまった。だのに両足はしっかり地を蹴り付けてこの世に立たせ、瞳は動かぬ現実を突きつける。

 庭の巨木に男が首を吊って死んでいた。

 苦しみのあまり吐いた汚物が襟を汚し地面を汚し、力無き足がぷらぷらと宙を彷徨い揺れている。揺れるたび木の枝がみしりみしりと音を立てて、今にも折れるのではなかろうか。

「どうして」

 よろめいたその言葉は喘ぎ声のようだった。息を吸い、吐いて、現実と理解が追いついた途端に発火したように髪を掻き毟るように頭を抱えると、唸り声を上げて彼女がその場に頽れる。

 死んでいる。

 男が。

 愛した男が首を吊り、明らかな自死をしたのだ。

 夜のうちに首を吊って、朝などこないようにと、朝など見ることがないようにと、閉じた瞼の奥に本当に眼球はあるのだろうか。その目は首を括るより先に抉り取ってしまったのではないか。

 だって彼は、今日の朝日を見ることを憎んで首を吊ったのだ。

 草の上に尻餅をつき、柔らかな髪をぐしゃぐしゃに頭を抱えた彼女は、冷たい死体となった彼の、愛していた男の、裏切り者の人間の姿を見つめながらに口の中で何度も叫ぶ。

「うそよ、うそよ、どうしてよ。あんなにあんなに誓ったじゃない。わたしたち、死ぬときは一緒って、死ぬときこそ一緒になろうって、あんなにふたりで何度も何度も何度も何度も誓い合ったことじゃない」

 涙が出た。悲しみよりも怒りだった。屈辱だった。迸るような憎しみに近かった。

「ひどい、ひどい、ひどい──。ひどい、こんなのってないわ。こんなのってあんまりよ。ああ、ああ、どうして──どうして……」

 どうして、今日の夜を待ってくれなかったのか。

 どうして、わたしを信じてくれなかったのか。

 どうして、どうして、どうして。どうして。

 どうして。

 

 水銀のような涙が落ちて、頬が焼け落ちそうだった。喉が熱い鉄杭を穿たれたように痛み、重たく、息は焼き切れそうに苦しくてたまらない。

「っひどい男……っ、うそつきなひと……!」

 滂沱と涙する女の傍を、大騒ぎで大勢が駆け抜けた。娘にこんなものを見せてはならぬと父が口角に唾を飛ばして怒鳴りつけ、侍女たちが慌てて彼女を屋敷へと連れ去っていく。

 その手に連れられるまま屋敷に戻る彼女は最後、たしかに男の亡骸を振り向いた。

「あなたがそうするのなら、わたし、死んでも幸せになってやるから」

 誓いは呪いにも似ていた。女はそれきり、その日以降、一切の涙を流すのをやめた。


 

 ──それから約二十年の時代が流れ、彼女は侯爵家の跡を継ぎ、父が定めた男……かつての騒動で一度流れかけながらも、根気よく父が招いて選んだ男を婿に頂くと、その間に幾人もの子を儲けた。王位はとうにかつての第三王子が継いでおり、過去継承位争いで多くの血が流れたくさんの王子王女が斃れ、殺し合ったことがなかったようでさえある。

 そうであるなら、あの日に出会ったあのふたりも嘘のように消えてなくなってしまうのだろうか。


「ジーク」

 歌のような声に招かれた青年は彼女の第一子だった。

 二十六で周囲と比べるとよほど遅い婚姻を果たした彼女はしかしすぐに夫との間に懐妊しこの息子を産んだ。今年でちょうど二十歳になる息子は背も高く精悍な顔つきをしており、少しだけ口下手なところを恥に思い寡黙がちなところを思えば、その眼差しや口元は父にも母にもよく似ていた。

 ジークハルトは幼少時からこの母に優しくも厳しく躾けられ、文武両道を遵守している。学問にしても学校でトップクラスの成績を誇り維持するだけのものを持ち、現代の知識のみならず古代の歴史や言語などにもよく通じた。武の方がまた苛烈で、剣に始まり弓、槍、斧、騎馬戦に於ける戦法や水上戦に発展した際の兵法などなど、いついかなるときにも対応できるようにと多くのことを言葉どおり身体に叩き込まれ、それを事実ものにした。彼はこれまでの教育の中、そうして与えられる数々の厳しい指導を拒否拒絶するようなこともなく、寧ろ自分からも率先してそういった勉強に励んだから、性にも合っていたのだろう。学も武も今の世に比肩する者なしと言われるほど、侯爵家の嫡子ジークハルトは有名だった。

 

 ジークハルトは明日妻を迎える。その相手は彼自身が見染めた城下に住む平民の娘で、母に継いでやはり低いながら王位継承権を与えられている彼からすると、これは相当な身分違いなものではあったが、誰も反対する者は居なかった。祖父たる前侯爵もこの結婚についてはなにも言わず、娘にすべてを委ねている。母は言わずもがなであり、夫も妻の意向を尊重しこの婚姻に異議を唱えるようなことはない。とはいえ、夫は二十年前ゴタゴタしながらも初めて会ったこの妻の美貌に一眼で恋に落ちたくちだから、恋愛結婚に関してどうこう言える側ではないのだ。きっと自分が貴族でなく城下の息子だったとして、あんなにうつくしい女と出会ったら、己だって身分を弁えず欲したことに違いないのだから。

 

 息子の頬に触れる母の手は、少女だった頃の瑞々しさが遠く消えて、これまでの人生を象徴するように苦労が肌に滲み出ていた。ケアをしてもこうなのだから、隠せる類のものではなかったのだろう。青い血管が肌に浮き出て、柔らかいと言うより薄っぺらい。温度も低く、しかし掌はしっとりと吸い付くようにしているから、息子はその感触を頬になぞった。

「ジークハルト、おまえは幸せになるのよ」

 母の長いまつ毛が目を伏せた拍子になだらかな頬へと影を落とす。身長差のために跪いていた息子は不思議そうに首を傾げた。

「おまえはもう立派なひとりの男となり、学でも武でも誰にも負けぬと言われるほどになりました。凡そ今の時代のこの国で、おまえに勝る人間は早々に現れることではないでしょう。おまえはそれほど恵まれました。才能であり、努力であり、実力であり、おまえ自身の能力の高さです。母もそれを心から誇っています」

 息子はなにも言わずただじっと母のことを見上げた。その瞳の黒々とした美しいこと、見つめるたびにいつかの昔を思い出す。もう絶えてしまった誓いと約束。終わることで望んだ永遠、青く未熟だった娘の時代。

 だけど本気で本心だった、薔薇の刺だらけのかつて。

「おまえは愛する者を守れるようになりなさいね。そのために母はあなたを厳しいほどに躾けました。時には誰かに……身近なところで言えばお前のお祖父さまに、『いくらなんでもやりすぎだ』と咎められたことさえあります。その言い分も理解できていました。それほどの苛烈と苦痛をおまえに与えたとわたしも思っています。……だけどわたしはね、おまえに、好きな女のひとりも守れないような弱い男になってほしくなかったのよ。愛する者を、そのひととの約束を、最初から最後まで、己が死んでしまうまで……、いいえ死んでしまっても守り抜けるだけの強い男になってほしかったのよ。……こんなこと、もしおまえが母を嫌っていたら、言い訳にもならないことでしょうけれど」

「まさか。私が母上を嫌うことなんて」

 否定のためにやっと声を出した息子に、母は一瞬虚を衝かれたような顔をしてから慈愛の眼差しで微笑んだ。白い花がうっとりと花開くようなその表情は子の目にも美しく、匂い立つようでさえある。小さくやや冷えた手に頬を覆われながら、息子はこの姿ばかりいつまでも少女のように壊れそうな母を見上げた。幼少の頃から、母はいつまでも変わらぬ少女のようなひとだった。いつ壊れてしまうとも知れぬガラス細工のような危うさで、その繊細な美しさで、完璧に調律されたピアノのキイのようで。

「おまえは幸せになりなさい」

 母は繰り返しそう言った。そうしてたったひとつ涙を落とした。

「ジーク、生きて幸せになりなさい。……どうか最後まで生き抜いて。幸せになろうと思うのはね、幸せになりたいと願えることはね、この上なく幸せなことなのよ。なにかを望めるということは、代えがたい喜びであることなのよ」

「……母上?」

「だから、ねえ、ジークハルト」

 その黒い目も、黒髪も、過去自分と心を交わした愛しくも愚かな騎士と同じ名を与えた息子。彼女に残されたただひとつのあのひとの居た証。憎んでも恨んでもそれでも拭いきれない愛のかたまり、愚かな愛を囁き合いながら願った夢の果て。

 死んで一緒になろう、なんて。

 とても果せやしなかったわ。だって、死んだ先で一緒に居られるかも解らなかったのに。死の谷の向こうで、あなたを見つけられるかも証明できなかったのに。

 それでも望んだ。それだけを望んだ。それしか望まなかった。

 だからもう、わたしはなにも望めない。望むものがもうこの世になにひとつありえない。

「ジーク、生きて幸せにおなり」

 母は、そしていつかの娘は、ただひとつの祈りと願いを託してそっと、彼の旋毛に口付けた。

 あの日抱きしめた男の面影を手繰り寄せ、これこそが最後の別れだと告げながら。

 

 ──ああだけどきっと、わたし死んだら、あなたと同じところにいくのでしょうね。

 あのとき一緒になれるか解らなかった死の先で、死の谷の向こうで、きっとあなたを見つけられてしまうのでしょうね。それはそうだわ、だってそうに違いないでしょう。

 願うのをやめたわたしは、望むものもないわたしは、あなたという幸せ以外を知らないのだもの。

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