人として
青草
僕は、うしなわれたものを、取り戻したかった
それは身勝手なことであった
この頃の僕は、どんどん無力になって行く
手を伸ばせど、足を伸ばせど
塵すら手に入れることが出来ない
少年期の夢は破壊されてしまった。深い眠りから私が目を覚ますとき、一羽のコウモリが開け放たれた窓の外を、大きく右に旋回する。
1997 夏 青草海岸
「これで、何キロメートル?」女は私に尋ねた。
「百」白目をやや多めにして、何もない表情で答えた。
「あの事件から、もう三日が過ぎたんだね」海辺の砂を、流行を追うように必死に、白いスニーカーに乗せて歩きながら、私の右横にいる若い女はTシャツ姿で言った。
「三日か・・・早いものだ。あの変身は・・・弟の死にまつわる話になっているだろう」数日前、記憶された映像と音声を頭の中で想い出す。
全てが始まった朝。私の部屋には、外からの気持ちの良い風があった。
「おい、外からいい風が吹いて来ているぞ」一階の私室にいた私は、階上の弟に朝の挨拶代わりにやさしく言った。
兄から外の様子を教えられた丘須華は、二階の東側にある自分の部屋の窓を静かに開けた。すると、丘須華の体を、朝の太陽光がやさしく包み込んで、青色のパジャマを、大きくふくらました。本当に心地の良い風だった。丘須華は思う。今の自分が生きつづけていられるのは、このような、心地よい自然現象のお陰かもしれないと。
丘須華は、半日くらいの間、強い不安に陥る時がある。死に、片足をつっこむ不安。周りと自分との間に隔壁、が厳然として存在する悲しみを、独りだけに、囁き教える。得体の知れない不安なのである。不安がボーダーを超えると、体はガタガタ震えはじめる。「カッ体がもたない。独りゆけというのか・・・独りゆくというのか・・・僕は・・・」口は、体が耐えられる不安を通り超していることを、無情にも無意識のごとく、紡ぎ出す。
一瞬青く燃えているかに見える月、万土を照す真昼の太陽光、不安のために死の源流を流浪する思索を生の確信へと導いてくれる一陣の風、雲が覆う黒色の空を二つにわける稲妻。様々な自然現象が、目前を通り過ぎてゆく。丘須華の不安は、歓喜へと変化して、終りを告げる。
「いい風だ」一階にいるはずの兄、狐底に叫んだ。返事はない。モゾモゾと動くものの居る気配だけが、階下から感じられる。丘須華は、今日久しぶりに外に出てみようか、などと考えている。ここ半月くらい外の風に当たっていない。幼い頃はよく兄と外に出て光沢のある石を、近隣の、山、川岸、砂浜などで、探した。今でも、中でも極めて美しい数個の石は、円筒形の貯金箱の中にしまって、大切に保管し続けている。丘須華が、長い時間外に出て石探しに興じた頃、それは、十二歳になるまでの話だ。それ以降は・・・「心理的に不安定になった」丘須華の独り言だ。