マテリアルガールと火星から来た男
「大学生の頃、変な人に会ったことがあるの。違うよ、そういう変態系のじゃないよ。普通に変な人なの。今ではひょっとしたらそれは夢だったんじゃないかなって思うときもあるんだけれど、これを見るとやっぱり本当に会ったんだろうなって思うの。」
そう言いながら、あたしは財布の中から小さくたたまれて、茶色い染みのついた一万円札を取り出した。
「どんな都会でもさ、大通りのビルの脇の小道とか、一日中、日の当たらない通りとかってあるでしょ。でも大抵そういう通りっていうのは、どこかへ行くときの近道だったりするじゃない。当時の学校に行く道にもやっぱりそういうところはあって、教授や友達とかは危ないから通らないほうがいいよって言っていたんだけれど、あたしはこういう性格だから、そんなのお構いなしに毎日通ってたの。だってそこを通ると片道一分は短縮できるんだもん。当時、時給千円で計算したら大体年間二万円は変わってくるってわかったの。だからそこを通らないで損するのなんて、そんなの嫌だからあたしはそこを通ってた。ちょっと、そんな目で見ないよ。このマテリアルな感じはもうあたしの性格なんだから、いい主婦になったと思って多めに見てよ。」
フォークでNYチーズケーキを口に運ぶ。フワッと口の中でとろけるのに、この濃厚さ。やっぱりここのはちょっと違う。優しい甘さで口を満たしてからあたしは続けた。
「でね、2年生の頃だったかな、いつものようにそこを通ると道路に一万円札が落ちてたの。そんなの絶対拾わなきゃ損だから、周りを見るじゃない、すると誰もいないからヨシヨシと思って駆け足でササッとしゃがんで手を伸ばしたの。するとその一万円札がスーッと少し前に動くわけ。あれっおかしいな、風かなって思って、もう一歩前に出て手を伸ばすと、またスーッと更に前に出るわけ。で、もう一歩前に出ると今度は目の前にフワッて浮かんだから素早くその一万円札をとったの。すると良く見るとその一万円札の先っちょに釣り糸がついてるじゃない、それでその釣り糸をたどっていくと、道路の脇にあったブロック塀の上で釣竿を持っている男の人と目が合ったの。その人はこっちを見てニコッとすると、その屋根から飛び降りるなり、『本当に金星人の言うとおりだ。ホモサピエンスは貨幣で釣れる。』って言ったの。あたしは何かの聞き間違えかと思って『なんですか?』って聞いたの。そしたら『僕の友人の金星人が、まあ、彼はプレイボーイで有名なんだけれど、その金星人のマクスウエルいわく、ホモサピエンスなら貨幣で釣るのが一番いいって言っていたんだ。』確かにその男は『金星人』って言ってたの。それでね、その人はさらに続けて、『今、僕は地球人に関して研究しているところなんだ。よかったら君の話を聞かせてもらいたいのだけれど。』って言うじゃない。もちろんあたしは聞き返したわ。『じゃあ、あなたは何人ですか?』って。そしたらその人はこう答えたの。『僕は火星から来ました。』って。
ノンシュガーのカフェオレを飲んで、甘くなった口の中を調和させる。
「でね、あっけにとられてたら手に持っていた一万円札をサッと取って釣り針をはずして、そのお金をポケットにしまっちゃったの。でもその人よく見ると背が高くて、色が白くて、ハーフっぽくて、片方の目の色が違うんだけれど、それでもなんだろな、キアヌリーブスみたいですごくかっこよくて、何その顔、妬いてるの?昔の話だよ。まぁちょっと聞いてよ。ああ、これは新手のナンパだなって思ってさ、でも下手に出たら何されるかわからないじゃない、人通りの無い道だし、それで『じゃあお茶でもどうですか?』って逆に誘ってここのカフェに来たの。」
あれから十年経って街並みはだいぶ変わってしまった。その路地も今ではマンションが建っているし、歩いている人も何だかおしゃれになったと思う。何よりあたしが一番変わったんじゃないかしら。けれどもここのカフェは全く変わってないな。壁にかけてある女性の写真も、タバコの火で焦げたテーブルも、チーズケーキの味も、カフェオレを入れるちょび髭のおじさんも。
「そのときもあたしはカフェオレを頼んだんだ。『火星人さんは何にする?』ってきいたら『それでは僕も同じものを。』とか気取って言って、それであのおじさんが代金を請求したから、ここであたしが払う必要なんか無いじゃない?だからそのまま火星人さんに請求したの。そしたら『じゃあそれもひとつ。』ってまた気取って言うじゃない。ああ、やっぱりちょっと頭がおかしいのかなって思って、無理やりデニムに入れたさっきの一万円で払わせたの。おつりを渡してさ、それで今座っているところと同じところに座ったの。ちょうどあなたが座ってるところに火星人さんは座ったわ。持っていた釣竿をそこの壁に立てかけて。そしたら火星人さんはテーブルにお釣りの硬貨や千円札とかを並べてじっくり眺め始めたの。」
あたしは穴だらけのテーブルの上にお金を並べるふりをした。
「百円玉とかを電気にかざしたりしてさ、『すばらしい。』なんて感動してから火星人さんはカフェオレに口をつけたの。そしたら今度は『ブッ。』なんていってテーブルの上に吐き出して、『君達はこんなものを飲んでいるのかい?これには中毒性の物質が入っているのではないかな?』なんて言うからあたし耐えれなくなって聞いたの。『あんたって本当にサイコなの?』って。言いながら今はもう止めたけれど、当時はタバコ吸ってたからさ、タバコに火をつけたら、『サイコ?サイコの意味は良くわからないが、今、君がくわえたものも中毒性の物質ではないのかな。ホモサピエンスというのは極めて自虐的な生物なんだな。』そう言いながら火星人さんは口の周りについたカフェオレを五千円札で拭ったの。ああ、この人は本物だって思ったわ、本物のサイコなんだって。」
折りたたまれた一万円札を手で弄びながら続ける。
「『火星人さん、なんであなたあんなところで釣りをしていたの?』ってあたりさわり無い様に聞いたの。だって、急にキレられたら怖いじゃない。そしたら『そうそう、ちょうど僕はホモサピエンスについて研究しようと思っていてね、どうだろう、君を研究させてくれないかな?』って。なぁんだ、結局ナンパなんだって思ったの。なんかもっと刺激的なことを想像してたのに、どこかの病院から抜け出してきたとかそんなこと。それで前にも言ったと思うけれど、当時のあたしはすごいダメだったじゃない、付き合う人からは毎月お小遣いをもらわないと付き合わないって話ししたよね?だからあたしは右手を広げてこれだけくれたらあたしのこと研究してもいいよって言ったの。」
五本指を広げながらそう言った。今では馬鹿みたいな考え方だけれども、五万円は当時のあたしの小遣いとしてはかなり安い設定だったと思う。でも火星人さんのルックスやちょっと変なところに魅かれたせいか、あたしはその安い価格を提示した。
「そしたらね、火星人さんがあたしの広げている手のひらに自分の手のひらを合わせて言ったの。『このポーズに何か意味があるのかな。』って。だからあたしはイラっときてその手をどかして睨みつけたの。『ひと月あたしと契約するのに五万円でいいって言ってるのよ。』今まであたしのそういった言動のせいであたしを罵ったり、逃げた人も何人かいたけれども、火星人さんは違ったの。急に顔をしわくちゃにして片方の色素の薄い目からポタポタ涙を流し始めてこう言ったわ。『哀れなホモサピエンスよ、もし私の声が届くならば聞いてくれ。私にはまだうまく理解できていないが、きっと貨幣という紙にはこの星の大事な価値が詰まっているのだろう。確かにそれは我々の星には無い、おもしろい流動的な性質だ。しかし、これは価値を共有しない限りただの紙にすぎない。口の周りを拭うのにも適さない。そんなただの紙のためにあなたの価値を限定してしまうな。たとえばあなたの価値が提示した金額よりも少ない価値でしかないならば、それを僕が咎めることはない。しかしホモサピエンスよ、あなたの価値はあなたが限定しない限り無限なのだ。今のあなたは僕の研究対象から外れてしまった。』そういうと火星人さんは机に広げたお金を、まだほとんど減っていないカフェオレカップの中にポチャリポチャリと入れて、両手の平で覆ったかと思うとバンッと机に押しつぶしたの。まるで手品のようにカップもカフェオレも手と机の中に消えちゃったの。そしてその手をどかすと、茶色く濡れたしわくちゃの一万円札がそこにはあったの。『これは貴重な時間を割いていただいた、あなたへのプレゼントです。』って。それでこの一万円札をあたしに渡したんだ。」
あたしは弄ぶように一万円札を広げた。人のシワのように無数に跡がついている。
「それで火星人さんはこう言ったの。『そのお金を広げてみるといい。』あたしはその言葉に従い、ゆっくりとその湿った一万円札を切らないように広げたの。『端に小さい穴が空いているだろう。僕が一口飲んだ分だけ減ってしまった。でもね、そこから世界を覗いてみるといい。小さな穴から覗いた世界は、やはり小さな世界のはずだ。』ちょうど釣り針であけたような穴が空いていたわ。あたしは言われるがままに片目をつむってその小さい穴から世界を覗いたの。でもそこにはもう、火星人さんはいなかったの。視線をお金からずらして見渡したけれども、何事も無かったようにいつものカフェがそこにはあったの。そしてあたしは震える手でもう一度穴から世界を覗いたの。そこには丸く区切られた、それは小さな小さな世界が広がっていたわ。」
あたしはその穴から彼を覗いた。穴からはみ出た彼と目を合わせる。まじめにあたしの話を聞いてくれる姿を、無条件であたしを受け入れてくれる彼を愛おしく感じる。
「でね、火星人さんとはそれっきり。何人かにこの話をしたんだけれど、皆は信じた様子じゃなかったな。それに信じてもらわなくても別に良かったし。あたしだってそんなこと友達に言われたら何かの夢でしょって言うだろうし。でもね、あたしは火星人さんとは本当に会ったんだって信じてるの。だってじゃないとこのお金の説明がつかないじゃない。何よりあたしはそう信じたいし。それ以来ね、あたしは何かつらいことや限界を感じることがあったとき、お財布からこの一万円札を出しては小さい穴から世界を覗くようにしてるの。なんて小さい世界なんだって思いながら。」
完
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