精神疾患と東京
これはドレッドノート・ドレッドノートの初短編作です。
夏休みが余りにも暇なので書きました。
一読してくれると幸いです。
私が何をしたと言うのだろう?どうして私ばかりこんな目に会うのだろう。私は薄れゆく意識の中でそう思った。
私が東京にやって来たのはついこの間の事だった。職場探しに困った私は最低賃金の高い東京へ行って一旗立ててやろうと21歳の夏に誓った。親から離れた場所で一人暮らしをして自立して生きるというのが私は最大の親孝行だとずっと考えていた。だからわざわざ大学を辞めてまでこの地で暮らしているのだ。尤も、もうあの辺鄙な田舎で過ごしていたくなかった。かと言って関西の都会にもいたくなかったからという理由もないこともなかった。
母親は精神疾患の症状で苦しむ私を心配していたが何とかこの作家としての執筆活動で暇を潰していく事で生活出来ている。それに障害年金が降りた事もあってか、私はここで過ごす事に慣れてきたところだった。しかし慢性化した自殺願望は依然として存在していた。誰との交流もなく、障害者として仕事はしているものの一日三時間週五回の障害者枠での労働だった。
自尊心の高さは無くなったとは言え私の心の中には後悔で一杯だった。もう何をしていても上手くいかない。本気で生きているのに退化した私の能力は何をすることも許さず、精神科での向精神薬漬けの脳はもはや機能する事がなかった。かと言って心理検査もしなかったし、その後の人生でもしようとは思えなかった。知能テストの結果が悪いのは私自身が誰よりも理解しているからだ。現実を直視するのが怖くて、人間も怖くて、人生に絶望しているほぼ働いていない時間以外は自室にこもっている、半ば引きこもりのような生活を送っていた。
寂しくて苦しくて、母親とのラインにもまだ依存していた。何を考える事もなく、何も生まれず、何も増えず、ニーチェの厭世思想のようにただ年齢ばかりが積み重なっていった。また、自分から精神病などと吹聴して回ったものだから、対人関係も上手くいかなかった。結局私は入院前と何ら変わることのない男だった。大したことではない、プログレッシブツイストと言うだけあってひねくれ過ぎたその性格も私には価値あるものだとは思えなかった。
そんな中、父方の祖父の訃報を聞いたのはつい一週間前くらいの事だった。私を含めた幼少の孫達を可愛がってくれた追憶をすると後を追って死にたくなったが、すんでのところで自制した。私には15歳の頃からの思い出の方が病的な鮮やかさを持って襲撃してくるので、祖父の死によって自殺するのではないかと言う懸念もすぐさま消失したのだった。
上京後の私の職場について説明をしよう。私の職場は中小企業の本店であり世田谷区の中心からやや東にそれた場所にある。職場には私と同じ躁鬱病の佐々木さんと、統合失調症の佐藤さんが同じ障害者雇用で採用された私の知る中で数限りの人達である。私がちなみに一番若い。今私は家路について帰っている。帰っているのだがさっきから頭が痛い。
「舐めとんのかお前ー!」、その声が聞こえて来ると、私の後頭部に強い衝撃が走り、一瞬だけ一切の代謝機能を停止した。それから私は駅のホームに身を投げ、通勤中使っている電車に轢かれて死亡した。
読んでくれてありがとうございました。