Flag94:海龍の巣へ行きましょう
「では、行きましょう」
時計を確認し海龍の巣へ向けて漁船を出発させます。エリザさんとマインさんは操舵席奥の休憩室に待機です。2人に出来ることは基本的にありません。もし何かあるようでしたらここならば声をかければすぐに伝わりますし、船から落ちる可能性もありません。
流れに逆らいながら海龍の巣へと入って行きます。わざわざ時間を選んだのは水路の流れのためです。この水路は潮の満ち引きによって流れが変わるのです。現在は進行方向とは逆流していますが時が経てば反対に進行方向の流れに変わってしまいます。
自走できるギフトシップでなければ逆流する中を進むと言うのは厳しいのでしょうが、この船の場合速度が出過ぎる方が危険です。燃料はかかってしまいますがそんなことは安全に比べれば些細な事ですからね。
「曲がった先、右だ!」
「はい!」
アナトリーさんの指示を聞きながら何度も繰り返してみた映像を頭の中で再生しつつ進んでいきます。入ってしばらくすると左へと折れており、その左側には岩礁があります。何も知らずに突っ込めばぶつかっていた可能性もあります。
舵を左に切り、岩礁を避けるように船の位置を右側へと動かしていきます。最初の難所は幅が変わる曲がりくねった水路です。曲がりくねっているため曲がった先が見えにくく、初見で入ったのなら曲がった先にある岩礁などを見つけた瞬間に舵を切って回避する必要があるのです。しかも厄介なことに水路の幅が広かったり細かったりと変わっています。
当然のことながら水路が広くなれば流れはゆっくりになり、狭くなれば激流へと変わります。流れの変化を見極めつつ操舵する必要のあるテクニカルな場所ですね。
とは言え私たちの場合は既にドローンから送られた映像で何度も確認をしています。どの地点に岩礁があり、どのあたりの流れが危険そうなのか事前にわかっているのです。だからその危険性は低くなっているのですが……
「そう簡単ではありませんね、やはり」
「次は左だ!」
「はい!」
アナトリーさんの指示と自分自身の記憶に従って操舵します。流れが速く、しかも海底の形状のせいなのかなかなか思うように船が進みません。さらに厄介なのがこの水路を吹き抜けていく風です。帆は無いのですが風の影響を全く受けないかといわれればそう言う訳ではありません。両サイドの崖の形状によって流れの変わる風を読むと言うのはかなりの難易度です。
「もっと左だ!」
「はい!」
指をさしながら叫ぶアナトリーさんの指示を聞きながら船を進めます。彼の指示があるからこそ正確に船を進めることが出来るのです。一度入ったことのあると言うことも大きいのですが、やはり彼にもアル君と同じような海を見る才能があるのでしょう。海を生きる種族の特性とでも言うのでしょうか。
いえ、それはあまりに私にとって都合の良い言葉です。彼が、彼自身が生きる上で磨いてきた才能です。種族の違いということで片付けて良いことではありませんね。まだまだ私も未熟者ということですか。
そんな自分の考えに笑いながら必死に指示を出し続けるアナトリーさんの背中を眺めます。今は操舵に集中しましょう。そろそろ次の難所が待っていますから。
しばらく船を走らせ、私の額に汗が浮かんできたそのころいよいよ次の難所が姿を現します。
「次、大曲だ!」
「はい!」
視線の先には曲がって先の見えない水路が見えています。一見すると今までと同じように思えますが、そのつもりで入れば失敗してしまうでしょう。次のカーブはUの字を描くように大きく曲がっており、しかもその曲がった先の両サイドには岩礁があって船が通ることが出来るのはその中央部分しかなく、さらにその数十メートル先には中央部分に岩礁があるのです。
脳内で操舵方法を確認し船をカーブへと進ませていきます。中央付近を走るように操舵していきますがどうしても流れの影響でカーブの外側へと船体が流されます。
「このっ!」
舵を握る手に力を込めながら必死にそれを修正していきます。アナトリーさんの視線は進路の先へと向いたままです。私の操船を信頼してくれていると言うことでしょうか。そうならば嬉しいのですがね。
カーブを何とか曲がりすぐにあった岩礁の中央付近を通り抜けます。そしてすぐに舵を右へと……
「次は右……じゃない、左へ切れ!」
「はい!」
アナトリーさんの声に即座に反応し舵を左へと切ります。次の岩礁がある場所は若干ですが右の方が広くなっており事前の話し合いでは右へと進む予定でした。だからこそ私は舵を右へ切ろうとしていたのですが。
次の瞬間船体へと強烈な風が吹きつけ船があおりを受けて傾きます。左斜めに傾いでいく船体を何とか舵を切って安定させギリギリのところで岩礁を抜けました。
危なかった。もしアナトリーさんの指示が無く進路を右へととっていれば強烈な風に流され船が中央の岩礁へ接触していたかもしれません。風が見えているのでしょうか。見えているのかもしれませんね。
その先も様々な難所がありましたが、アナトリーさんの的確な指示と事前の調査のおかげもあり何とか一度も船体を接触させずに船を進ませることが出来ました。そしていよいよ最後の難関、海龍の牙までもう少しというところまで辿り着きます。ここまで来てしまえば難関と呼べるところはそこだけであり、少し心を落ち着かせることが出来ます。
握っていたハンドルから片手ずつを離し、軽く振って強張った腕をほぐします。手は汗でびっしょりと濡れていました。これほど緊張するのはアル君と見えない岩礁地帯を走った時以来でしょうか。懐かしい思い出に思わず笑みが浮かびます。
腕時計を確認し、そしてゆっくりと船を進ませます。海龍の牙は不用意に近づけばすべてを飲み込む恐ろしい場所です。ここまでの難所を普通の船でたどり着いたアナトリーさんたちでさえ失敗したと言ういわくつきの場所ですからね。普通に攻略しようとすればどれほど難しいかは言わずもがなです。
だからこそ、ここを抜けることを前提に準備を進めたのですがね。
「そろそろですか。行きますよ!」
声をかけ船を海龍の牙へと向けて一気に走らせます。先ほどまでの抵抗が嘘であるかのように船が私の意思の通りに進んでいきます。これならいける、そんな確信をもって最大の難所である海龍の牙へと突入しました。
「本当に消えた……」
アナトリーさんの呆然とした声がこちらにまで聞こえてきました。私は最大の難所であるはずの海龍の牙の中央をすいすいと進み出口へと船を進ませました。そこに船を巻き込むような渦は存在しません。
しばらく走ると船を押すような流れに切り替わったのを感じます。船のスピードに注意しながら舵を切っていきます。これでゴールはもう目の前です。
最大の難所である海龍の牙。アナトリーさんの話やドローンで観察を続けた結果、他の水路については突破できると自信をもって言えたのですがこの海龍の牙だけは普通に攻略しようとすれば運の要素が大きく出てしまうと私は判断しました。だからこそなんとかそれを排除しようと1週間考え続けたのです。
その攻略のヒントは水路を流れる海流の流れでした。潮の満ち引きによって水路の流れは切り替わります。だからこそ難しいとも言えるのですが、この切り替わる時、時間にすればほんの数分しかない間ですが流れが止まるのです。
海龍の牙の渦は人工的に発生している訳では無くこの流れのおかげで発生しているのですから流れが止まれば自然とその渦も止まります。その時間を算出するために1週間時間をかけて観察を続け、そしてその時間に間に合うように船を出発させたのです。
アナトリーさんが命綱をはずし、どこか憑き物が落ちたような顔でこちらへと向かって歩いてきました。
「お疲れ様でした」
「ええ」
そう言ったきりアナトリーさんは通り過ぎた海龍の牙へと視線を向け、そして目を閉じました。静謐な空気が船上に流れます。このことがアナトリーさんにとって良いきっかけになってくれると良いのですがね。
役に立つかわからない海の知識コーナー
【海の飛び出す絵本?】
1685年に地中海を旅行したエドワード・ダマーはタイプの異なる20数隻の船を記録に残しています。その記録には海に浮かぶ船舶の外観からの姿かたちだけでなく、内部構造などの精密な図面が描かれておりさらに飛び出す絵本の様に船体の構造モデルがついていました。
ここまで凝った物はなかなか無く、当時の船舶を知るうえで非常に重要な資料になっています。
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ブクマ、評価いただきました。お読みいただきありがとうございます。