Flag92:方針を決めましょう
アナトリーさんを連れてキオック海に向けて走りそして一夜を海上で過ごした翌日の昼前、私たちはキオック海を進んでいました。
「ここはキオック海ではないのか?」
「良くわかりましたね。さすがです。ここはキオック海の端ですよ。私の目的地はこの奥ですから」
「ローレライとの交易が始まったと言う噂は本当だったのか……」
呆然としながら呟いたアナトリーさんのその言葉は聞き流しておきます。うーん、ダークエルフはいろいろな耳を持っているようですね。他と交流がないという事だったのでもっと世情に疎いのかと思ったのですが考えを改めるべきですね。
まあ気にしないふりをしつつ漁船をフォーレッドオーシャン号へ向けて進めます。昼を超えおやつの時間と言ったところで視線の先にフォーレッドオーシャン号が見えてきました。
「あれが私の目的地。まあ私の本来の船ですね」
「あれは……あの大きさでギフトシップとでも言うのか? あんな船は見たことが無い」
「ええ、その通りです。美しいですよね」
驚きに目を見開いているアナトリーさんへと軽く笑いかけながら漁船を進めていきます。フォーレッドオーシャン号もこちらを捕捉しているのでしょう。こちらへとゆっくりとした速度で近寄ってきています。操縦しているのはアル君ですね。
ある程度のところまできて動きを止めたフォーレッドオーシャン号の後部へと船を進め少し離して止めます。そして服を着替えるとアナトリーさんを連れて海へと飛び込みフォーレッドオーシャン号の後部デッキへと泳ぎ着きました。私も泳ぎには少々自信があったのですがアナトリーさんはすいすいと魚のように泳いでいて比較になりませんでした。少々悔しくはありますね。
後部デッキのタオルで体を拭いているとミウさんとマインさん、そしてアル君がやってきました。アナトリーさんはアル君を見てギョッとしていましたが声を上げなかったのは事前にキオック海だと知っていたからでしょうかね。それとも意地でしょうか。
「アル君、漁船をお願いします」
「おう、任せとけ」
階段を降りようとするアル君を抱えて海まで連れていき漁船の管理をお願いします。船同士がぶつかって傷つくなんてことがあっては面倒ですしね。
「ミウさん、お嬢様の所へ連れて行ってもらえますか?」
「はい。わかりました」
先導するミウさんの後についてアナトリーさんを連れて歩き始めます。どうやら向かっているのは2階のリビングスペースのようです。いつもの食事するテーブルにいるのでしょう。
アナトリーさんがきょろきょろと周囲を見ながら進んでいきます。その瞳に小さな驚きが次々と浮かんでいくことが少し誇らしくそしてちょっと面白いですね。やはり自分の船を肯定的な視線で見てもらえると言うのは嬉しいものです。
「お待ちしていました」
そう言ってにこやかに笑ったエリザさんを見てアナトリーさんが固まります。そしていきなりひざまずいて頭を垂れました。おっと、この反応は予想外ですね。
「頭を上げてください」
「いえ、皇女殿下を前に奴隷の身で顔を上げるなど……」
「大丈夫ですよ。今の私は死んだようなものです。身分など関係ありません。それにマインも奴隷ですよ」
そう言われてようやくアナトリーさんが顔を上げます。しかしその顔は緊張を隠せていませんでした。
「ただいま戻りました。彼がダークエルフのアナトリーさんです」
「ダークエルフ、ゴーシュ族のアナトリーです」
「エリザベート・フォン・ランドルです。どうやら私のことを知っているようですがお会いしたことがありましたか? それならば申し訳ありません」
「いえ、その時の私は普通の人間の姿をしていましたから記憶になくても仕方がありません」
うーん、色々と気になる情報がポロポロと落ちてきますがそれを1つずつ拾っていると本題に入る前にかなりの時間を食ってしまいそうですね。とりあえず心に留めておいて後で確認しましょう。
エリザさんのことを知っていたのは好都合ですし、さらに良い感情を持っているのですから話が進めやすくなったと喜んでおきますかね。
「私の現在の状況については知っていますか?」
「はい」
悔しそうな表情をしながらアナトリーさんがうなずきます。エリザさん自身はすでにある程度心の整理をつけているのですが、彼の反応に少し嬉しそうにしています。やはり自分のために怒ってくれる存在というのは心の支えになるようですね。
「あなたに聞きたいことがあります。獣人の奴隷船を襲ったのはダークエルフなのですか?」
「……はい、その通りです」
アナトリーさんが観念したように答えます。実際命令されれば話さざるをえなくなってしまうことを理解しているのでしょう。エリザさんが聞いたという事を考えれば絶対に話さなくてはならなくなるという事ですし。
「それはなぜ?」
「深い理由は知りません。ただ獣人の奴隷船を襲い、奴隷たちを保護しろと長老会から指示がありました」
「ふむ、長老会ですか」
詳しい事情は末端まで降りてきていないようですね。知るためにはその長老会と言うものに参加している長老たちに聞かなくてはいけないということですか。うーん、少々危険度が増してしまいますね。先に理由がわかれば良かったのですが。まあ保護しろと言う名目ですから大丈夫だと信じたいですね。
エリザさんの視線にうなずいて返します。まあ何とかなるでしょう。一応保険は用意するつもりですがね。
「私が今回あなたを連れてきてもらったのはダークエルフと協力できないかを模索するためです。今ランドル皇国は大きな変革と共に戦争へと舵を切ろうとしています。それが成ってしまえば訪れるのはこの大陸全土を巻き込み人々の血が流れる悲惨な状況です。私はどうしてもそれを止めたい」
エリザさんの言葉をアナトリーさんが真剣な表情で黙って聞きます。彼に視線を合わせながらエリザさんがとうとうと語り続けます。
「打てる手は全て打っておきたいのです。困難なことはもちろんわかっています。しかし私の力で少しだけでも民を救うことが出来たのなら、そのためであれば私はこの命を懸けましょう!」
そう言い切ったエリザさんは決意に満ちた目をしていました。他で生きるという道を示したこともありました。しかしやはりエリザさんが選ぶ道は民のための道でした。それはとても困難で、いばらの道だと誰もが理解しています。しかしその道を選んでしまうエリザさんだからこそミウさんもマインさんも崇拝しているのでしょう。そしてアナトリーさんも。
「変わられていないようですね、殿下」
隣にいた私にしか聞こえないほどの小さな声で呟かれたその言葉とほほ笑みはそれを証明しているかのようでした。
「ダークエルフと話し合う事は不可能ではありません。しかし話し合うためには1つの試練をくぐり抜ける必要があります」
「それはどんな?」
「私たちが住んでいる群島の中に海龍の巣と呼ばれる難所があります。その水路は狭く、潮の満ち引きによって流れも変わりやすく、さらに隠れた岩礁なども存在しています。ダークエルフの儀式で使用する一族にとっては非常に意味のある場所です。そこを船で通り抜けてください」
「それは先ほどのギフトシップでも良いのですか?」
「問題ありません。しかしギフトシップだから簡単に通過できるとは考えないでいただきたい。あの難所を通過出来た者は我々海にすむダークエルフの中でも選ばれし者として讃えられるほどですから」
その言葉に皆が息を飲みます。その海域を知り尽くしているはずのダークエルフの方々でさえ困難な難所ですか。もし失敗すれば海龍の巣の名前にふさわしく飲み込まれてしまうという事でしょう。
しかしこれを達成できれば話し合いが出来ると保証されたのは僥倖です。どんな難所でも実際に通過出来ている実績があるのであれば攻略法はあるはずです。この道を進むと決めたのですから今更帆を下ろすようなことはしません。さてどうやって攻略しましょうかね。
役に立つかわからない海の知識コーナー
【コリントス運河】
ギリシャのペロポネソス半島の根元を横断する運河で岩山を彫り抜いたその風景に圧倒させられること間違いなしの運河です。観光ポイントとしても有名でクルーズ船が通ることもあります。
鉄道橋もかかっており大きな船はタグボートに曳航されて通過したりするのですが、川幅が狭いため現在は貨物船というよりは観光目的の船の方が多くなっているようです。時代と共に使用目的が変わった運河といえます。




