Flag91:さっさと帰りましょう
船をハブルクの方面へと1時間ほど走らせ辺りに他の船影が見えなくなったところで少し速度を緩めます。ここまで来てしまえば追ってくることはほぼないでしょう。来たとしても護衛の獣人奴隷の方が見張っていますので誰かが気付くはずです。
「すみません、少し急いでいましたので船が揺れたでしょう」
「いえ、仕方がないとわかっていますから。しかしうまくいって良かったです」
不安そうな表情をしていたツクニさんが私の言葉でやっと安心したのか大きく息を吐きました。リエンさんも隣で嬉しそうに笑っています。実際今回一番危険だったのはこの2人でしょうから私自身も2人が見張りを無事に振り切ることが出来て良かったと思っています。
今回私たちが危惧したのは落札できるか、ということよりも落札後のことでした。資金としてはツクニさんは十分持っていましたし、それに加えてトッドさんの口座の残高分も落札後の売買契約書と一緒に証明書として提出していましたからまず落札できるだろうとは思っていたのです。
しかし問題は落札後です。直接的に狙われると言う危険性は町の中ですから少ないとは思っていました。しかし一方でどうしようもないものがあります。出入り口で待ち伏せされ貴族などの上位の権限を使われて半強制的に売買契約を結ばれてしまう可能性です。
私がもしその立場でダークエルフがどうしても欲しいと思ったとしたらオークションで無理に張り合って高い金額で落札するよりも、様子見をして落札者が他の者と契約する前に自分と契約させようとするでしょう。その方が確実でコストも安いですからね。今回は事前にトッドさんとの売買契約を結んでいるという事になっていますが、トッドさんは平民ですからね。契約を覆される可能性もあるでしょうし。
「しかし思いのほかうまくいったようですね」
「はい、オークションの方が協力してくださいました。そう言ったことがあると今後に影響が出るからと」
「ミガワリ、ダシテクレタヨ」
「そうですか。ひょっとして出来たら程度だったのですが言ってみるものですね」
トッドさんたちが出てくるのを待っているのは予想済みでしたのでトッドさんたちには護衛の獣人奴隷の方々を4名入り口に残して注目を集めておき、そしてトッドさんたちはオークションの別の出入り口から脱出するという事が大まかな作戦でした。というよりオークションと言う建物にいるとわかっている以上他の方法がなかったとも言えるのですが。
そしてその脱出に際してどの程度までオークション側の協力が得られるかという事がこの作戦の肝だったのです。ツクニさんたちの話を聞く限りまずまず協力的だったようです。
確かにオークションで良い商品を落札しても出入り口で待っている貴族に掴まってろくな利益が上げられなかったなどと言う風評が広がってしまえばオークションに参加する人の数が減り、オークション側の利益も下がってしまいますからね。その辺りのおかげだったのでしょう。
「それで彼の名前は何というのですか?」
「アナトリーと言うそうです。すみません、バタバタしていて名前以外はほとんどわかりませんが」
「いえいえ、仕方がありませんから大丈夫ですよ」
自分の名前が呼ばれたことに気付いたアナトリーさんがこちらの方を向きました。金色に輝くその瞳は鋭くこちらを見つめています。奴隷契約しているためこちらに危害を加えられるという事はないでしょうが、印象が悪いままと言うのも考え物ですね。
「アナトリーさん、ワタルと言います。唐突ですがこの船を操縦してみますか?」
そう発言した瞬間、彼の瞳が大きく見開かれました。サプライズは成功のようですね。突拍子もないことを言われると意識がそちらへ取られますからね。印象を変えるきっかけには丁度良いですし。
「どうしてお前はエルフ語が話せる?」
「あっ、そちらで驚かれたのですか。うーん、そうですね。神のお導きとでも言っておきましょうか」
実際私自身なぜ知らない言葉を話すことが出来るのかわかりませんしね。まさに神のみぞ知るというものでしょう。しかしこういっておけば勝手に何かしらの解釈をしてくれるだろう言葉でもありますので便利ではあります。
「それで、どうします操舵します? しません?」
「……やめておく。私には船の舵を取る資格がない」
「そうですか。それは残念です。とりあえず今は体と心を休めてください。詳しい話は落ち着ける場所に着いてからですね」
先ほどまでのような厳しい視線は薄まったものの逆にその瞳には別種の感情が宿ったように感じます。後悔でしょうか? なかなか厄介そうな感じですね。
しばらくして日が暮れてきたので船を止め持ってきた食料を軽く料理して食事をとり交代で眠りについていきます。私以外に操船できる人がいれば夜も走らせることが可能なのですがさすがにこの中にはいませんからね。今この漁船を操船できるのはアル君とマインさんだけですし。どちらも今回のことに連れてくるわけにはいきませんしね。
翌朝、日が昇ると同時に船を走らせ夕方ごろにハブルクへと到着しました。特に問題なく入港できましたが、そこからツクニさんの奴隷商会に着くまでは少々緊張しました。
一応私たちはかなりの速さでハブルクに戻ってきましたから他の船が先についているということはあまり考えられません。しかしこの世界には通信の魔道具があるそうですからね。先にハブルクに連絡されていると言う可能性もありました。まあ問題はなかったのですが。
奴隷商会へと着き、ツクニさんと急いで契約を交わしてアナトリーさんを私の奴隷にします。名目としては実際はトッドさんへ売買するために一時的に私の奴隷にするという形ですが。そしてヒューゴさんとツクニさんに協力のお礼を言ってすぐに港から出港します。しばらくの間はハブルクにも近寄らない方が良いでしょう。砂糖や胡椒は事前に十分な量を用意しておきましたので問題ないはずです。
こうまで急いだのはツクニさんの元にダークエルフがもういないという事を早々に広めるためです。その方がツクニさんたちの危険性も減りますし、貴族からちょっかいを出されそうになったとしてももういない奴隷を理由にどうこうできるはずもないですから。
ちなみに取引金額は手数料として1割乗せた2200万スオンです。トッドさんのギルドの口座ならば十分に支払いが可能な金額です。もっと高くなった時は分割にする予定だったのですがその点では助かりましたね。
後は私がルムッテロの町の商人ギルドへトッドさんからサインをいただいた奴隷の主の変更を確かにしたと言う書類を出せば謎の商人トッドがダークエルフを所有しているということになるわけです。トッドと言う名前はありふれたものらしいですし、ほとんど町へと行かない彼を追う事はかなり難しいでしょう。とりあえずしばらくすれば落ち着くはずです。
漁船をキオック海に向かわせながら、物思いにふけりながら海を眺めているアナトリーさんを見ます。彼の胸の内を推し量ることは出来ません。彼の人生を私は知らないのですから。
「帰りたいですか?」
「そうだな。帰れるものなら帰りたいさ。しかしそれが無理であることも理解している。今の私は奴隷だ」
「そうですか」
うーん、落ち着いていますね。理知的ですし時間が経過したことで諦めにも似た感情で彼の中が埋まってしまったのかもしれませんが。まあこの状態なら話しても大丈夫そうですね。
「アナトリーさん。獣人の奴隷船を襲ったのはあなたたちですね?」
「……」
私がその言葉を言った瞬間、アナトリーさんの表情が厳しいものになり、そしてしっかりと口が閉じられました。契約の関係上、主人に嘘はつけませんからね。
「沈黙は肯定と取ります。まあそれを咎めるつもりはありませんので安心してください。私も獣人の方を保護していますので」
「……」
「うーん、信頼できませんか。また後日になってしまいますが獣人の方を保護している島へと連れていきますね。そこで実際に見てもらえればと思います」
アナトリーさんは口を結んだままです。時期尚早でしたかね。先に島で保護された獣人の方々を見せた方が良かったかもしれません。まあ後の祭りなのですが。
「……なぜそんなことを聞く?」
「そうですね。その目的が知りたいからです。そしてその理由が私たちの利益と合致する物であれば協力していきたいと思っているからですね。まあそれを信頼していただくためには時間も実績も不足しているとは理解していますので今すぐに返事を求めることはしません。無理やりと言うのは私のスタンスではありませんから」
とりあえず目的だけを告げてしばらくアナトリーさんに考えてもらいましょう。どうなるかはわかりませんがうまくことが回ると良いのですがね。
役に立つかわからない海の知識コーナー
【無敵艦隊の敗北】
無敵艦隊といえばスペインの最強海軍の名称として有名ですが、イングランドの侵攻を行おうとしてその艦隊の半数以上を失う大敗北を喫します。それを受けてのスペイン王フェリペ2世の言葉を紹介します。
「余はイングランドと戦わせるために艦隊を送ったのだ。波風と戦わせるためではない。神を賛美せよ」
この言葉をどう受け止めるかはお任せします。




