Flag49:浮上しましょう
私の視線で気付いたのでしょう、マインさんが後ろを振り返ります。
ミサイルのような形のがっしりとした体格に上下が三日月形の尾びれ、何より代名詞ともいえる三角形の背びれを見せつけるかのようにこちらに迫ってきているのは体長10メートル近くありそうなサメでした。ホホジロザメに似ていますがどこか違う気がします。そもそもここまで大きなホホジロザメを私が知らないせいかもしれませんが。
剣を抜こうとするマインさんの手を上から抑え、私を見てきたマインさんへと首を横に振ります。そして手を広げて小さくゆっくり上下させ、なるべく動きを止めるようにと伝えます。マインさんが何か言いたげでしたが一応剣を抜くことは諦めてくれたようです。サメは途中で進路を変え、私たちの周りを10メートルほど離れて回っています。
映画の影響で人を襲う恐ろしい生き物と言うイメージの強いサメですが、そんなことはありません。実際ダイビングをしていてサメに襲われるという事はまずありませんし、あったとしてもダイバーがちょっかいをかけたという事が多いのです。基本的に臆病なので変な恰好をして泡を出しているダイバーからはむしろ逃げますしね。一部のサメはダイバーからアイドル扱いされているくらいです。とは言えホホジロザメは人を襲うことのある危険なサメですので油断はできませんが。
マインさんが剣を抜くのを止めたのは水中では満足に剣が振れないだろうという事もあるのですが一番の理由はサメを刺激しないためです。剣の刀身が光を反射して小魚なんかと勘違いされた日には余計危険ですから。だから今は動かずにあのサメが興味を失ってくれるのを待つのが一番良いのです。
視線だけでサメを追います。距離は離れてもいませんし近づいてもいません。これはちょっと時間がかかるかもしれませんね。ゆっくりと体を動かしてマインさんと背中合わせになるような体勢にします。少なくともこれでいきなり襲われるということはないはずです。
しかしその時私は失念していました。私とマインさん以外にお嬢様がいたことを。
私の動きが止まったことに気付いたのであろうお嬢様がわたしの胸のあたりから視線を左右に振り、そしてごぽぉと大きく息を吐き体をばたばたと動かし始めたのです。必死でそれを押さえようとしますがその動きは止まらず、呼吸をさせるためにレギュレーターのマウスピースを差し出しても目にも入っていません。その瞳は恐怖に染まっており完全にパニックになっていました。
サメとの距離は今のところ変わってはいません。しかしこのままでは呼吸が出来ないお嬢様が死んでしまう。パニックを誰かが起こした場合は浮上するのが鉄則です。しかし今の状況でそんなことをすれば減圧症だけでなくサメがどんな反応をするかもわかりません。
仕方がない!
レギュレーターから空気を思いっきり吸い、恐怖に染まってパニックになっているお嬢様を強く抱きしめ、その口へと息を吹き込みます。暴れるお嬢様のマスクが私のマスクと当たりカツ、カツと音を立てます。
お嬢様の口は堅く閉ざされ、ただ空気が漏れていきます。私の心の中にも焦りが生まれてきますが、なんとかそれを押さえて継続します。
1秒、2秒、3秒……
ゆっくりと長く息を吐き続けていると暴れていたお嬢様の体がびくんとこわばり、口の中の空気が泡ではなくどこかへと入っていくようになりました。そしてお嬢様の体のこわばりが緩んでいき、私に全てを任すかのように力が抜けていきました。気絶したかと少し不安にもなりましたが、私の腰に回されたお嬢様の腕はしっかりと私を抱いたままです。だから気絶はしていません。
数秒それを続け、そしてゆっくりと唇と唇を離していきます。私とお嬢様の口から少しの空気の泡がこぼれ海面に向かって頬をさわさわと伝いながら昇っていきます。
顔の見える距離まで離れてお嬢様を見ると顔を真っ赤にし、どこかとろんとした目をしていました。その口の前にゆっくりとマウスピース差し出すとそのままくわえ呼吸をし始めます。良く出来ました、とお嬢様の頭をポンポンと撫で笑いかけます。さらにお嬢様の顔が赤くなりましたがパニックにはなっていないようです。ちゃんと私にマウスピースを渡してくれましたから。
しばらくそうして止まっているとサメは興味を失ったのか私たちから離れていきました。これで一安心なのですが、背後からサメとは比較にならないほどの圧を感じます。これが殺気というものでしょうか。うーん、船に戻ってからのマインさんとのお話は長くなりそうですね。
人命救助なのですから多少は考慮していただきたいものですが、傍から見たらキスをしていたのと同じですからね。いえ、これ以上考えるのはやめておきましょう。お嬢様の唇の柔らかさやあのとろんとした表情などを冷静になった今思い出せば私の方が恥ずかしくなってしまいますし。歳を取ったと言ってもこういったことは中々に難しいものです。
その後は特に大きなトラブルもなく水深5メートルでの待機も終えて水面へと浮上しました。水中からではなく裸眼で見る夜空に輝く星々は水中越しとは別の美しさがあり、我々の生還を祝うようにまたたいている姿に感動を覚えます。生きて脱出できたのだと改めて実感しますね。
私でさえこうなのですからお嬢様とマインさんにとっても嬉しさはひとしおなのでしょう。マスクを外したその瞳は潤み、今にも涙が流れてしまいそうです。
「おっちゃん。どうしたんだよ?」
「あぁ、アル君ですか」
船の後部デッキから声をかけてきたのは他でもないアル君でした。丁度食事を終えたところだったのでしょう。少しお腹がぽっこりとしています。この様子だと夕食には満足していただけたようですね。
「思いのほか早く魔道具の効果が切れてしまいましてね。すみませんがミウさんを呼んできてもらえませんか?」
「んっ、いいぞ。ミウー!! おっちゃんが呼んでるぞー!!」
大声でミウさんを呼び始めたアル君の姿に苦笑します。大声で呼んでほしいと言った訳ではないのですけれどね。まあこの声の大きさであれば船内にいるのであろうミウさんにもちゃんと聞こえたでしょう。と言うよりアル君がいつも私を呼ぶときはこんな感じで呼んでいたのですね。新しい発見です。
お嬢様とマインさんが後部デッキへと昇るのを手助けしていると足音を立てずに、しかしそれでも速足でミウさんが階段上に現れました。そしてこちらを見た瞬間に手で口を覆いそして階段を飛ぶようにして降りると一直線にお嬢様へと向かって走りその身が濡れるのにも構わずお嬢様をしっかりと抱きしめました。
「申し訳ありません、申し訳ありません。ご無事で、本当にご無事で良かったです……」
「心配をかけたわね、ミウ」
お嬢様がミウさんを抱きしめ返しながら柔らかい笑顔でミウさんの頭を優しく撫でます。ミウさんの目からはとめどなく涙が流れ続けていました。今まで見たことがないほど顔をくしゃくしゃにしているミウさんでしたが、それでもその表情は憑き物が落ちたように自然で私にはとても美しく感じました。どれほどのプレッシャーが彼女にはかかっていたのでしょう。知り合ったばかりの私ではそれを和らげる程度のことさえ出来ていなかったのかもしれません。
お嬢様を助けられて本当に良かった。
改めてそのことを実感しながら、私はダイビングの装備を外しにかかるのでした。
役に立つかわからない海の知識コーナー
【サメとクラゲ】
どちらが危険かと言うと基準が何かによって変わってしまいますが、こと死亡数に関して言えばサメが年間約10人なのに対し、クラゲは年間約40人とかなりの差があります。
これはサメが人の多い沿岸部にあまり行かないと言うこともありますが、地球上で最も強い毒を持つど言われるクラゲのキロネックスなどのハコクラゲ類のせいでもあります。泳いている姿は綺麗なのですが見かけたら全力で逃げましょう。
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