Flag48:沈没船を脱出しましょう
滝のような勢いでごうごうと音を立てながら流れ落ちる海水は数分のうちにこの部屋を満たすことでしょう。想定されていた期限よりはるかに短いのですが文句を言っている暇はありません。
装備は2つ、そして人は3人。どうすべきか、現状打てる最上の手へと頭を巡らせます。
「俺を置いていけ!」
「何を言っているのですか!?」
「俺は元々海に沈んで死んでいるはずだった。それだけだ!」
それだけ言ってマインさんはお嬢様へと向かうため背中を私へと向けました。それが自分の命からも背を向けているように思えてしまい、そのことに無性に腹が立ってきました。
機材が2つしかないから3人は救えない?
誰がそんなことを決めましたか?
手に持っていたフィンでマインさんの体を結構強めに叩きます。バチンととても良い音がしました。振り返った彼はとても驚いた顔をしていました。そんな彼に向かってにやりとした笑みを浮かべます。
「海のことを何も知らない素人が何を言っているのです。酔っているのですか? 船酔いにはまだ早いですよ。さあ脱出しますよ。もちろん3人全員です!」
「だが……」
「先に脱出するか聞いた時に残ると言ったのはマインさんですよ。その責任はしっかり生きて脱出してとってもらいますから!」
そう言ってにっこりと笑いかければ、マインさんは驚きや怒りなどめまぐるしく表情を変え、そしてはぁ、と諦めたかのように息を吐きました。
「甘いかと思えば厳しいのだな!」
「まるで海の様でしょう? さあ装備を背負ってお嬢様を起こしてください!」
ふふっと笑って手早く装備を身に着けます。先ほど教えたかいがありマインさんも特に迷うことなく装備を身に着けていました。しっかりと動作確認もしていますし大丈夫でしょう。
お嬢様の方を見ればマットレスがかろうじて海水に浮いているためにまだ濡れておらず、目も覚ましていないようです。すでに私の膝上まで海水が入ってきています。時間はあまり残っていません。まあ私たちが話していたせいでもあるのですがね。
「完了だ!」
「こちらも大丈夫です!」
私とほぼ同じ速度で装備を着け終えたマインさんがお嬢様へと向かう一方で私は海水で流されてしまったお嬢様用のマスクなどの装備一式を回収に向かいます。さすがにウエットスーツなんかを着ている時間はありませんが最低限の装備は必要です。
なんとか必要な装備を集め終わり私もお嬢様とマインさんの元へと向かいます。既に水かさは私の胸の位置近くまで達しており地面に散らばっていたものなどが浮かび上がり非常に動きづらく、なんとか2人の元へとたどり着いた時にはもう足は床にはつかない状態になっていました。
お嬢様がマインさんに支えられながら立ち泳ぎをしています。気が付いたばかりなのにパニックを起こしていないのは彼女の素質だけでなくマインさんがいたからでしょう。知っている人がいるという事は日常を思い出させ心を落ち着かせる効果がありますからね。私がマインさんが残ると言ったのを断らなかったのはこれが理由だったりします。
「マインから話は聞きました。私はどうすれば良いでしょうか」
出入り口まで水位が達し静けさを取り戻した室内で初めて聞いたお嬢様の声は凛としており、その淡いグリーンの瞳は揺れ動くことなくじっと私を見据えていました。聡い方ですね。今何をすべきかをしっかりと判断できているようです。
「私がお嬢様を連れて先導しますので、マインさんはその後に着いてきてください。遅れず慌てずゆっくりと。なあに、ただの散歩と同じですよ」
「呼吸はどうするのだ?」
「交互に行います。現状3人が助かるためにはそうする他ありません」
私の言葉が予想外だったのかマインさんは唖然とした顔で私とお嬢様を交互に見ており、お嬢様は顔を赤くしています。何というかそういうリアクションは対応に困りますのでどうにかしてほしいものですが、こればっかりは仕方がありませんよね。
「俺の装備を姫に着けさせるのは駄目なのか!?」
マインさんの言葉に首を横に振ります。
「お嬢様にはマインさんのようにダイビングの方法を教えていません。それに機材を着ければそれだけ泳ぎにくくなります。ドレスを着たお嬢様では難しいでしょうし、今更変えることは無理です」
「しかし……」
「いいのです、マイン。助かるために必要なのでしょう。それに彼を信じろと言ったのはあなたですよ」
「ぐっ」
お嬢様の言葉にマインさんが言葉に詰まります。眉根を寄せ難しい顔をしていたマインさんでしたが結局は「わかりました」とお嬢様に告げました。何とか納得していただけたようです。心中で思うことは色々あるでしょうがそれは船に戻ってから聞けばよいでしょう。長くなるような気がしますがね。
2人の覚悟が決まったところで話を進めます。
「マインさんについては基本的にサポートはないと考えてください。一応気にはかけますがさすがに手が回りません」
「わかった」
「お嬢様については私が抱いて泳ぎますのでリラックス……は難しいと思いますがあまり体に力を入れ過ぎたりむやみに動いたりしないようにしてください。呼吸はこれを口にくわえて交互に行います。2秒吸って相手に渡したら5秒を目安に少しずつ吐いてください。絶対に呼吸は止めないように。吸うよりも吐くことを意識してくださいね」
「わかりました」
「では、この部屋が完全に水没するまでもう少々時間がありますので少し練習しますよ」
「「えっ?」」
驚く2人をよそに準備を進めます。お嬢様にマスクを渡して着けてもらい、水中に潜ってその細い腰にウエイトベルトをつけます。スカートが水中で広がっているのが少し気になります。何か縛るものを用意すべきでしたかね。今更無理なのですが。
水中から顔を出すとお嬢様はしっかりとマスクをつけていました。
「よろしいですか?」
「え、ええ」
「それでは行きますよ」
お嬢様を抱えて水中へと潜ります。合図はしてうなずいたので潜ったのですがやはり不安からか少し手足をばたばたとさせてしまっています。何もせずそのまま浮上し水面から顔を出します。ぷはぁとお嬢様が息を吐きました。その呼吸が少し荒いのは仕方がないでしょう。死んでしまうかもしれない状況ですからね。
しかし上の壁がもうすぐ触れそうです。練習できるのはあとわずか。
「落ち着きましょう。お嬢様は呼吸することだけを意識してください」
「は、はい」
緊張した様子のお嬢様に微笑みかけ再び水中へと潜ります。2回目という事で少し落ち着いたのか今度は少々体に力は入っていますが動いたりはしていません。
私を見るお嬢様をにっこりと見つめ返しレギュレーターのマウスピースを差し出します。お嬢様が手に持ってそれを口にくわえたところでお嬢様の目の前に握った手を差し出し、1、2と指を立てていきます。ちゃんと空気を吸えているようです。
空気を吸い終えたお嬢様が取り出したマウスピースを受け取り、自分の口へとくわえつつ指を1、2、3、4、5と立てていきます。その間に私自身も空気を吸いそして取り出したマウスピースをお嬢様へと差し出します。お嬢様は私の教えた通りちゃんと息を吐いていましたので問題は無さそうです。
しかしマウスピースを受け取ったお嬢様がそれを口にくわえるのを躊躇しています。気持ちはわからないでもないのですが、緊急時です。人工呼吸と同じと考えてもらえないのですかね。こちらの世界的にはどうなのでしょうか?
しばらく迷っていたお嬢様でしたが「えいっ」と聞こえてきそうな動作でマウスピースを口に含み呼吸をし始めました。再びその前に手を出し1、2と数えます。そして再び私が空気を吸う。それを数回繰り返し何とかスムーズに交互に呼吸が出来るようになりました。お嬢様に笑顔でうなずき、上を指さして上昇することを伝えて水面から顔を出します。既に上の壁はすぐそこでした。
「お上手です。それでは次は本番です。とは言え練習と同じですので気にしないでください」
「わかりました」
「マインさんもよろしくお願いします」
「わかった」
「では行きます」
頭を曲げなければ水面から顔を出すことも出来なくなったので水に潜りしばらく待ちます。この部屋が満たされるまで水の流れは止まりません。流れに逆らって泳ぐのは不可能とは言いませんがさすがに初心者2人を連れた今の状態では無理です。
水の流れを感じながら時を待ちます。2人は落ち着いたものです。これならば大きな問題もなく脱出出来そうですね。
流れが落ち着いてきたのを見計らい入り口を指さして合図し、慎重に泳いでいきます。部屋の中にあった荷物が漂っていたりと多少行きよりは面倒ではありますが問題はありません。どちらかと言えば時間の方が問題です。現在の時間は午後7時過ぎ。日が落ちた中でダイビングするのはなかなかに骨が折れます。バディを見失いやすく、その上自分が今どの辺りにいるのかの把握さえ難しいのですから。普通はやりませんしね。
先に進むことよりも抱いているお嬢様の様子に注意しながら狭い船内を泳いでいきます。私の注意を守って呼吸に集中していてくれるため思いのほか泳ぎやすいので助かります。まあ1人の時とは違いすぎますがね。時々後方を振り返りマインさんを確認しますが問題なく着いてきています。護衛を仕事にしているだけあって体力も度胸もそして才能もありそうです。非常に助かりますが少々うらやましくもあります。
少々時間はかかりましたが船内を抜け外への脱出に成功しました。外へ出てわかったのですが今日は星月が明るいらしく、水面を幻想的に照らしています。海中にも日中の日差しのようにとは言いませんがある程度の光が差し込んでいるため幾分か楽になります。ラッキーですね。
ゆっくりと一定の速度を維持しつつ上昇していきます。ここで焦っては意味がありません。腕にはめたダイコンに表示される水深と時間を見ながらペースを測ります。ちなみにダイコンとはダイブコンピュータの略称です。決して根菜類ではありません。
のろのろとした速度の上昇にお嬢様とマインさんが少々不満げな顔をしていますがこればっかりは私の指示に従ってもらう他ありません。この世界に高圧酸素療法の出来る施設など無いでしょうから減圧症にかかると治療できませんからね。
ゆっくりとした上昇を続けやっと残り10メートルのところまでたどり着きました。2人の表情も幾分か和らいでいます。うっすらと光が届いているので助かったという実感が湧いてきたのかもしれませんね。そんな2人の表情に私も幾分か緊張が和らぎます。しかしその時間は長くありませんでした。マインさんの後方から迫る巨大な魚影に気付いたからです。
役に立つかわからない海の知識コーナー
【ダイコン】
おでんの定番の丸いあいつではなくダイブコンピューターの略です。
腕時計型やコンソール型などがあります。現在水深や潜水時間、水温、最大水深などを表示してくれるダイバーにとっては非常に便利なアイテムです。
減圧症にならないための無減圧潜水時間の表示される商品も多いのでこれからダイビングを始めると言う人には是非とも携帯をおすすめします。安いのでも2、3万くらいしますが安全には変えられませんから。
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