Flag36:操船を教えましょう
「嵐ですか?」
「ああ」
ルムッテロの町から戻り、アル君たちの一家と会って調理用の魔道具などを渡そうとしたのですがその前にそう告げられました。今のところ波は穏やかですしそんな兆候は私にはわからないのですが。
「ちなみにどの程度の大きさ……いえ、大体の日付とどちらの方向へと逃げれば良いか教えていただけますか?」
「嵐が来るのはおそらく明日だ。そうだな、ワタル殿の船ならば北西の方向に1日程度走ればおおよそ影響はないだろう」
「あまり猶予はなさそうですね。教えていただきありがとうございます」
そうお礼を伝えると、ガイストさんとリリアンナさんはアル君を残して去っていきました。嵐に備えての準備などもあるのでしょう。酷い嵐であれば海中もそれなりに荒れるでしょうしね。
「おっちゃんが帰ってこなかったらどうしようかって相談してたんだぜ」
「そうでしたか。運が良かったようですね」
漁船からフォーレッドオーシャン号へと荷物を積みかえながらアル君と話します。予定では1週間程度ルムッテロの町にいるつもりでしたから嵐の前に戻ってこられたのは本当に幸運としか言いようがありません。無人のままの船が嵐に遭遇すればフォーレッドオーシャン号と言えど下手をすれば沈没してしまうでしょうからね。
うーん、やはり私1人では限界が見えてきてしまいますね。実際この大きさの船を1人で動かすということ自体がおかしいのですけれどね。
長期間航海する場合、一般的なのは3交代制の4時間勤務を1日2回という勤務体系でしょうか。ワッチと呼ばれるものですが、ゼロヨンワッチ(0時から4時まで)、ヨンパーワッチ(4時から8時まで)、パーゼロワッチ(8時から12時まで)と半日を3分割して午前と午後に勤務していきます。人間の集中力には限界がありますから長時間連続して勤務しないようになっているのです。航海中の集中力切れは事故の元ですし。
ちなみに船長に関してはこの勤務体系には当てはまりません。地形上危険な海域や他船が行き交う海域ではずっと操舵室にいますが、そうでなければいる必要はありません。航海士と操舵士がしっかりと船を動かしてくれますからね。
人材不足は明らかですから人手を増やしたいのはやまやまなのですが、誰でも良いと言う訳ではありません。一番望ましいのは航海の経験のある船乗りなのでしょうが、フォーレッドオーシャン号の存在を明かすとなれば信頼のできる人物であることが第一条件になります。そのためにはその人材を探すための伝手が必要ですし、本当に信頼できるのか判断するための期間も必要でしょう。未だ伝手さえ確かではない現状では時間がかかりすぎてしまいます。
現状で信頼できるとすればローレライの方々なのですが……
「んっ、なんだ、おっちゃん?」
じっとアル君を見つめていると不思議そうに見つめ返してきました。今のところローレライの中で一番この船に詳しいのはアル君です。操舵室にもよくやって来ますし、私が操船している様子も見ています。門前の小僧と言うことわざもありますしお試ししてみるくらいでしたら問題ないかもしれませんね。幸いにもキオック海にある船はフォーレッドオーシャン号と漁船の第18東海丸しかありませんから航行中の船と接近するということはあり得ませんし。
「アル君、船を操縦してみたいですか?」
「いいのか!?」
アル君が身を乗り出してキラキラとした目で私を見てきます。私が操船するときに私の姿をじっと見ていましたからやりたいのだろうなとは思っていましたがここまでとは思いませんでした。
しかし自分がアル君の年齢だった頃を考えると、もしこんな船を操縦することが出来ると聞けば居ても立ってもいられなかったでしょう。そんな幼い日の自分とアル君を重ね合わせながら笑みを浮かべます。
「はい。私以外ではアル君が一番この船のことを知っていると思いますので。私がいない時に今回のように嵐が来るようなことがあれば船を動かして避難させていただきたいのです。やってくれますか?」
「いいぜ、やるやる。何なら嵐が来なくてもやってやるぜ」
「ははっ、ではお願いしましょうかね」
今すぐやる気まんまんのアル君には悪いですが、まだ漁船から荷物を全て運び終えていませんので先にそちらをしますと言えばちょっと不服そうにしながら精力的にお手伝いしてくれるようになりました。そのおかげか想定よりも早く荷物をフォーレッドオーシャン号へと移動させることが出来ました。まあ、アル君に持ってもらったのは比較的軽い火や水の魔道具なのですがね。
長時間荷物を運ぶために腰を酷使していましたので、ぐぐっと伸ばすと思わず声が出ました。アル君が不思議そうにそんな私を見ていますが、まあアル君もいずれわかるときが来るでしょう。
近くにいたローレライの方にお礼を言いつつ漁船を返します。漁船については嵐で流されるとまずいので三日月型の形をした島へと上げておくそうです。前も泊めてあった近くの砂浜に嵐の時は皆で押し上げていたと聞きましたのでおそらく大丈夫でしょう。
漁船がけっこう痛んでいた原因は子供たちの遊び場になっていたからだけではなく、こういった運用によるところも大きいのかもしれません。何とかしたいところではありますがなにしろ今回は時間がありません。また何かいいアイディアがないか考えておきましょう。
はやく、はやくと急かすアル君に追われるようにして操舵室へと向かいます。ふと途中で思い出して少し大回りをして子供用の座席の高い椅子を探しに行き、そこにアル君を座らせて椅子ごと運んでいきます。そして操舵するハンドルの前にアル君を座らせ、その斜め後ろに私が立ちます。
基本的に船を操船するときは立って行います。小型船舶に関してはもちろんそうではありませんし、船によっても違いますが。フォーレッドオーシャン号については操船するときは立って行うことを元にして設計されていますので操舵するハンドルの前には椅子が設置されていません。その両側のモニターの前にはそれぞれ椅子が設置されていますがね。
立って操船を行う理由ですが、漂流物などの危険物を発見しやすいことやとっさの操船が出来るなどいろいろと言われていますが、個人的には居眠りの防止と言うのが大きな理由ではないかと思います。海上では一面の大海原と言う変わらない景色が続きますからね。実際に操舵士の居眠りによる事故など探せばいくらでも出てきますし。
「で、どうすればいいんだ?」
まあこんなに楽しそうにしているアル君が居眠りするとは思えませんけれど。
「そうですね。まずは前進してみましょう。右手前にあるレバーをゆっくり奥へと倒します」
「んっ、これだな」
「ええ。それです。最初は一緒にやってみましょうかね」
レバーに置かれたアル君の手を覆うように自分の手を重ね、ゆっくりとレバーを倒していきます。エンジンが回転数を上げゆったりと船体が前へと動き始めました。
「うおっ、動いたぞ」
「はい、基本的にこのレバーで速さを調節します。発進するときはゆっくりと、そしてなるべく急な操作をしないということを心がけてください」
「おう」
「そしてこちらが操舵輪です。まあハンドルとも言います。これで船が進む向きを変えます。右に回すと右に、左に回すと左に進みますので試してみてください」
「よっしゃあ!」
「あっ、あまり変な風に動かすと酔いますから注意してくださいね」
そう言った瞬間に青菜に塩をかけたかのようにアル君がしゅんとします。悪いとは思いますがそのあまりにもわかりやすい反応に笑みがこぼれてしまいます。アル君から顔が見えない位置にいて正解でした。
停泊している時や私が普通に操船している時は平気なのですから全くダメと言う訳ではないのですが、不規則な揺れにアル君は弱いようですからね。走行する船に乗った経験など私が来るまでは無かったのですから慣れるまでは仕方がありません。私の経験上で言えばアル君は慣れれば平気になるタイプです。本当にダメな人は止まっていても気分が悪くなってしまいますからね。
アル君が緊張しつつハンドルを握り、それに従って船が真っすぐに進んでいきます。その背後から手を添えてゆっくりと右や左に動かしていきます。少し進路が変わっただけなのですが驚きの声を上げるアル君は可愛らしいですね。
「それでは次は真っすぐ進んでみましょう。今は真北に向かって進んでいますからそのまま北を目指してください」
「わかった」
ハンドルから手を放しアル君に任せます。アル君がハンドルを動かさないようにしながら前を見据えて船を進めていきます。その様子を懐かしく思いながら眺め、モニターを確認して思った通りになっていることに口の端が上がるのを感じます。
アル君はハンドルを真っすぐから動かしていませんが少しずつ進行方向が真北から東の方向へと動いています。これは船の癖と言う訳ではなく風や潮流の影響を受けているからです。速度が出ていると気が付きにくいのですがその影響は小さくありませんからね。これに気づくためにコンパスなどの計器があるのです。
しばらく走りそろそろ指摘をしようかと思ったのですが、アルくんの様子を見ると首をかしげて不思議そうにしています。そして私の方へと振り返りました。
「おっちゃん、真っすぐにしてるけど真っすぐ進まねえんだけど。どうしてだ?」
「おっ、すごいですね。自分でそのことに気づくとは。どうしてわかったのですか? 計器は見ていませんでしたよね」
「だってあそこに向かって走ってたのにちょっとずつずれていくんだからわかるだろ」
「あそこ……ですか?」
「うん、あそこ」
アルくんの指差す方向を見てみますが私には周囲と変わりがないように見えます。しかし計器とアルくんの操舵した軌跡から考えてアルくんの指し示した方向は真北だったであろう位置です。
「もしかしてアル君はここからでも海の違いがわかるのですか?」
「んっ? おっちゃんはわからないのか?」
「ええ、残念ながら難しいですね」
へー、とうなずくアル君をある種の羨望の眼差しで見つめてしまいます。アル君にとって当たり前のその技能が船乗りにとっては喉から手が出るほど欲しい技能ですからね。全く変わっていないように見える海の違いが見えるとは改めて種族の違いを思い知りました。
まあ羨んでも手に入るわけでもありませんし、それをフォローするための計器もあるのですから問題はありませんがね。
「アル君は良い目を持っていますね。まあそれは置いておいて、先ほどの回答ですが海の流れや風を船は受けますからハンドルを真っすぐにしても真っすぐに進むとは限らないのですよ。それを調節しながら目的の位置へと進むことが重要なのです」
「わかった。じゃあもう1回やってみる」
アル君が再び操舵へと集中し始めました。今度はしっかりと目標に向かって進んでいるようです。少し指摘しただけでここまで出来るのは一種の才能です。私が思ったよりも早くアル君なら基本的な操船は出来てしまうようになるかもしれませんね。
アルくんのお腹が鳴るまで練習は続き、その頃には普通に走らせるだけならば問題ないと言えるまでにアル君は成長しました。子供の成長の早さに驚きを感じつつ、それでもお腹が減ったー、と私にしがみついてくるアル君の変わらぬ姿ににっこりと微笑むのでした。
役に立つかわからない海の知識コーナー
【船の車検】
正確には船舶検査と言います。船の用途やトン数などによって定期検査の年数とその間に行われる簡易な中間検査の時期が変わります。ちなみに一般の小型船舶(旅客船以外)は6年ごとの定期検査とその中間の3年のときに中間検査があります。
ただし一定の要件を満たした漁船に関してはこの検査はないのですが、漁師以外の仕事の人が船を持とうとしたら受けることになりますので覚えておいたほうが良いかもしれません。
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