Flag2:人魚と話してみましょう
人間、年を取ると全てを知っているような気になってしまうものですが、なかなかどうして世界には不思議がたくさん残されているようですね。この年になって人魚を釣り上げる……いえ、出会うことになろうとは思いもしませんでした。
しかしこれは私の夢の中。ということは人魚に会ってみたいという深層心理が働いたのかもしれませんね。自分の心とはいえわからないものです。
「おい、お前。なんか言えよ!」
どうやら日本語を話してくれるようです。ずいぶんと都合の良い人魚さんですね。
野良猫のように警戒心をむき出しにしている彼を刺激しないようにゆっくりとその姿を眺めます。淡い青色の髪に釣り目がちな緑の瞳がとても印象的です。その瞳と髪の中間の色をした青緑の鱗は太陽の光を浴びて美しく輝いており、まるでそれ自体が宝石のようです。
「うっ、何だよ!」
「あぁ、申し訳ありません」
ぶしつけな視線過ぎたでしょうか。怖がらせてしまったようです。
やはり人魚は海の中で生きるもの。船の上ではあまり自由に動けないようです。手を使ってずりずりと動いてはいるのですがとてもスムーズとは言えない動きです。そんな場所で見ず知らずの人間に見つめられればそれは怖いでしょう。まだ少年のようですし。
「魚を釣るつもりだったのですが誤ってあなたを釣ってしまったようです。申し訳ありません。今、針を抜きますから少し我慢してくださいね」
道具入れからペンチを取り出します。幸いなことに返しの部分がすでに露出しているので痛みは最小限のはずです。とはいえ痛いものは痛いでしょうが。
「な、何するつもりだ!!」
「針を取ります。その針は返しがついているので普通には外せません。返し部分をこのペンチで切断してそれから外す必要があります」
「嫌だ! さんざん痛いことをされたんだぞ。またするに決まってる!」
そう言いながらずるずるとデッキを逃げようとする少年の姿に罪悪感を覚えます。先ほどまで私が勘違いしていた大物との駆け引きが、実際は逃げようとする少年を無理やり引き上げるという人として恥ずべき行為であったことを再認識したからです。
しかしここで引いてしまうわけにもいきません。
私は膝をつき、目線の高さを少年と合わせ、ゆっくりと落ち着いた声で告げます。
「痛くないとは言いません。でもこのままその針が唇についたままではあなたも大変でしょう。話すのにも食事にも邪魔になると思いますよ」
「うっ、それは……」
自分でもそう思っていたのか、明らかに少年の動きが鈍ります。あと一歩といったところでしょうか。
「ところで私の名前は海原 航と言いますが、君の名前は?」
「アルシェル・キオック。みんなはアルって呼んでる」
「ではアル君。私、海原 航は君をこれ以上傷つけないことをここに誓います。神にでもいいのですが人魚の神様はあいにく知りませんので、私の命より大事なこの船に誓いましょう」
そう言った私の目をアル君はその緑の瞳でじっと見つめました。
私の言葉に嘘はありませんので堂々とその目を見返します。ヒロの想いが詰まったこの船は私にとってはもはや自分の命以上に大切な存在なのです。誓いを立てるのにこれだけ適任な物はないでしょう。
アル君は私の目から視線を外すとゆっくりと船を見ていきます。なるべく汚さないように気を使い、体の動く範囲で整備は行い続けていたのでその船体は新品同様です。まあ今はアル君が飛び込んできたこともあり少し汚れてしまっていますが。
アル君の視線が一周し、再び私の目を見つめます。
「わかった。約束だからな」
「はい、約束です。では針を抜きます。口を軽く開けて動かないでください。抜くときは痛みがあると思いますが我慢できますか?」
無言でこくりとうなずいたアル君に微笑み返します。強い子です。
露出している返しの少し下の部分にペンチで挟み、それを胸にあった白いポケットチーフで包みます。大物釣り用の釣り針は太く、一気に切断することなどできません。ゆっくりと慎重にペンチに力を入れていきます。
アル君の顔がたびたび歪むのは、じりじりとした痛みが襲っているからでしょう。それでも声一つ上げず、身動きすらしないアル君は本当にすごい子です。
しばらくしてカチッとペンチの両側が合わさる音がし、ポケットチーフを取り出せばうまいこと返しから先の部分が全て切断できていました。
「ふぅ。第一段階終了です。ちょっと休憩しますか」
「いや、いい」
「わかりました。次は一気にこの針を抜きます。かなりの痛みがあると思いますので私の足をしっかりと掴んでおいてください。後はこれを口にくわえてください」
実を言えば休憩が欲しかったのは私の方なのですが、アル君にそう言われてしまっては続けないわけにはいきません。
片膝を立てそこにアル君を抱きつかせるような体勢にし、釣りで使うつもりだった白いタオルを丸めて口にくわえてもらいます。こうしないとアル君が痛みに耐えられませんし、抜いた痛みでアル君が口を閉じてしまい私の指を切断してしまう可能性もありますからね。
準備は出来ました。後はなるべく痛みが少なくなるよう針の通った形に合わせて引き抜くだけです。
「では、行きますよ」
アル君がぎゅっと目をつぶり、全身に力が入ります。抱きしめられた太ももの思いのほか強い力から言葉に現れない恐怖を感じ取ります。どんなに強がってもアル君はまだ幼い。そんな子をこんな目に遭わせてしまった罪悪感によって、抜けてしまいそうになる力を気力を振り絞って維持します。
ことここにおいて中途半端な行動は痛みを長引かせ、悪化させるだけです。どれだけ痛がろうが最短の時間で一気に抜いてしまった方が後々楽なのですから。
左手で釣り針周りの唇周辺を抑えます。血と唾液の混ざったピンクの液体のぬるっとした感触に、その温かな体温に少し指が震えます。しかし本当に大変なのは私なのではなくアル君なのですからと無理やりその震えを止めます。
そして右手で釣り針のJの字の付け根部分をしっかりと持ちます。そして目を閉じて私のことは見えていないはずのアル君に微笑みました。伝わるといいのですが。
「それでは、3、2、1、行きます」
「んぐー!!」
苦痛に歪むアル君の顔が、その目から零れ落ちる涙が、ぎゅっと抱きしめられる太ももの感触が、そして食い絞められたその歯が私の心を責め立てます。
やわらかい唇が抜こうとする釣り針に引っ張られ、ついていこうとするのを必死に左手で押さえ、一気に抜きます。やわらかい肉の中を抵抗を受けながら釣り針が通るとても気持ちが良いとは言えない感触に顔をしかめ、それでも手を動かし続けます。
「抜けました!」
「ぐー!!」
釣り針を後ろへと放り捨て、釣り針の抜けた跡からぽたぽたと落ちる赤い血をポケットチーフで抑えます。白いポケットチーフが赤く染まっていきますがその速度は非常にゆっくりとしたものなので次第に止まるでしょう。一安心です。
ゆっくりと目を開けたアル君と視線を合わせます。一瞬、笑顔を浮かべ、そして思い出したように頬を膨らませるその姿に思わず笑みがこぼれます。
「痛かったぞ」
「はい、よく頑張りましたね。なかなか出来ることではないです。さすがアル君ですね」
「いや、まあそうだけどよ」
褒められると思っていなかったのか、先ほどまでの怒りはどこへやらアル君が頭をかきながらそっぽを向きます。そしてそれと同じくしてくぅ~というかわいらしい音がどこかから聞こえてきました。アル君の顔が赤く染まっていきます。
そういえばもう午後1時を過ぎていましたね。
自分のお腹を押さえ、そして時計を見ます。少しわざとらしいですがまあ問題ないでしょう。
「すみません。お腹が鳴ってしまったようです。今から食事を作ろうかと思いますがアル君も一緒にいかがですか?」
「別に俺は腹なんか減ってないぞ」
「そこをなんとか。私一人で食べるには少し多い量を釣ってしまいまして。アル君に痛い思いをさせてしまったお詫びも兼ねてどうでしょう?」
「……わかった。お詫びだから受けるんだからな。勘違いすんなよ」
「はい、もちろんです」
かわいらしいアル君の反応に、頬が緩みそうになるのをこらえながら景色の良い先頭のデッキのソファーへとアル君を案内します。中は警戒されてしまいそうですし、すぐそばに海が見えた方がアル君も安心でしょう。
「では少々ここでお待ちください。そういえばアル君は陸上でも問題は無いですか?」
「俺はローレライだぞ。この程度へっちゃらだ」
「そうですか、それは良かった。今から料理を作ってきますが、食べられないものはありますか? というよりは普段アル君はどんな料理を食べているのですか?」
さすがに嫌いなものを作るわけにはいきませんからね。まあ独身生活が長かったせいもあり多少料理には自信がありますが、好き嫌いはどうしようもありませんし。
私の質問にアル君は首をかしげて考えています。
「料理ってなんだ? いつもは魚とか貝を捕まえて食べてるぞ」
「えっとそのままでしょうか?」
「ああ」
そういえば釣りの餌にそのまま食いついたからあの状態になったんですよね。私としたことが失念していました。
しかし料理を食べた経験がないとは少し驚きです。まあ4匹残っていることですし、1匹はそのまま残して後の3匹で料理を作りましょう。料理が食べられなかったときは、申し訳ないながらもその一匹を食べてもらいますかね。
そんなことを考えながらサンマもどき3匹をクーラーボックスへと移し替え、よいしょっとそれを肩にかけてキッチンに向けて歩き始めるのでした。
役に立つかわからない海の知識コーナー
【返しのついた釣り針について】
体に刺さったりすると本当に取れません。しかも体内で止まってしまっていると返しを外へ出すために押し込む必要が出てくるので悲惨です。病院で麻酔を打ってもらって抜きましょう。
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お読みいただきありがとうございます。