Flag1:釣りをしましょう
肌を刺すという表現が本当に似合う強烈な日差しをまぶた越しに感じ、重いまぶたをゆっくりと開いていきます。
また1日生き延びたようですね。生き延びてしまったという方が正しいでしょうか?
のどの渇きを覚え、枕元のペットボトルへと手を伸ばそうとして違和感を覚えます。しかし起きたてで働かない頭にはその正体を解明することが出来ず、キャップをひねりのどの渇きを潤すことを優先します。
ぬるい水がこくこくと喉を通っていき、それに合わせて徐々に頭の回転が速くなっていきます。
「ふぅ」
思いのほか喉が渇いていたようで一気に飲んでしまいました。
飲み終えたペットボトルをベッド脇のテーブルへと置くと、その横に使われなかったコップが鎮座していることに気づきました。飲み干してしまったので良しとしましょう。
言うまでもありませんが船上での真水は貴重品です。それを有効に利用するためにも水を腐らせるなどもってのほか。ペットボトルは便利ではありますが、口をつけた段階で雑菌が水の中に入ってしまうので冷蔵庫などに入れる必要が出てくるのです。動けない今の私にとって、それは結構な重労働になってしまいますしね。
そこまで思考してふと気づきます。
「痛みがない。それに……私はなんでこんな格好を?」
そう、体を少し動かすだけでも全身に襲い掛かっていたはずのあの痛みがないのです。確かめるように体を動かしてみても全く痛みは走りません。寝て硬直していた体をほぐすじんわりとした快感を覚えるだけです。
そして薄いローブで寝ていたはずの服が会社員時代を思い出させる真っ白なシャツの上にまるで喪服のように真っ黒にしつらえられたスーツを着ているのです。不思議に思いながらベッドから立ち上がってみれば、そこには丁寧に磨かれ光沢を放っている靴が鎮座しています。
「こんな服があったという記憶はないのですが……」
不審に思いながらも顔を洗えばもう少しは頭が働くようになるだろうと洗面台を目指します。こうして自由に歩けるのも数日ぶりのはずなのですが違和感はありません。
何が起こったのでしょうね。
しばらく歩き、洗面所のドアを開けた私は思わず立ち尽くしてしまいました。なぜなら洗面所にある大きな鏡に映っていたのはまだ30代半ばほどの自分の姿だったのですから。
鏡の中の自分が目を見開き、そして顔をなぞるように手を動かしているのを目で追っていきます。そしてその光景と自分の行為、感触が一致していることに戦慄を覚えました。
「何なのですか、これは?」
そう呟けば鏡の中の自分も口を動かします。若いとまでは言えないまでもボートなどで鍛えたその体は程よく筋肉がついており、黒髪に少し混じった白髪が初めて課長補佐になった当時の苦労を思い出させます。あの頃は上と下の相性が悪かったですからね。緩衝材として働かざるを得なかったのは大変でした。今となっては良い経験だったと思いますが。
いえいえ、そんなことを考えて現実逃避している場合ではありませんね。今一度冷静に状況を整理してみましょう。
・昨日までの私は手を動かすのも難しいくらいに衰弱していた。
・現状として痛みは全くない。また衰弱しているような感じもしない。
・なぜか30代半ばほどにまで若返っている。
・ローブで寝たはずなのに、起きたら着た覚えのないスーツを着ていた。
導き出される結論としては……
「夢ですか」
そう自分で呟いてみれば非常にそれがしっくりときます。それと同時にある一つの考えが思い浮かび私はすぐに洗面所から外に出て船上を歩き回ります。顔は洗わなかったですが問題ないでしょう。なにせ夢ですから。
操舵室を、デッキを、そして使っていなかったゲストルームまで一部屋一部屋探していきます。これが夢なら、ヒロだってここにいるはず。そんな思いが私を突き動かします。
諦めたのは太陽が真上へと上がる頃でした。どうも私の夢は私に優しくないようです。非常に残念ですが。
しかし夢の中とはいえ喉の渇きも覚えれば、お腹も減るようですね。最近はまともな食事もとれていませんでしたし、久しぶりにしっかりと料理をしましょうか。
そう思って冷蔵庫を見てみれば、冷凍食品は問題ないでしょうが、冷蔵していた魚は釣ってから少し日にちが経ちすぎている気がします。冷凍されたあり合わせで料理を作るというのもやぶさかではないのですが、せっかく体が動くのですから新鮮な魚を食べたいですね。
「久しぶりに釣りでもしますか」
癖になってしまった独り言をつぶやきながら操舵室へと向かいます。少し船を操舵しつつ6つあるディスプレイの1つを見れば、このあたりの海底が50メートル程度であること、そして表層に小魚が、そして底に大物が潜んでいることがわかります。これはいわゆる魚群探知機というものですね。
わざわざ船を動かすのはそうしないとこの魚群探知機がうまく機能しないからです。
そもそも魚群探知機がどうやって魚の群れを探しているかと言えば超音波を飛ばしてその反射時間で判断しているわけですが、停船している場合、海底との距離は一定ですし、魚群との距離も時間経過に関係なく一定になります。つまり画面上には一直線の海底と、とてつもなく大きな魚影が現れるというわけですね。
この画像を見て、初めて魚群探知機を使う人が勘違いするのはある意味定番と言えるでしょう。大物を釣り上げてやると意気込む初心者を私たち先達は温かく見守るのです。自分も通った道だと思い出しながら。
「しかし1メーター超えですか」
海底に3つの反応がありそのすべてが1メーターを超える大物です。ただ食事を作るだけならば表層の小魚を釣れば簡単ですし、何も問題はないでしょう。
しかし今、この状況が私の心を揺り動かします。出港してから体調が良くないこともあり、大物を狙った釣りはしませんでした。一番の大物がぎりぎり80センチのブリでしたからね。それでもかなり体力を消耗しましたし。
1メートルを超える大物となれば、釣り上げるまでの魚との駆け引きの時間は必然的に長くなります。そして魚自身の力も桁違いです。釣り上げられれば命はないのですからそれは必死になるでしょう。
そんな魚を釣り上げるためには、何より体力が必要なのです。そして今の私にはその体力がある。この若くなった肉体ならば途中で力尽きてしまうといったことはないでしょう。釣り上げられるかは駆け引き次第ですが……
「それもいいかもしれませんね」
せっかくなのですから大物を狙ってみましょう。
船を停船させ、操舵室前のデッキに置かれたソファーの中に収納されている釣り道具を取り出していきます。竿は2本。1本は大物用の300キロ以上まで耐えることのできる太く固い竿で、もう1本は表層の小魚用です。大物を狙うにしてもそのエサが必要ですしね。
ルアーを使い表層の魚を釣り上げていきます。このあたりの魚はスレていないようで簡単に釣り上げられてくれますね。その口は先のとがったくちばしのような形をしており、銀の光沢がまぶしいボディの背に1本の青黒いラインが引かれたその細長い姿はサンマを彷彿とさせますが、腹の部分に赤い縞模様が入っています。サンマの仲間でしょうかね。
5匹ほど釣り上げ、これで大物を釣り上げることが出来なかったとしてもごはんに困ることはなさそうだと思いつつ、その魚の背中に針をつけ海へと投入します。
重りに引きずられるように魚が海底へと潜っていく姿を船上から眺めつつ出ていく糸を見守ります。底についたら少し糸のたるみを取りしばらく待ちます。
いわゆる泳がせ釣りというやつですね。
いつも大物狙いをしているような人ならばいろいろなテクニックがあるのでしょうが、あいにく私は漁師でもありませんし、大物を狙うよりも多くの魚を釣る方を好んでいましたから経験が不足しています。まあ天に運を任せましょう。
動きのない竿先を見つめます。何度もリールのドラグが緩んでいることを確認してしまうのは慣れないからでしょうか、それとも……
「っ!!」
いきなり竿先が激しく動き始めました。まだです、まだ早い。
はやる気持ちを抑えつつ、竿を持っていかれないように力を入れます。そしてドラグが回転し、糸が少しずつ引き込まれていきました。
今です!!
しっかりと続いている手ごたえからして合わせはうまくいったようです。と思った途端に糸がどんどんと引き込まれていきます。私が思った以上に大物なのかもしれません。
とはいえこのままずるずると糸を引き出されては困ります。船にこすって糸が切れてしまう可能性もありますしね。
相手の隙を見つけてはリールを巻き、また強引に引き出されます。しかし焦りは禁物。まだまだ相手も元気です。大物釣りの醍醐味はこの魚との駆け引き。焦ればテンションのかかりすぎた糸が切れてしまい、放置しすぎても海底の岩などにこすられて逃げられてしまう。魚の逃げる方向を読み、力をいなしながら、引きが弱くなった瞬間にすかさず糸を巻いていく。その巻いた糸が一瞬後には元に戻ってしまったとしても諦めずに。
いかに相手を疲れさせ、諦めさせるか。
結局大物との勝負はこの一言に尽きるのです。
いかに良い機材があったとしても、いかに良いクルーが補助についていたとしても、釣り人自身の心が折れた段階でもう負けです。大物の姿をその目にすることは叶わないでしょう。
汗が額と言わず全身から噴き出します。竿を持つ手が赤を通り越して白く変色していき、鈍い痺れを覚えます。
勝負を開始してからすでに30分は経過したでしょうか。自分自身の体力がどんどんと削られていくのを感じます。もしかしたら体力が先になくなるのは私かもしれません。
しかしそれが良い。
こんな勝負はガンに侵された体では想像すらできませんでした。いえ、ガンに侵されていなかったとしても年老いた私には厳しかったでしょう。夢の中とはいえこんな大物釣りを再び出来るとはなんと私は幸福なことか。
相手も疲れてきているのでしょう。当初の体を持っていかれそうな引きは鳴りを潜め、それでも私がリールを巻こうとすれば抵抗してきます。諦めてはいなさそうです。
「さて、そろそろ決着をつけましょう」
ドラグを少し締め、最後の勝負を持ち掛けます。
出ていく糸が少しずつ減っていき、逆に私の巻く糸が増えていきます。抵抗は感じますが今までの引きと比べればそう大したものではありません。
諦めてはいないと思ったのですが、間違いだったでしょうか?
それは油断でした。あと15メートルというところまで来たことによる安心感があったのかもしれません。しかしそれは真剣な勝負をしている者からしてはあってはならない心の隙だったのです。
不意に竿のしなりが無くなり、それに伴って感じていたはずの手ごたえさえも無くなりました。
バレましたか?
そう考えて海面を覗き込んだ私は思わず息を飲みました。なぜなら海中へと続く糸の先から物凄い速さで何かが近づいてくるのが見えたのですから。このままではぶつかる、そう判断した私はとっさに竿ごとデッキへと倒れこみました。
その直後です。海面を突き破るザバァという音が聞こえ、しぶきが私の顔を濡らしていきます。そしてビチビチと跳ねる音と振動に顔を向けた私は信じられないものを見ることになるのです。
それは確かにひれを持ち鱗に覆われた1メートルを超える大物です。ただ鱗に覆われた体は下半身のみであり、上半身は普通の小学生くらいの少年であるということを気にしなければ魚と言えるかもしれません。いえ、やはりどう考えても無理がありますね。
「人魚……」
唇に刺さった針を押さえながら、こちらを睨むその子は、まごうことなき人魚だったのです。
役に立つかわからない海の知識コーナー
【ドラグ】
釣り竿のリールについている機能のひとつ。ドラグつまみを調節することでどの程度引っ張られた時に糸が出ていくかを決めるもの。これがないと大物の場合、すぐに糸が切れて悲しい思いをすることになる。
わからない道具や用語があれば感想の気になる所に記載していただければ解説できるものは解説させていただきます。