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第6章 鷹取屋敷攻防戦(前編)

1.


 明るい。最初は、そう感じていた。

 だが最近は、その明るさが白々しく感じる。

 ここは、鷹取家の宗家が住まう屋敷、通称はひねり無く『鷹取屋敷』である。

 袴田主任参謀が訪れたこの部屋は、参謀長の私室だ。鷹取一族の男性最長老への充て職である参謀長への特別待遇の一環だが、ここに居住する者はまれである。現参謀長も、普段は自宅から通勤している口だ。

 なぜ白々しく感じられるのか。それは、彼と参謀長、鷹取一族の婿たちの陰謀が遅々として進まないからだ。

 総領候補者である沙耶を廃し、もう1人の候補者である美玖のみを総領にして操る。それが陰謀の要目である。彼女の父親は鷹取財閥の総帥であり、カネと権力が手元にうなっている。それを継承する美玖を操ることができれば、栄耀栄華は思いのままなのだ。

 ならば美玖の両親を取り込めばよいと思うかもしれない。だが、鷹取家のしきたりがそれを無効化してくるのだ。

 なんとなれば、総領は候補者もしくは予定者が結婚した時に、その座を譲る。ということは、沙耶が今後結婚して娘を産んだとしても、その子より先に美玖が適齢期を迎える。美玖がよほど縁に恵まれない限り、結婚した彼女へ順当に総領職が継承されていくだろう。

 ゆえに、彼女の両親は焦らない。沙耶を廃さなくても、次は自分の娘の番だからだ。

 鷹取の男たちは、あてにできない。彼らは鷹取家の本業である妖魔討伐を資金面で支えるという役目に忠実で、総帥に権力闘争を仕掛けて成り上がろうという気が無い。個人的にも、総帥は家中と良好な関係を築いているため、その線も無い。

 女たちは論外だ。そもそも、総領になって得をすることなど一つもないと言っていい。政財界や各国の貴顕から相応の敬意は払われるが、わずらわしい雑事のほうが多すぎる。その引き受け手候補を、なぜわざわざ1人減らさねばならないのか。へたをすれば自分にお鉢が回ってきかねない――過去に宗家が交代したことが8回ある――というのに。

 そういった理屈を吹き飛ばすお題目が『沙耶の犯した痴情沙汰』なのだが、これもまた女たちにとっては『ちょっとやり過ぎだけど、気持ちは分かる』という。

 一族に広がるこの雰囲気を参謀長も敏感に察知しているのか、袴田に同心することを口にはするものの、慎重な姿勢を崩さない。ゆえに、白々しく感じられるのだ。

 私室に招かれて待つこと15分。参謀長はすまなそうに入ってきた。

「来てもらったのはほかでもない。沙耶ちゃんの婿取りの件だがね」

「まさか、話が決まったとか?」

 参謀長の説明は、袴田の予想を裏切った。沙耶の同僚の講師に、どうやら迷いが生じているらしい。

「それは吉報ですな。浮かぬ顔でおっしゃるから、てっきりそいつと婚約でもしたか、例の奴が色気を出してきたのかと思いましたよ」

「例の奴?」

「沙耶様を護ったとかいう大学生の……」

 合点がいった表情の参謀長に笑いかける。

「ま、御家からなにも褒賞がないようですし、その程度の存在ということでしょうな」

 だが参謀長はそれに和せず、もごもごと何事かをつぶやくと、次のマージャン会の日程についてひとしきり話し合ったのち、話題を戻した。

「先ほどの長壁という講師についてだが、駄目を押したい」

「と言われますと、沙耶様を貶める方向でですか?」

 答えは、差し出された二つ折りの白い紙だった。

 参謀長は老人らしい動作で立ち上がると、窓越しに庭園を見に行った。その背中から、低い声が出る。

「頼んだぞ」

 部屋を辞してトイレに籠り、紙を開く。

 そこには、

『玲瓏舎大学で昼間に妖魔を出現させよ』

 とのみ記されていた。

(なるほど……確かあの彼氏はブルってると聞いた……)

 4月に浅間大学で試したように、あの大学を囲む呪符式を破壊すればよい。

 紙を細かく裂いてトイレに流すと、袴田は詰所へ戻りながら、手筈を考え続けた。


2.


 夜。西東京支部の控え室に向かう隼人に、どこから現われたのか優羽が飛びついてきた。

「隼人先輩、あたしの作ったクッキー、食べてくれました?」

 そう、先日優羽から可愛くラッピングされた包みを渡されたのだ。隼人はにっこりと答えた。

「ああ、ここのみんなで美味しくいただいたよ」

 腕に優羽をぶら下げて入ろうとしたのに、動かない。動けない。優羽が足を踏ん張ってしまったからだ。

「どうしたの?」

 見下ろした下級生の瞳は、涙がこぼれ落ちそうだった。

「ひどいですぅ……隼人先輩へって包みに書いたのに……」

「うん、だからありがたくいただいて、みんなにおすそ分けしたんだよ?」

「……あたし」

「ん?」

 潤んだ瞳が震え始め、品の良い垂れ目が吊りあがる。

「こんな仕打ち、初めてです」

「俺はそうでもないけど……」

 彼女じゃない子からの贈り物は、みんなで美味しくいただく。中学・高校時代はなごみとくるみ、千早と圭がその主な『みんな』だった。

「言ってください」

「なにを……ってわあ!」

 隼人は優羽ごといきなりしゃがんだ。2人の頭上を硬そうな物体の風切り音が通過していく。

「な に や っ て ん の よ アーパー売女ばいた

「いきなり何するんですかヒスサイコ先輩」

(なんつう会話だよおい……)

 彼方にちらっと眼をやると、投げつけられたのは缶ジュースだった。それの激突音で気づいたのか、控室からスタッフたちが出てきて、

「……おつかれした~」

 呆れて閉じようとする扉の隙間に足を突っ込んで止め、無理やり部屋に入り込んだ。

「先輩! 助けてくれてありがとうございまぁす。うふ」

「優羽ちゃん、そのお芝居は何歳の頃から始めたの?」

 思い切って尋ねてみた。ぴく、と震えた後、優羽の顔がほころぶ。

「産まれた時からです!」

「ああ、演技ってのは認めるんだ」

 氷点下の空気をまといながら入室してきた理佐を横目に、イスに座る。コーヒーを淹れてくれたスタッフに礼を言って、一息ついた。

 そのスタッフが席に戻ったヒソヒソ話が耳に入る。

(あれ、沙耶先生のご一族なんでしょ?)

(なんか全然違うね)

(先生もあのくらい積極的にすればいいのに)

 ああ、そういえばまだしてなかった。隼人は立ち上がると、先ほどの子に向かって笑いかけた。

「改めて、初めまして。神谷隼人です」

 と沙耶のゼミ生にあいさつをする。返ってきた言葉は、

「ほんとに変身すると女になるんですか?」

「あ、バレた?」

「そりゃバレますよ」

 と、先に来ていた瞳魅が笑う。

「フロントスタッフのリストに載ってるんですもん」

 そりゃそうだと笑い合い、すぐ横で起こっている騒ぎも鎮めなきゃ。

「優羽ちゃん、離れて。理佐ちゃん、そこ座って」

「いやいや! 離れたら隼人先輩、ほかの女の子のとこ行っちゃうじゃないですか!」

「物理的に離別させてあげるわ」

 と白水晶を取り出した理佐に、仕方がない、無理やり止めるか。

「島崎さん、座って」

 小刻みに震えながらイスにへたり込んでブツブツつぶやき始める理佐に心の中で詫びて、優羽も引き剥がす。新入りスタッフたちが理佐のほうをチラチラ見ながら先輩たちに話しかけてるけど、気にしない気にしない。

 と、軽快なメロディが優羽の体から流れ始めた。落ち着いた表情でスマホを取り出し、突然演技が始まる。

「もしも~し――んん、今ねぇボランティア――うっそ~マジ?! うんイクイクゥ!――いやぁんもうコージくんのエッチィ――え? 男の人? いるよそばにセンパイ――」

 疑われているようだが――なにを疑われているのかは丸分かりだが――難なくいなして、すぐ通話終了となった。

 というかだね、

「また新しいオトコかよ」

「あたしが聞いただけで4人はいるんだけど」

「もー違いますよぉ、それはオトコじゃないですぅ」

 じゃあなんだと尋ねたら、

「一晩限りの思い出作りですよぉ、テヘッ」

 おまけに、だんだん呆れ始めた室内の雰囲気に負けない爆弾を投げつけてきた。

「隼人先輩もいますよね? そゆ人たち」

「なんのことやらそれがしにはさっぱり」

 とぼけた隼人に、別方向からまた爆弾。瞳魅だ。

「あれ? 報告書だと、野球チームが3つ作れるくらいいるはずですけど」

「……どこの報告書だよなんの報告書だよ」

 そういえば、隼人を含む全員が身辺調査されたんだっけ。

 それにしても、

「君らはなぜそんなものを読んでるのかね?」

 なぜ視線を逸らす?

(千早と圭だな、情報源は。また話を盛りやがって、まったく)

 その時また優羽のスマホが鳴った。今度はリューセー君とやらから。

 その通話はやっと、スタッフたちから隼人への追及を、彼女へと戻すことにつながった。

「ねぇ優羽ちゃん、どっかで誰か一人に絞るのそれ?」

「うふふ、そんな先のことあたし分っかりぃませ~ん」

 理佐が鼻を鳴らして、優羽を見下げた。

「ま、そのうち歳を取って誰にも相手されなくなるわよ」

「そんなことないですよぉ」

 立派な胸を張り、言い切る優羽。

「その自信はどっから来るの?」

 訊かれた優羽は、自分の柔らかそうなほっぺたを指で突きながら、にっこり笑った。

「この美貌と、有り余るお金です。えっへん!」

 見えるぜ、室内の女性たちのこめかみに立つ青筋が。聞こえるぜ、その総意が。

(ああ殺したい)

 ただ一人例外の女性、瞳魅が小さく身じろぎをして口を開いた。

「優羽、あんた大事な用事を忘れてるよ」

「あ、そうだっけ」

 またくっついてきそうになったので素早く距離を取ったら、むくれながら話し始めた。

「も~、隼人先輩に鷹取屋敷へのご招待のお知らせなんですぅ」

「こらこら、勝手に限定するな」と瞳魅。

「西東京支部の皆様、でしょ?」

 そこへ美紀が来た。なにやら慌てている。

「なーなー瞳魅ちゃん、この顔に見覚えない?」

 スマホに映し出された写真を見て、瞳魅の顔色が変わった。

「このあいだ、わたしと戦った女です!」

 そして、優羽の態度も激変した。厳しい表情ですっくと立ち上がり、美紀に詰め寄ったのだ。

「どこにいますか?」

「行ってどないするん?」

「殺します」

 みんながあっけに取られて――理佐ですら――いる中で、美紀だけがやけに冷静だった。

「今、真紀が尾行つけてるさかい、殺るのはちょっと待ちぃな」

「今、どこにいますか?」

「優羽、やめて」

 瞳魅が、美紀と優羽のあいだに素早く割って入った。でなければ、優羽の殺意が美紀に向きかねない。そんな雰囲気すら漂ってきたからだろう。

 それを潮に、美紀は控室の扉へと向かった。

「真紀と一緒に尾行てくるから、ウチらのGPS情報、トレースするように参謀部に言うといて」

「今から行って追い付くの?」

 問われて美紀はすっと虚空を見つめた。何かを思い描いているような、検索しているような目つきを数秒した後、

「今、上代3丁目の辺りやから、走れば行けるね」

 出ていったあとを、いぶかしげな視線が複数さまよっている。

「……まさか、あの、例の双方向通信とやらですか?」

 うなずき、実例を挙げようとして、すんでのところで思いとどまった。昨年のダブルデートの時の、美紀の柔らかい唇の感触とほのかなバニラの香り、そして涙を思い出したから。

 その時また、扉が開かれた。

(なんか、今日はバタバタした日だな……)

 微苦笑していると、入ってきたのは陽子だった。

「おはようございま……」

 その眼は大きく見開かれて隼人を捉え、すぐに覚悟を決めた色に染まる。

「あの、このあいだは、無茶苦茶言ってごめんなさい。助けてくれてありがとうございました」

「! うん、気にしないで。これからもよろしく」

「よかったね陽子」「うんうん、さすが隼人先輩、おっとな~」

「あ、戻った」

 はしゃぐみんなから外れて、横田が参謀部に通報している。それを眺めながら、隼人は出動の可能性について思いを巡らした。


3.


 尾行していた女がマンションの正面ゲートに吸い込まれていくのを物陰から見つめ、真紀は少しだけ息を抜き――前に跳躍した!

 眼の端に銀色の筋を捕らえながら、くるりと前回り受身を取って逃げる。それがマンションの灯りで鈍く光る針であることを察知し、次の跳躍に備えて膝をたわめた。

 視線の先の暗闇から、妙にしゃがれた声がする。

「ちっ、避けたか。ただもんじゃねぇな、小娘」

 声の誘いに乗らず、真紀は無言でのけぞった。銀色の光がまた右斜め前から飛んできたのだ。

山彦やまびこの術……めんどくさいな)

 のけぞったついでにバク転をして、逃げに徹する。美紀のところまで。

 のっそりと、敵が姿を現した。左方・・から。自身の表れか、ゆったりとした足取りで接近してくる。顔は黒い覆面をかぶっているが、露出している眼の周りの皺から、50歳前後と推測した。

「鷹取の手の者か?」

「いたいけな女学生ですが」

 冗談に対する反応は、目にも止まらぬ早業で飛ばされた何かと、電柱の上から男目がけて降ってきた美紀だった!

 飛来物を避けきれず、右肩に鋭い痛みと衝撃が走る。どうっと転倒して、しかし頭を守りつつ横へ転げた。

「ねーやん、大丈夫?」

 美紀の声と共に、黄色い光が視界を満たす。

「痛い……ちょっと待って。抜くから」

 ぐっと歯を食いしばって、刺さったブツ――ナイフの刃を抜く。次の瞬間、微弱な電流が真紀の身体に流されて、肩の傷と服の裂け目は治癒された。

「うわ、スペツナズナイフやんか。ごっついもん持ってたんやね」

 周囲に気を配りながらコメントする美紀――エンデュミオール・イエローの足元には、どうみてもヒトには見えない物体が転がっている。

「空蝉か……凌ちゃんのご一族かな?」

「かもね」

 美紀に上からの観測――真紀の直感だけではあの攻撃はかわせない――の礼を言っているところへ、鷹取家の車両がようやく到着した。



「くそっ! アジトが……!」

 祖笛は怒りで顔が青黒かった。それは行動にも現われて、

「おい! シート叩くな! 運転しにくいだろ!」

 運転席の平居がわめいてくる。

 怒りの矛先はシートの代わりに乃村に向いた。こいつが尾行されなければ、こんな事態にはならなかったのだから。

 祖笛の火を噴くような糾弾を受けて、乃村の顔は真っ青になった。

 なおも吊るし上げを食わせようとしたが、以外にも平居がとりなしてきた。前をまっすぐ見つめながら、

「まあまあ、負けたわけじゃないし。オッサンが全滅させるのを待って、必要なもんを回収しに行けばいいじゃん」

 とりあえず10分ほど走ったのち、コンビニの駐車場で連絡を待った。が、一向にかかってこない。

「以外にてこずってるね」

「楽しんでるんじゃね? あいつ快楽殺人者だろ、絶対」

 罪滅ぼしのつもりか、乃村が買ってきたコーヒーを受け取ったところで、電話が鳴った。ようやくかと思って出た電話の内容はしかし、祖笛たちを驚かせるに足るものだった。

「嘘だろ? 小娘一人怪我させただけで、撤退……?」

 自分も十分小娘な年齢である平居のつぶやきを揶揄する余裕が無い。

 一旦退却した振りをして増援を襲撃しようとしたが、それも小娘に阻まれたと告げる清多。その声は怨念に満ちていた。

『例のポイントで落ち合おう。反省会はそれからだ』

 最後にそう搾り出した声で、通話は切れた。

 呆然と見つめるスマホの待ち受けが奇妙に歪む。それが涙だと悟ったのは、平居に肩を叩かれたあとだった。

「さ、行こう! はんせーかいしよーぜ。明日のために」

「明日?」

「そ。つっても、ほんとにアシタじゃないぜ?」

 平居が自分のスマホをかざす。そこには、例のウェブサイト――鷹取屋敷内の洋館見学予約画面が映っていた。

「この日、行事のため見学お断りだってさ。つまり、奴らが家にいる。そういうことだろ?」

 祖笛は重い頭を縦に振って、座席に身を預けて目を閉じた。

 栗本さん……力をお貸しください……


4.


 タカソフでのバイトは、いつもつつがなく過ぎていく。ひたすらスキャンするだけなのだから、史料をうっかり破損でもしない限り、トラブルなど起きようもないのだが。

 ここ数回は、弓子もおとなしく仕事に没頭している。というか、

(自分の机でやればいいのに……)

 やがてお昼とともに、沙耶が来た。驚きと不審の表情を浮かべて。

「ちょっとユミちゃん、本当に?」

「ん、たまにはね」

 なんだろうと眺めていたら、弓子は足元に置いてあったクーラーバッグを開けた。そこから出てきたのは、

「うおおおおおおお手作り弁当だ!!」

「また大げさな」

 隼人の歓喜の絶叫に理恵が苦笑しながら、机の上を手早く片付けた。どこから取り出したのか、ペットボトルのお茶まで並べている。

 さっそくふたを開けると、ミニハンバーグにコロッケ(見た感じではどちらも手作りだろう)、カニカマ入りのサラダと混ぜご飯というラインナップだった。量も隼人用のはボリュームアップしてあるし、美味しさは先日の警備バイトの時食べたそれと比べるも失礼なほどである。

 それを一心不乱に頬張っていると、沙耶の表情が今一つ冴えないのに気づいた。

「どうかしたんすか? 社長」

「ん? あ、ああ、あのね、ユミちゃんがお弁当作ってきたもんだから……」

 そんなに意外なのだろうか。確かに手料理とか家事全般をしなさそうな雰囲気ではあるが。

 その点を素直に述べてみたら、予想に反して弓子に笑われたうえ、ウィンクまでされた。

「そこがいいんじゃない。ギャップ萌えってやつよ」

(あれ? 俺、ストライクゾーンから外れてるって言ってなかったっけ?)

「ユミちゃん、職場にいらぬ波風立てるの、止めてくれないかしら」

「そうですよ、って聞いてないし……」

 弓子は社長と秘書の注意など耳に入らぬ様子で、隼人の弁当箱を覗き込み始めたのだ。

「どれどれ、セロリもブロッコリーもオッケー、と」

 その顔はそのまま、雇用主に向いた。

「あ、ご心配なく。これは違う目的で使うから」

「なんすかそれ……つか、波風立ててたんすか? 職場で」

「違うわよ」

 そう言った沙耶が、急に黙り込んでしまった。『しまった』という顔をしている。続きを促すと、渋々といった感じで話し始めた。

「昔、ユミちゃんが手料理を振舞ったせいでカオスになったことがあるのよ」

「カオス……?」

 あえて繰り返してみたが、それ以上は女性陣からこの話題についての言及はなかった。

 仕方がない、話題を変えるか。

 隼人は弁当を食べ終えると、手を合わせた。

「ごちそうさまでした。久しぶりっすよ、手作り弁当なんて」

 それを聞きとがめたのは理恵だった。行儀よく箸を休めて、隼人に話しかけてくる。

「本当に? あんなに目一杯女子が群がってきてるのに?」

「群がられてないんですが。もうかれこれ2年近く……ああ、ミキマキちゃんにもらったのが去年の9月か……」

 そういえば、2年前のあの子は冷凍食品が多かったな。保育士志望がそれでいいのかと訊いてケンカしたこともあったっけ。

 ……で、なんでみんな首をかしげてるんだろう。

「理佐ちゃんは……?」

 沙耶の疑問は当然だろうが、隼人の回答もよどみがない。

「料理しない人でしたから、島崎さん」

「で、隼人君的にはどっちがいいの?」

 とは弓子。小首を傾げて、挑むような上目づかいだ。

「そりゃ、作ってくれたほうがうれしいっすよ」

「なるほど」

「なにメモってんすか? つかそれ何に使うんすか?」

 これにも答えは得られなかった。

 どうやら社長と秘書は、商談までまだ少し時間があるらしい。世間話に花が咲いたが、そのうち話題が鷹取屋敷での懇親会のことに及んだ。

「理恵ちゃんは行くんでしょ?」

 と弓子に振られ、戸惑っている。

「え、いや、私はちょっと……」

「あ、そうなんすか?」

「来てほしいの?」

 これは沙耶。なぜだか知らないが、胡散臭げな目を向けられた。鷹取家からも参加者があることは聞いているけど、誰が来るかまでは知らないからだと説明したが、あまり効果がない。

「といいますか、主旨はなんなんですか? あれ」

 ……またみんなで沈黙。でも、今度は表情が違う。沙耶と理恵はお互いの顔を見合わせて、だんまり。対照的に弓子はにやにやしている。

「4月のお花見から2カ月だから、またどうかなってことでしょ確か」

「それでなんで弓子さんはにやけてるんですか?」

 ふふふ、としなを作って笑う弓子。色っぽいというべきか、不気味というべきか。

(何かあるな、これ……)

 時間が来た2人の後ろ姿を見送りながら、疑念を深める隼人であった。


5.


 夕方、沙耶の姿は北関東のとある温泉宿にあった。

 ふと思い立って浸かりに来たのでもなければ、放浪癖があるわけでもない。鈴香の発案だった。

『どうせ懇親会にはみんな出席できないんだし、温泉行きましょう。どうですか?』

 明日、鷹取屋敷で開催される『あおぞら』スタッフとの懇親会。それに、沙耶たち東京組は呼ばれていないのだ。

 先に到着していた沙良、優羽、瞳魅と部屋で合流し、ひとしきりお茶とお菓子でおしゃべりしたあと、大浴場に向かった。

 身体を流してからゆっくりと温泉に身を沈めると、冬ほどではないが、ほっと心が落ち着くのが分かる――のも束の間であった。

「優羽、はしたないからやめなさいよ」

 でろぉんとはしたなくも伸び伸びと、優羽がお湯に浸かり始めたのだ。お風呂の縁に両肘で身体を支えて、発育過多の肢体が丸出しである。

 おしとやかに浸かる瞳魅からたしなめられても、反論まで伸びきっている。

「なぁんでぇ? よそ様もいないしぃ、泳ぐわけじゃないしぃ、いいじゃぁん別にぃ」

 だが語尾は、風呂の底で発することになった。瞳魅をからかうようにゆらゆらと身体をくねらせたら肘が滑り、後頭部を角で打つのをおまけに湯中に潜水してしまったのだ。

「小学生かよ」「ほんと、よそ様がいなくてよかったわ」「はしたないを通り越して汚い」

 しばらくもがいたのちようやく湯中から励起したチチお化けは、眼をむいて叫んだ。頭を包んでいたタオルまでほどけて、まさにお化けのようである。

「助けてくださいよ!」

「今度からそうするわ」

 沙良が肩に湯をかけながらしれっとのたまう。

「目の前で土座衛門が出来上がるのも気持ちのいいもんじゃないし」

 そこへ、琴音と鈴香が入ってきた。その遅刻の謝罪も遮って、沙良が手招きの仕草をする。

「琴音ちゃん、こっち」

「はあ……なんでしょうか?」

「いいから。ああ、鈴香ちゃんはあっち」

 誰もが首を傾げる選別の理由は、実にくだらないものだった。ふくよかか、ほっそりか。それで分けただけだったのだから。

「沙良様、一言よろしいですか?」

 いくら相手が年齢33倍余の伝説の巫女といえど、ツッコみたくなるのは抑えきれない。

「あなたも小学生ですか?」

「というかですね――」

 瞳魅と琴音も苦笑いだ。二人で顔を見合わせたあと、

「こっち、海原なんですけど、そこはいいんですか?」

「別にいいもん。分家したのは承久の乱の時じゃん」

 沙良が鷹取家を追放された時は分かれてなかったんだからという理屈だろうか。

「それにわたし、もうすぐ育つから」

「集めておいて裏切り宣言ですよ、琴音ねえさま?」

「……もしかして、酔ってます?」

 沙耶が部屋に到着した時はもうすでに空き瓶が5本ほどあったと教えていると、突然優羽が膝立ちで、オーバーアクションまで加えて叫び始めた。

「ふはははは、沙良様まで加われば、圧倒的ではないか我がバインバイン軍は!」

「……自分で言うかな」とこめかみを揉む鈴香に笑いかける。

「まあ言えるだけの質量はあるわね、優羽ちゃんとあなたは」

「ううう、わたしを混ぜないでくださいよ……」

 それは無理というものだ。隠れ巨乳はお風呂では――急いで身体ごと反転しようが――隠れようがないのだから。

 一方で、瞳魅と琴音の呆れた台詞は珍しく揃った。普段は気にしない子たちだが、こうあからさまだとさすがに引くのだろう。

「調子に乗ってると、後ろから撃たれるよ? 妹に」

「へっへーんだ! うちの妹は紫ババアじゃないから大丈夫ですぅ」

「誰がババアだぁ!」

「いやぁん鷲掴みしないでくださぁい!」

 本当に、よそ様がいなくてよかった。くだけ過ぎな会話とアクションに、心からそう思う沙耶であった。



 外をしょぼ降る雨を眺めながら、お酒をいただく。未成年組はジュースとお菓子では間が持たないのか、有料チャンネルで映画を見ている。

「理恵ちゃんも来ればよかったのにね」

 そうつぶやく沙良のろれつはかなり怪しくなっている。

「予定があるって言ってましたし、無理強いはしませんでしたよ」

「予定、ねぇ」

「琴音ちゃん、なにか知らない?」

「まるでわたしが内偵してるみたいに言わないでください」

 琴音の否定は、半分ウソだ。彼女はしていなくても、彼女の母親はしている。それは一族のイメージを守り、外部からの侵食を――それが悪意であれ善意であれ――防ぐための必要悪であり、最低限の節度を守って為されている。

 そしてそのアレコレを、確実に娘は聞いている。それを指摘ついでに理恵の話をしようとしたが、沙良の発声のほうが速かった。

「沙耶ちゃん、隼人くんの働き具合はどう?」

「か、神谷君ですか?」

 特に目覚ましくもなく、ミスも無くという働きぶりだ。突然の質問になぜかドギマギしながら考え出した結論がそれだった。

 ふんふんと聞いていた沙良が、何かを思い出すような仕草をした。

「じゃあレポートは、えーと誰だっけ、弓子ちゃんだっけ? あの子に頼めばいいね?」

「ユミちゃんに? レポートってなんですか?」

「親族寄合に提出するやつよ」

 琴音と鈴香が相次いで手を打った。

「ああ、隼人さんを『あおぞら』に就職させるって計画の」

 沙良はお猪口をくいっと傾けると、しなだれた。

「うふふ、そうそう、私への永久就職もセットで」

「それ本気なんですか?」

 思わず疑問が口を突いて出てしまった結果、沙良に横目でにらまれることになってしまった。

「もちろんよ。田所優菜には負けないわ」

 ここで、琴音の眼がキラリと光り、黄色い手帳が登場する。

「現状をご説明しましょうか? 沙良様」

「ええぜひ。ていうか、胸元から出てきたけど……」

「丹前の袖に入れるのって、重たくなるじゃないですか」

 自分もお猪口を傾けながら手帳をペラペラとめくってしばらく、琴音が口を開いた。

「現状では、四番手ですね。沙良様は」

「ぬわにぃぃぃぃぃ!? 誰よ前で邪魔してんの?!」

「先頭を逃げてるのは、もちろん優菜さんです。二番手は、沙耶様」

 まったく予想だにしない対抗指名に、思わずお酒を吹き出してしまった。手近な手拭いで口を拭きながら異議を唱える。

「ちょ! ちょっと待って! わたしはエントリーしてないじゃない!」

「いえいえいえ、いつもタカソフでお昼一緒に食べて、まんざらでもない雰囲気だって報告が来てますよ?」

「そんな印象論でエントリー扱いされても……」

 一緒にいると和むことは確かだけれど、だからって……ていうか、報告?

「ユミちゃんね……」

 追及含みのつぶやきはさっくり無視されて、

「で、三番手は美玖ちゃんで、沙良様っていう順番――「異議有り!」

 映画がちょうど終わったのだろう、テレビ画面に流れるエンドロールを背景に、優羽が勢いよく手を挙げた。

「美玖ちゃんout、あたしinで」

「競馬からサッカーに変わっちゃった……」

 鈴香のコメントにみんなでクスクス笑っていると、テレビを消して、瞳魅がヤレヤレ顔で振り向いた。

「あんた、全然相手にされてないじゃん」

「負けないもん! 沙良様だって相手にされてないもん!」

「大丈夫よ! 塾生活で育んだ愛があるんだからァ!」

「まるでわたしが相手にされてるかのように言わないで」

 と沙耶が訂正を繰り返したところで、鈴香が手を挙げた。

「隼人さんがどの人に好感触なのかで予想するもんじゃないの? これ」

 押し黙った一同の中で、ペラペラとまた手帳を繰る音がする。やがて、琴音は溜息をついた。

「そういう意味でも、順位は変わらないですよ?」

「また、もぅ」

 再び鈴香。持参のテキーラをトポトポとドンブリに注ぎながら、

「琴音もいろいろ褒めてもらってんじゃん?」

「あなたとセットでね」

 その時、瞳魅が含み笑いを始めたのを、沙耶の耳は聞き逃さなかった。視線を向けると、さっきからのヤレヤレ顔は変わらない。

「隼人さんがこの会話を聞いたら、どんなコメントするかなって思って」

「たぶんあなたみたいな表情するわね」

 そう答えて、疑問が湧いた。

 どうしてわたしは、そう断言できるんだろう。

「ていうか、違和感なくこういう場に混ざりますよね、あの人」

「白水晶の影響だけじゃなくて、女の子慣れしてる部分も大きいと思うな、あたしは」

「そういう意味でも、職員として取り込みたいのよね」

「ヨコシマ感バリバリですね……」

 親族たちの会話を聞き流しながら、平穏を感じる。去年の今頃はまだ、自室で独り蟄居していたのだから。

 まあ、いいか。

 沙耶はチロリからお酒を注ぎ直して、ゆっくりとあおった。なんとなく釈然としない感情を流し去るために。

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