第3章 悪友、あるいは世話焼きのトリックスター
1.
隼人が見上げたビルは、予想に反してこじんまりとしていた。鷹取系の企業だからといって、立派なビルに入ってるとは限らないようだ。
それでも入り口には『有限会社 タカトリソフト』という立派な看板とガードマン、それに受付嬢がいて、気安く入れる雰囲気ではない。当たり前なんだけど。
受付で名前を告げると、話が通してあったらしい。
「えーと、応接室はと……」
中へ足を踏み入れてきょろきょろしていたら、声を掛けられた。
「もしかして、神谷隼人君?」
横のブースから出てきたのは、妙齢の女性だった。
沙耶と同年くらいか。栗色のボブカットに愛嬌と色気のある顔立ちで、カットソーとジーンズのざっくりした着こなしは、よく似合っている。
そう、ざっくりしすぎである。朝から目の保養だな、と思えるくらい。なぜなら、胸の谷間を惜しげもなく見せ付けるような襟ぐりなのだから。
かなり豊満なそれは優羽には及ばないものの、顔も含めた全身から醸し出す艶やかな雰囲気と香水の香りもあいまって、クラクラしそうなくらいだ。
女性はにっこり笑うと、手を差し出してきた。
「タカソフへようこそ。初めまして。仙道弓子です」
柔らかい手を握り返して、
「センドウ……」
どこかで聞いたような苗字である。
すぐにヒントが彼女から出た。
「同じ苗字の女に会ったことあると思うけど? おフランクからのお客さんが来た時に」
おフランク……センドウ……
隼人の記憶は、目の前の女性の容姿で確定した。
「ああなるほど、主任参謀さんの」
「今、どこを見て結論付けたのかなぁ?」
「そりゃあもう、その立派なお胸で」
正解の印は、すねの痛みだった。
「エッチねぇもぅ」
蹴りも非難も軽い。その手の冗談が通じる人だと踏んだが、正解だったようだ。
その時、背後で咳払いがした。振り向くと、今度はいかにもキャリアウーマンといったいでたちの女性がにらんでいる。
銀縁のメガネにダークスーツというお堅い印象は、ややふっくらとした顔立ちと垂れ目で中和されていた。そして赤黒いロングストレートの髪から、
(鷹取家の人だな)
「神谷君、応接室に行きなさいって言われなかった?」
「ごめんね理恵ちゃん、あたしが引き止めちゃったから」
またね。そう言って手を振る弓子を置いて、連行されていったのであった。
人事担当の男性に軽く面接されたあと、隼人は下の階に設けられている一室に案内された。
そこは、隼人にとってある意味慣れた匂いに満ちていた。
「うおお、古文書だらけだ!」
人事担当の笑い声に構わず、手近にあった冊子の表紙を眺め、解読を試みる。
「眺めてないで開いてみたら?」
「いえ、手袋持ってこなかったんで。どこかにありますか?」
前のバイトが残していったものを借りて、
「それで、これの読み下しがバイトっすか?」
「あはは、そういえば日本史専攻だっけ? 残念ながら、機械的作業だよ」
奥の壁に添って設置してある大振りな機械を指差された。あれで古文書をスキャンし、デジタルアーカイブ化するためのデータを作成すること。それがバイトの内容だった。
「なんか、IT企業っぽくない仕事っすね」
「いやいや、これもITさ」
デジタルアーカイブを全国の鷹取家で共有する計画の第一段階なんだから。人事担当はそう告げると、メガネをずり上げた。
「ところでさ、キミ」
「はあ?」
「弓子ちゃんと知り合いなの?」
今日が初対面だと言って首を振ると、いぶかしがられた。
「そうか……おかしいなあ……」
このバイトの監督に志願してきたらしい。まったく身に覚えがないが、美人と触れ合うのは臨むところである。つか、俺一人しかいないのに監督って。
「監督される意味あるんすかね?」
「前のバイトがね、だらだらやり過ぎてクビになったのよ。だから、監督するの」
あれから1時間ほどして部屋に来た弓子は、手を振るう仕草をした。鞭を振るっているつもりらしい。
「さあ、キリキリ働けぃ!」
ははーっとかしこまって、作業を再開する。作業手順はマニュアルを読んだし、そんなに複雑な作業でもない。しかも、重要な文書や貴重なものは、専門の業者がやってるとのこと。
だから、本当に機械的作業なのだ。
もちろん、だからといって史料を雑に扱うことはしない。彼は日本史学専攻。史料の扱い方は実習で身についている。
しばらく無心で進めていたら、ふんわりとシトラスの香りが近づいてきた。
「ふーん、意外に丁寧ね」
「意外ですか?」
「ガタイがいいから、もっとガッガッとやるかと思った」
笑って、我慢する。横からのぞき込んできた弓子の胸の谷間をのぞいて、手元が狂わないように。
「あの、仙道さん?」
「弓子でいいよ」
「弓子さん、暇なんすか?」
微笑むと、えくぼができた。
「大丈夫、ここで仕事できるし」
彼女が指差す先にはパソコンが置いてあった。
「それにね――」
「はあ」
「沙耶ちゃん助けるために自爆した男って、どんな人かなって」
驚きで、危うく史料を取り落とすところだった。
沙耶と大学で同期だったらしい。姉もああいう職業だし、鷹取家の家業についても知っているのだろう。
その話を振ると肯定されたが、注意もされた。
「ここの会社の人、理恵ちゃん以外は事情を知らないから、気をつけてね」
そのあと、自爆した時の感じとか理由とか、先日沙耶やボランティアスタッフにも訊かれたことを繰り返された。
「ふーん、あたしには理解できないな」
「まあそうですよね」
「あたしなら、逃げるな」
驚きの目で、しれっと言ってのけた弓子を見つめる。
「沙耶さんを置いてですか?」
「ううん、引っ張って」
相手は沙耶の抹殺が目的なんだから、逃げればいいじゃない。そうこの親友はおっしゃる。
「いやその場合、残された人たちがいたぶられたり人質に取られたりするんじゃ……ていうかその、男の人もいるわけで……」
「男? ああ、オサなんとかさんか」
知っているような、いないような、微妙な感じだ。重ねて尋ねると、大学時代に会ったことはあるらしい。
「あたしはね、ストライクゾーンから外れてる男に割く記憶容量は無いの」
「なるほど……あ、じゃあ俺のことは記憶の片隅に引っかかってたということで」
そうそうとうなずいて、弓子はこちらを品定めするような仕草をした。
「んー惜しいなあ」
「何がですか?」
「ちょっと高めに外れてるんだよなぁ」
「それは残念」
と笑って、ぎょっとした。いつのまにか半開きになった部屋の戸から半分だけ顔を出して、沙耶が見つめていたからである。
「あの、なにしてんすか? 沙耶さん」
おずおずと入ってくる沙耶。自分の会社なのに、妙に慎重だ。その顔は弓子に向けられた。
「監督はくっちゃべる仕事じゃないと思うけど?」
「もーヤキモチ焼かないの」
「妬いてない!」
プリプリしながら、沙耶はイスを探して座った。手にしていたビニール袋を掲げる。
「お昼一緒に食べようと思ったけど、働かざる者食うべからずよ?」
「! じゃああと30分、キリキリやりますか」
隼人は弓子を促すと、史料のスキャンに専心した。
2.
その頃、ソフィーは伊藤家を訪問していた。臨月を来月に控えた伊藤の妻・絵里に会いに来たのだ。
時折訪問するよう、主君であるアンヌ・ド・ヴァイユーから依頼されていることもある。家計の苦しい伊藤家をそれとなく援助するようにとも。
後先省みず子供を作るというのは、アンヌの性分からは考えられぬ所業である。もっとも、しょせんは他人の色恋と人生。口出しするつもりはないのだが。
絵里はやや痩せていた。つわりがひどく、あまり食べていないようだ。
「これでも人と会う気になったんだから、元気になったほうだけどね」
そう言って、水を飲んでいる。
「そういえば、名前は選びましたか?」
先日届けたアンヌの手紙には、生まれくる子の名前候補が記されていたはずなのだ。
「それがさ、旦那が悩んじゃって」
「……気に入らなかったと?」
絵里は笑って手を振った。
「やっぱ子供の顔を見て決めるって言って、次の日にはやっぱあれにしようかなって決めかけての繰り返しなんですよ」
なるほど、そういうものか。ソフィには新鮮な話である。彼女の家は伯爵家の傍流も傍流で、一族とみなされないほどだ。それでも代々伝わるファーストネームの候補が15はあるのだから。
「それにしても、ずいぶんくだけた候補ばっかりでビックリしましたよ。あれ、お嬢様が選んだんですか?」
「ほう、そうだったんですか。いや確か、『日本人の名前はよく分からない』とおしゃられましてね。姪御さんに選んでもらったはずだから」
ちょっと嫌な予感がしたが、見せてもらった手紙の文面でそれは的中した。なんというか、
「アニメのキャラっぽい名前が並んでますね……」
「あ、やっぱり?」
また水を飲んで次に絵里が吐いた言葉は、ソフィを動揺させるに十分なものだった。
「そういえば見ましたよ? このあいだ」
「? どこで?」
都内のレストランの名を告げられて、汗が噴き出した。
「イケメンじゃないですか、彼氏」
「か、彼氏じゃないです! 大使館でいろいろと世話になっているから、お礼にですね……」
「へー」
妊婦のニヤケ顔は止まらない。
「フランクではお礼にハグしてあげるんですか。へー」
隼人にメールしようとする絵里の手を掴んだ。
「なぜあの男に!」
「んー、ソフィさんに恩を売るとハグしてもらえるよ、って」
「Non! Non! しません!」
「で、お式はいつ?」
「できません!」
叫んで、胸が苦しくなったソフィはうなだれた。
「結婚は、できないんです……」
「まさか、お嬢様のお許しがないとだめとか?」
違う。もっと深刻な問題なのだ。
ヴァイユー一族もその家臣も、ヒトとは結婚できない。天使の末裔としての血に、ヒトのそれを混ぜることはご法度なのだ。
ご法度は、概念的なものではない。現実である。すなわち、子は鳥人への変身能力を失ってしまうのだ。
そう説明すると、なぜか首を傾げられた。
「てことは、家臣じゃなくなっちゃえばいいんでしょ?」
「それはそうですが……」
実は、これは一族に昔から存在するジレンマなのだ。
かつてヨーロッパの王侯貴族には、外交政策上の観点から、あるいは自家の勢力の伸張という点から、他国の権門と婚姻関係を結ぶ必要があった。それができず、世界の護り手から婚姻相手を選ぶしかなかったヴァイユー家は、権力争いに加わることができなかったのだ。
現在、権力争いからは解放されたが、『禁断の恋』という果実は残った。ゆえに一族を抜ける者が何年かに1人出る状況である。
そしてそれは、もはやフランクにはいられないという意味である。
目の前の日本人に説明しているうちに、憂鬱になってきた。
彼のことは、大切に思っている。何年か振りの恋ということもあるだろう。
だが、一族を抜けるということは、アンヌを――ただでさえ家中で孤立しがちなあの方を置き去りにするということになるのだ。
暗い表情になったソフィを気遣ってくれたのだろう、絵里は淹れ直したコーヒーとともにお菓子を持ってきてくれた。
「いろいろ束縛されるのって、難儀だよね」
「あなたは、その、束縛されていないのですか? その……」
ソフィ、いや、伯爵家と絵里には浅からぬ因縁がある。7年前、恋人とともにオーガ――誰が放ったものかはもう分からないが――に襲われた彼女は恋人を亡くし、当時お腹にいた子も流産したのだ。
「ふっふっふ」
「……なんですか? 気味の悪い」
「それを言い出すのを待っていたのよ」
絵里の目が妖しく光る。
「コーヒーのお味はどう? さっきより苦くない?」
「! まさか!?」
中身が半分ほどに減ったコーヒーカップを見つめ、愕然とする。
「そうよ、束縛されるのよ。人は。いいえ、ヒトじゃないあなたも。過去に、がっちりとね」
イスを蹴立てて飛び退り、奇妙な笑顔の絵里から距離を取る。めまいがしてきた。アンヌ様に伝えねば。
「ふっふっふ。無駄よ」
「黙れ! あ、ああ、このままでは……あれ?」
めまいから先が起こらない。手はしっかりとスマホを握り締めたままだ。というか、かゆい。これは……!
「無駄だって言ってるじゃん。伝えるの。だって――」
絵里は笑い出した。悪戯が成功したという爽やかな、笑顔で。
「ただのセロリ汁入りコーヒーなんだもん」
妊婦の言葉を理解するのに、3秒もかかってしまった。
「セ、セロリ……」
そう、彼女には大嫌いなセロリに関する苦い過去があるのだ。幼少時、母親に毎食嫌々食べさせられ、ある日蕁麻疹が出るようになってしまったという。
「ね、ね?」
絵里の笑みがまた妖しくなる。
「お嬢様の苦手な食べ物って、なに?」
3.
お昼の弁当は、割と豪華なものだった。
「隼人君、嫌いなものないの?」
「ないです。そんな贅沢言えません」
そりゃあ、美味しくないなと思うものもある。でも、ちゃんと栄養を取らないと。
弓子が感心したように言った。
「なるほどねぇ、それだけでかくなるには食べないとね」
「弓子ちゃん、好き嫌いと体格はあまり関係が無いわよ?」
そう言いながら上品な箸遣いで口に運んでいるのは、理恵だ。予想どおり鷹取一族で、沙耶より6歳年長の彼女は、沙耶の秘書として長く働いているという。
(こんな美人でも独身か……)
やっぱり、あの呪いと疫病神の工作はかなりのハンデなんだな。三十路の女性を目の当たりにして、改めて思う隼人であった。
そんな隼人の足を軽く踏む者がいる。弓子だ。
「なんすか?」
「理恵ちゃんは面食いだから、狙ってもダメだよ?」
「それはまた、なんというか……」
さらに自分からハンデ付けてるんすか? そう言いかけて飲み込んだが、幸い気づかれずに済んだ。
「別に面食いじゃないわよ」
「いやいや謙遜謙遜」
お茶を飲んだ弓子の口が三日月形に歪む。
「あたし主催の合コンで、何人お持ち帰りしたっけ?」
言葉に詰まった理恵は、雇用主に話題を振って逃げた。
「社長? どうかされたんですか?」
やはり上品な手つきで弁当を口に運んでいた沙耶は、さっきから一言も発していない。その表情はどことなくむくれているように見える。
「別に」
それを見た弓子が、隼人の袖を引っ張ってきた。
「ほらほらバイトくん! シャチョサンにサービスサービス!」
「イヤリング、お似合いですよ」
「対応速いわね」
呆れる理恵の隣で、沙耶はそっぽを向いてしまった。でも、ちらちらこちらを見てくるところをみると、まんざらでもないのか?
「ラフな格好の人が多いから、スーツって大人っぽくっていいですね」
さらにサービスに努めると、ここで横槍が入った。弓子がカットソーの胸元を引っ張り始めたのだ。
「ラフかなぁこれ?」
「いや弓子さんのそれはラフじゃなくて、あられもないってやつですよ」
「……そう言いながらさりげにのぞき込んでるし」
つぶやいた沙耶の目つきが剣呑になり始めた。握り締めた割り箸が、ミシミシ音を立て始めてる。
「んもぅ、エッチ」
「え? シャチョサンへのサービスじゃないんですか?」
「そんなわけないでしょまったく」
理恵はクスクス笑いながら空の弁当箱を片付け始めた。沙耶はまだじっとりしている。
(なんつーか、アドリブのきかない人なのかな……)
隼人も弁当箱を片付けながら、沙耶への釈明を考え始めた。
「まったく、ユミちゃんたら……」
取引先に向かう車内で、沙耶はまだブツブツ言っている。それが妙におかしくて、理恵は頬を緩めた。
「ま、沙耶ちゃんには無理よね。お色気攻撃なんて」
「理恵さんだって」
窓の外へ吐き出すようにつぶやいて、沙耶はそっぽを向いてしまった。
その姿を眺めるともなく眺めて、理恵の意識は思索に沈んだ。
アルバイトに男性を、しかも沙耶自ら推薦してきた時は驚いた。事情を聞けば仕方のない措置と思ったが。
そして、なかなかに物慣れた学生であることにも驚いた。
(というか、女慣れしてるわね、やけに)
まああのボランティアでただ一人の男性フロントスタッフなのだから、それも当然か。
そして、これはチャンスだと思い至る。沙耶に男慣れしてもらうための、第一歩として。
(時間に余裕はないけど、長壁氏も今のところ女性の影は無いようだし)
かの男性は沙耶に釣り合うだけの経歴の持ち主として、一族内でも知られつつある。だが、問題はそこじゃない。鷹取一族は結婚相手を経歴や家格で選べないのだ。
そもそも、沙耶はどこまで本気なのか。
少しだけ迷ったが、結局尋ねてみることにした。
「例の方とは進展がありまして?」
「……それ、仕事とどういう関係があるの?」
「秘書として、社長のスケジュールを勘案するためです」
女性としての興味を隠しきれただろうか。沙耶はチラとこちらをにらんだだけで、うつむいた。
「何も。このあいだの事だって、話題にも上らなかったし」
それはおかしい。理恵はそう言いかけて、口をつぐんだ。盗み見た沙耶の手は、固く握り締められていたのだ。
報告では、かの男性は沙耶を護るように動いていたはず。何かが引っかかっているのか。あるいは沙耶からの言い出し待ちなのか。
(琴音ちゃんに調べてもらうか……)
気まずい沈黙を載せて、車は取引先へと近づきつつあった。
4.
その長壁は講義を終えて、颯爽と教室を出たところであった。ゼミの控室へと向かう道すがら、学生が並んでくる。たわいもないおしゃべりをしながら到着した控室に、長壁は断裂を認識した。
ぱっと見は、仲の良い学生同士が固まっておしゃべりをしているようだ。しかし、実はそうではないのだ。
その分かれ方の意味も、認識している。
あの日の記憶があるか、無いかの違いである。
それは、あんなことがあったにも関わらず、その記憶が無い学生が多数いるとの訴えで判明した。訴えてきた学生に確認してもらったところ、あの場にいた学生15人のうち、実に12人の記憶がないことが分かり、記憶を持つ長壁たちを震撼させた。
なんとなれば、あの飲み会関連のメールやSNSでのやりとりが、全て消滅しているのだ。超常的な力が働いているとしか思えなかった。
超常的な力の記憶。それを思い出さずとも震えが来る、この身体に刻み込まれた恐怖。
咆哮を上げながら追ってくる異形の生物の狂気に満ちた眼。それはあの生物を操っていると思しき女性も共有していた。
彼女たちの目的がどうやら沙耶の身にあるらしいことが分かり、沙耶を護るために立ちはだかったためか、その狂気は長壁の精神を苛み続けたのだ。
朗らかにあいさつをして、学生が淹れてくれた紅茶に礼を言って。適当なイスに身を沈めた長壁は考える。あれ以来考え続けて、いまだ答えが出ない事柄を。
なぜ、沙耶はあれに狙われていたのか。
どこかから飛んできて、沙耶と自分たちを護ってくれた長身の女性。あれは一体何か。
光と轟音とともに全てが終わり、長身の女性が姿を消した後、似たような格好の、こちらは小柄な女性が飛んできた。そして――
気がつくと、名前を呼ばれていた。我に返った長壁に、学生が心配そうな声を掛けてくる。
「体調悪いんですか先生? すっごい震えてるけど」
大丈夫と答えて、冷めかけた紅茶をぐいっと飲み干す。程よい温かみが胸の中を暖めていくのに安堵して、鼻から息が漏れる。
そして、
「君たちは平気なのか?」
と思わず訊いてしまった。
きょとんとした学生は、にっこり笑った。
「よく分かんないですけど、元気ハツラツです!」
「柚亜はいつもそうじゃん」
友人の混ぜっ返しに言い返す柚亜を見るともなく眺めながら、長壁は心の中でつぶやく。
深く考えるなんて発想自体が無いお気楽学生め。
そうではないと自負する彼は、笑みを顔に張り付かせたまま沈思した。
沙耶に事情を聞くべきか。そう考えて再来した震えを自覚せず、考え続ける。これは、彼の未来に関わることでもあるのだから。彼が彼女と未来を共にするために、ではどうするかを考えねばならないのだから。
思考に没入した長壁は、学生たちが遠ざかったことも気づかず、ゆえに彼女たちがしていた約束も聞き逃すことになる。
5.
夕方。沙耶は家に帰り着くと、大きく息を吐いた。執事のあいさつにも力なく応えて、自室へとぼとぼと向かう。
「ほらほら、走っちゃダメ!」
突然、廊下の曲がり先から鷹取美玖の声がしたかと思うと、数秒遅れて姿を見せたのは、
「夕真君、ただいま」
兄の息子、夕真だった。突然現れた(と思った)沙耶に目を丸くしたが、すぐに笑顔になると、2歳児特有のちょこちょこした足取りで駆け寄ってくる。
沙耶の脚に抱きついてきゃっきゃと笑う甥を抱き上げて頬ずりしていると、美玖が追いついてきた。あいさつを交わして、まず2人を送ることにする。
兄一家が住んでいるのは母屋だ。鷹取財閥の総帥として、来客を迎えるにふさわしい建物である。ここからだと歩いて5分はかかる。
「よくここまで歩いてこられたわね、夕真君」
「えへへ、行きはわたしがおんぶしてきました」
褒めるとともに、姪の成長を実感する。鷹取の巫女としてのである。小学3年生が2歳児を背負ってきたのだ。それは巫女として、その力の負荷に耐え得る身体能力がついてきているということの証である。
ふと気がつくと、夕真が両手を突き上げて叫んでいた。沙耶の顔を真っ直ぐ見て何かを訴えているのだが、さっぱり分からない。
美玖が笑い出した。
「高い高いをしてほしいんですよ、叔母様に」
「ああ、そう。ごめんね、また今度、お外でね」
苦笑いとともに謝って、また頬ずりをする。以前自室の居間で高い高いをしたら、喜ぶ声につい力が入って、天井に叩きつけてしまいそうになったのだ。
母屋の一室では、母親の加奈恵が夕食の準備をしているところだった。
「あら沙耶ちゃん、ごめんなさいね」
召使とともに忙しく立ち働く義姉を邪魔しないように――
「似合うなぁ、お前」
「それどういう意味ですか? お兄様」
珍しく、兄の隆俊がいた。ソファの上でタブレットを操作していた手を止めて、こちらを見てニヤニヤ笑っている。
4つ上の兄は、正直なところ苦手だった。犬猿の仲というほど悪くはないのだが、わざわざ母屋に出向いておしゃべりする仲でもない。
それは一つには、妹に対する言動がシニカルなことが大きいのだろう。なにかと絡んできて、こちらも応戦する。我が家の恒例行事である。
「他意はないよ。似合うから似合うって言っただけだ」
加奈恵が美玖を呼んでいる。
「おばあ様をお呼びして」
それを聞いて、夕真がぐずりながら沙耶の腕から抜け出そうとし始めた。
「ああ、僕も行きたいの? はいはい」
「ほら夕真、行くよ」
仲良き姉弟の後ろ姿を見送って、はたと気づいた。兄と二人っきりになってしまったことに。
義姉を手伝いに行って、逃げよう。その試みは、残念ながら遅かった。兄が先に口を開いたのだ。
「うまくいってるのか?」
「? 何がですか?」
「えーと、ほら、オサなんとか君」
「長壁さん」
「ああそうそう、長壁さん君。どうなんだ?」
どうして一々煽りを入れるのだろう? 沙耶は指摘したい衝動をぐっとこらえて、食堂へ行きがてら横目でにらんだ。
「別に。今のところ何も」
「ふーん」
考え込む素振りを見せる兄を無視すればいいのに、できない。上から見下ろす視線で促すと、兄はぽつりと漏らした。
「現場に居合わせたのなら、すぐに聞いてくるかと思ったんだが……」
「それは……私がまだ大学に行ってないから……」
うつむいて、今度こそ逃げた。兄の視線を背中に感じながら。
夕食を終えて、早々に自室に引き上げた。のろのろと布団を敷き、ばたりと倒れこむ。
母からも長壁のことについて尋ねられ、つっけんどんな返事をしたことがきっかけで口げんかになってしまった。二人の剣幕に夕真が泣き出したため終了したが、気まずい雰囲気を変えようとした加奈恵と美玖のおしゃべりに救われて、でもごちそうさまも早々に席を立ってきたのだった。
「お風呂にでも入るか……」
わざと声に出して、またのろのろと起き上がった時、部屋の戸がノックされた。
訪ねてきたのは、加奈恵だった。慌てて招き入れ、その心配げな顔に向かって頭を下げる。
「あの、さっきは申しわけありませんでした。せっかくみんなそろった夕食だったのに……」
加奈恵は微笑んで許してくれた。次いで眉を曇らせる。
「それを配慮しなきゃいけないのは主人とお母様のほうよ。気まずくなることが分かってる話題をわざわざ持ち出すなんて……お二人とも沙耶ちゃんのことが心配なんだろうけど、ちょっとね」
もっとも、お仕置きは済んだけどね。そう言っていたずらっぽい笑みを見せる。
「? お仕置き?」
「ええ、美玖がね、『お父様もおばあ様も、ひどいです! 叔母様は一生懸命がんばってるのに、茶化すようなこと言って!』って怒ったから」
母はバババカ、兄はオヤバカである。当人に怒られて、しゅんとなったのだろう。
しばらく当たり障りの無い世間話に終始したが、沙耶はあえて蒸し返すことにした。
「お義姉さんも、気になりますか?」と。
義姉は屈託が無かった。
「そりゃあ、ね。でも、なかなかねぇ」
「なかなかねぇ、って?」
冷めたお茶を飲み干して、義姉は腕組みをした。
「2対2とか3対3くらいでお食事でもすれば、人となりが分かるんだけど、私や主人が参加するのは、ねぇ」
「ですよね」
いきなりハードルを上げすぎだろうと思う。兄との同席は、さらにまずい事態――長壁がいる場での兄妹ゲンカ――を誘発しかねない。
「まあ、向こうが誘ってこない理由を探るべきかな」
そう言って、加奈恵は帰って行った。
「誘ってこない、理由か……」
私のアピールが足りないから?
それとも、彼にその気がないから?
ぐるぐる回って収まらない。沙耶はとりあえず入浴で気分転換するべく、部屋を出た。




