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9《お伽噺》

自分で書いておきながら、叔父さんのことを考えると凹んで過ごした日もありました。

どのエピソードを最後に持ってくるか散々悩んでようやくこの完結です。

9《お伽噺》


 病室の窓から見える山はまだ冬の色をしていて、寝たきりの病人に卒業シーズンの世間の空気は感じられない。雪の多いこの地域の春はいつも都市部より遅かった。

 好き勝手に育てたくせにいまさら私を見放すのか、と甥に真剣に睨まれたとき、なかなかせつない言葉を吐くものだ、と思った。育てた子に文句を云われているというより、恋人に不実を責められているような気分になる。大嫌いな兄にそっくりの人嫌いの息子が? 自分の空想がおかしい。

 笑い声をもらしていることに気づいて、唇をひきしめる。

 ああ、いけない。いつもこんな風に物事を楽しむ方向へ考えるから、あの子が真剣に僕を恨むのだ。……でもねえ、心底真面目に考えていては生きてこられなかったんだよ。世の中の大勢の人と同じように考えるには、僕の立場は世の中の大勢の人とはちょっと違っていて、価値基準を等しくしたら辛いだけだったと思うんだ。生きていることに絶望なんてしたくないのに。

「もしかしたら、僕の血族は才能があるほど長生きできないのかもしれないね。そのお陰なのかな? 僕は兄さんより十三年も長生きできたよ。あの子は......どうだろう?」

 か細い声で問うようにセツは、病室に現れた一人の客を見上げる。

 上着とバッグを左腕に抱えたスーツ姿の背筋の伸びた女性は、ソバカスの散った白い顔でベッドを見下ろす。能面に似た無機質な表情、しかし肩で切りそろえた茶色の髪は白髪の交じる部分もあるものの、少女のように真っ直ぐで艷やかだ。首の皺などから五十代後半に見える年齢の女性は告げた。

「……十九年間、ありがとう御座いました」

「義姉さんこそ、僕ら二人分の生活費を稼ぎ続けるのは大変だったろう、お疲れ様」

 労りの心を十九年間育てた甥とよく似た顔へ向ける。

「いえ、あなたのお兄さんの絵をいくつか手放してしまいました」

「義姉さんの物だよ。どう使われようが兄さんは本望だろうさ。お別れの挨拶に来てくれたのかな」

「そうです。あの子は来ていないのですか。もう付きっきりでいなければならない状態なのでしょう?」

 十九年前に同じ病気の夫を看取った女性の言葉だ。

「僕が断ったよ。……二十年近く一緒にいたんだ。してほしいこともなければ、何も云い残したいことなんてないから、タイミングのわからない最後に縛られなくていい、ってね。僕は兄さんより症状の進行は遅いみたいなんだ。あの子はこれからの人間関係を作っているところだよ」

「自分の苦しむ姿を記憶させたくなくて、あの子を遠ざけているのではないのですか、ユキトさんのように」

 下唇を噛んで押し黙る義姉の姿に、はじけるような笑みが返される。

「義姉さんが昔、云ったんじゃないか。『あなた、全然ユキトさんと似てない』って。僕は別の人間だよ。あいつにそんなに優しくしてやらないよ」

 三度目くらいに顔を合わせたとき、義姉は夫の弟をしみじみと不思議そうに眺めてそう云ったのだ。

「もう帰っていいよ。思い出すんだろう、兄さんのこと」

 義弟が気遣うと義姉は壁に立てかけてあった折りたたみのパイプ椅子を掴み、開いてしっかりと腰をすえた。

「義姉さん?」

「あなたが独りなら、私がもうしばらく付き添います。……舐めないで、辛い記憶でも、ユキトさんがそこにいたなら幸せな記憶です」

 かっこイイ、とかすかな声で冷やかしてから、じゃあ遺言でもしておこうかな、と軽口を叩く。

「覚えてる?『義姉さん、僕なんかに子供をあずけていいの? きっとろくなことにならないよ』って云ったこと」

 相手はうなずいた。

「ええ、私は『任せます』と答えたかしら」

「そうだよ。僕ははっきり覚えている」


「義姉さん、僕なんかに子供をあずけていいの? きっとろくなことにならないよ」

「任せます」

 二十六歳の独身男は呆れた視線を義姉へあてていた。

「投げやりだねえ……一応聞いておくけど、どんな人間に育てたいの?」

「あなたが良いと思うように育ててください」

「僕の価値観で育てるの」

「はい」

「いいわけ?」

 莫迦にして訊いたのに、告げるまなざしがひどく真剣で、不真面目な人間の顔から笑みが抜け落ちる。

「あなたを信頼しています」


 セツは自分がいつからかお伽噺の世界に入り込んだような心地がしている。ありふれた人間の一人のように現実の大地を踏みしめていたと云い切れるのは、父が亡くなる十四歳よりも以前のことだ。

 当時自宅の座敷で寝込みがちになっていた父は、ある日身体を起こして厳格な顔で兄を自分を枕元に呼びよせた。

 告げられたのは近々訪れる父の死と、兄と自分に受け継がれた病。もともと気難しく交流の少なかった父の死よりも、自分が父と同じ病気で死ぬという運命に思考が真っ白に飛び散った。

 ぽつりぽつりと続けられる父の説明に、思考は革靴の底で踏み砕かれる硝子片のようになっていく。痺れた動きでようやくそれらを拾い始める頃、隣に共通の運命を告げられた人間がいたことを思い出した。潰れそうな心を委ねるように視線を向けたそこで、なんの動揺も浮かばない美しい横顔を見る。

 こんなときでも感情を知らないような静けさで、兄は淡々と父から発症時期予測と病状を確認している。

 自分のように焦り困惑する姿を兄に期待していた。とっつき難い兄にも人間らしい凡庸な部分があるのだと安心したかったし、不安と混乱と緊張の分かち合いを求めていた。

 だが長いまつ毛が影を落とす怜悧な瞳は穏やかな思考に沈んでいる。

 なんでも知っているし、弟の自分が考えもつかない深さと広さでなにかを考え続けているいつもの兄の姿がそこにあった。

 兄とは、そもそも歳が離れていた。才能も頭脳もかけ離れていた。知識が正確で即座に明確な答えを返せる上に、こちらの状況も目的も予測され補足をつけられるので、問いかけると一往復で会話が完了した。思い込みなどは一言で訂正する。そんな調子だから話が続かない。

 くだらない会話のやり取りなど成り立たなかった。

 耳にした言葉は一言一句記憶するし、目にしたものは髪の毛一筋だって覚えている。何年後でも忘れない。誰かがピアノを弾いているのを見れば、習ったこともないのに指は器用に音楽を再現し、楽譜に書き起こすこともできた。ぞっとする。

 そんな兄を誇りもせず、嫌悪もせず、そんなものだと眺めていた父も兄と同質の人間だったのだろう。自分は家族に共感したことがないし、共感されたこともない。影の薄い母はそんな父や兄に静かにかしずくように生き、父の死の五年後に脳梗塞で他界した。

 いらだちと不満と不安を抱えて孤独に毎日を過ごしたセツは、優秀な兄の側で唇を尖らせそっぽを向いていた頃よりずっと卑屈にひねくれて成長し、とうとう捻れた性根が一周して明るく社交的な人格ができあがる。

 自分のような人間が幼子を預かるなんて莫迦げていた。ちゃんちゃら可笑しい。自分の身体に病の根が蜘蛛の巣のように張っているのに、他人を気にかけることなどできるだろうか。そんな人間を信用して子供を預ける母親がいるだろうか。

 現実感がない。ふわふわと靄を踏んで歩いている気がする。

 靄を踏んで幼子を育てる。

 大嫌いな兄の子供の手をひいて歩く。

 ――自分がどういう命の身体か忘れたのか?

 悟ったつもりで飲み込めずにいた感情が気持ちにひびを入れて、幼いヨシユキを作為なく冷たくあしらったこともあった。礼儀正しく行儀よくあろうと努めていた幼子が、奈落に落ちていくような顔をして、我に返った。

 間違えた。

 軌道修正。

 反省。訂正。

 大丈夫。

 大丈夫だよ、そう云い続けていれば本物になる。

 いつかと同じ笑みの抜け落ちた顔で死にゆく男が云う。

「義姉さん、僕という人格を信頼してくれてありがとう。愛した男の子供を預ける相手に、僕という人間を外さなかった。……僕は義姉さんの希望を叶えられたかな。僕は、あの子に単純な絶望だけは与えなかったつもりだよ」

 細い目がまるで菩薩のような義姉が云い含めるように再度しっかりと頷いた。


「ええ、あなたならきっと、そうでしょうとも」







 叔父が病を告げて入院する半年以上前のことだ。ヨシユキが玄関を通りかかると、庭に人の気配があった。

 庭掃除に出た叔父が近所の年配の婦人方から気軽に声をかけられて立ち話になることは多いが、普段なら叔父の声より響いて家の中にいてもゲートボールや自治会費や親戚の娘の嫁入りのことだと丸わかりな会話が、珍しく明瞭に聞きとれない。訝しんで耳をすましてみるが拾えるのは叔父の言葉ばかりで、叔父の声も相手に合せているのか控えめだ。

 ヨシユキは二階へ上がって窓からそっと庭を覗く。肩ほどの高さのブロック塀に肘をかける叔父の背中が、塀を挟んで立ち止まる人物と重なって誰が相手なのかわからなかった。黒髪と肩のあたりの服の柄だけが見えた。

 長話にはならず、相手がお辞儀をして叔父が軍手をはめた手をふる。門を横切るとき朱色のエコバッグを提げた横姿で着物の女性とわかった。ヨシユキの注意は即座に衣服の造形へ集まる。立ち上がった襟からなだらかな肩、脇の皺、黒の生地に小ぶりな淡紅色の牡丹、線画の小菊、紅葉の葉、無造作な白い半円のライン。生成り色になにかしらの地紋浮き上がる帯、とまで確認できたところで庭木に遮られた。気をとられて顔を確認していなかった。

「いちはちゃんだよ。着物好きな家政婦さん。トンネルの向こうのスーパーマーケットに醗酵バターが売ってるって教えたら、たまにうちの前を通るようになったみたいだよ」

 食事時に尋ねると叔父にそう教えられた。叔父はヨシユキの知らないところで、たびたび知り合いを増やし、歯科医院の待合室で隣り合った人や、バスをよく利用していた時期にその運転手など、付き合ってなんの得があるのかわからない人とも親交を深める。

 創作の材料として人の中身を覗いてみる他は、他人と一緒に過ごすことやその会話に価値を感じないヨシユキにとって叔父の気のしれない交友関係はいつものことなので、それきりヨシユキは興味を失い、叔父もなにかを話すことはなかった。


 その叔父が大事なことを前置きなく告げて家から去ったせいで、腹を空かせたヨシユキが雪の中を道路の端に座り込んでいると、白と灰色のドット柄の視界に何人かの人影が自分を避けて通り過ぎていく。傘をさした人影のひとつに淡紅色の牡丹と紅葉の柄を見た。

「あ……」

 思わず身体を起こす。それは黒いショールを羽織り、袖口と裾あたりにだけ見える。目を合わせると、警戒を滲ませる女性の表情。

 顔など知らない。彼女を知らない。だが一度見たものを私は間違えない。

 私は叔父の名をだし、彼女の名をだす。

 生きるために繋ぐために、必死に彼女を呼び止めた。








【終わり】


自分の頭の中にだけ存在したキャラクターを、消えてしまう前に紹介することができたとホッとしています。


投稿前の校閲がわりに読んでもらった身内には、一話だけ登場した「アリサト」さんが好評でした。

「叔父と甥のハートフル・コメディ?」とも云っていました。

「ハートフルボッコ・コメディ」じゃないかと思いました。

書いてる人間は「叔父」さんが一番でした。


気に入って頂けたキャラクターがおりましたら、教えて頂きたいです。

ヾ(〃^∇^)ノ♫


書いている内に気がついたこともあって、小説を書くというのは不思議な作業だな、と。

多くの人が避けたがる「老い」が「年寄りになれない」人にとっては幸福なのだと考えもしないで生きてきたものです。

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