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8《ウツギハライチハ》

今回短めです。

8《ウツギハライチハ》


 窓ガラスにステンドグラス風のシールを貼り付けた、いつの頃から営業を始めたのかわからない暗く古びた喫茶店で、いちははヨシユキの叔父と向き合ってお茶を飲んでいた。

 半年くらい前のことだ。

 店は小さく、窓際の二人はセピア色にくすんで車通りのある外からは目立たない。

 喫茶店が「飲む茶」ではなく「喫する茶」と書くのは、古くはお茶が喉を潤すための飲料ではなかったことに由来する。貴重な茶葉をごく少量の水分で淹れて、香りや味を空気と共に吸い込んで楽しむ。それを喫する、と云った。つまり煙草と同じような嗜好品であったのである。

 そんな古い時代の香りがする喫茶店には、いちはの着物趣味も馴染んでいた。

「小さなあの子を引きとったとき、兄さんとの似てなさが可愛くてねえ……。服のボタン一つ、自分ではめなくてすむように育てようと思ったんだよ」

 いちはは紅茶のカップをテーブルに置いて静かに眉をよせた。

「……それじゃ、生きていけないんじゃないですか」

「そうだよ」

「真面目に育てるつもりはあったんですか」

「あったよ。べったべたに甘やかして、一人じゃ生きていけない大人に育ててやろうと思った」

「……ひどくないですか」

 いちはの非難を、甥への同情を、心地よく受け止め男は笑う。

「僕にひきとられたのがあの子の運命だろうよ」


 いちはは料理の下拵えや床の雑巾がけなどで二時間の家事をこなしながらヨシユキに目を向けるとき、彼の叔父の言葉を思い出す。生活に関わる事柄への彼の不器用さのひとつひとつが、彼の叔父によって刻まれたものだった。陽気な変わり者の絵描きは、甥っ子をこの家に一人残してどうしたかったのか。

 庭にアトリエがある他は、多少ゆったり居住空間をとっているものの田舎の平均的な民家だ。だがこの家の中に入り、ヨシユキにそばによって来られるとき、いちはは自分が彼のために用意された道具のひとつだと感じる。自分にそんな役割をあてがった誰かの意図に不快になる。

 私は他人の人生の添え物ではない。

 私が父を亡くし母を亡くし、早くから他人の中で働いて育ってきた「空木原いちは」という一人の人間であることも、別の家で別の人間との生活があることも気にかけない心のありようが嫌いだ。

 雪の日に声をかけてきたのはヨシユキ本人だった。しかし彼が叔父の名前をだされなければ自分は足を止めなかった。

 先に知り合ったのは彼の叔父だ。行きつけのスーパーマーケットの果物売り場で、着物が珍しいからと話しかけられたのだ。

 平日の明るい時間に田舎のスーパーマーケットで買い物カゴを提げている三十代半ばらしき男性は、会社員ではない。白いシャツをラフに着て無造作な髪型をしているのは美容師とも違う。

「そのドラゴンフルーツって美味しいのかな?」と手元を覗き込んできた。

 内心戸惑いながら視線を向けると「気になってたけど、食べたことがなくて」と続ける。初対面でも年配の女性からならそんな風に話しかけられることもある。だが男性からはない。

「着物が気になって近寄ってしまって、驚いたかな。ごめんね、絵描きなんだよ、僕。珍しいものには目がなくてね」

 実際の年齢は四十五歳だとあとで知るその男性は、板についた笑顔でそう詫びた。そこそこ整った顔立ちで、話し慣れていて、警戒し難い空気がある。思い返してみれば、あれは最初から私を『近所の家政婦』と知っていたのだ。

「……ドラゴンフルーツは、贈答品くらい値段の高いものでないと美味しくありませんよ。この値段だと多分、西瓜の皮のような味です」

「あらら、果物の価値がないね。甘いものなら甥っ子に買って帰ってやろうと思ったのに」

 立ち話を続けていると、知り合いらしいお婆さんやおばさんから通りすがりに次々と声をかけられていた。レジに急いだかと思うと戻ってきて、買い終えた草餅を手渡して帰っていく人もいる。目の前の「セツ君」はどうやらご近所の人気者らしかった。

 きっとこんな風に交わした世間話の中で、着物姿でこの店に通う家政婦がいることを知ったのだ。そしてどの時間帯に買い物に現れるのかも。

 そうやっていずれ甥に必要となる人間に顔を繋いだ。


「いちはさんは私の叔父の見舞いに行きたいですか」

 雑巾を絞っていると、床に屈んで家事見学をしていたヨシユキが尋ねた。

 考えてみたが、それほど親しい間柄ではないといちはは思った。たまたまこの家の前を通って顔を合わせ、近くの喫茶店でお茶を奢られたことはあるが。

「見かけたら立ち話をする程度でしたから。でも、そうですね。こうしてご自宅に伺って仕事をさせて頂いているのですから、ご挨拶に行ったほうが良いかもしれませんね」

「いちはさん、叔父はもうこの家に帰ってくることはありません」

 感情の揺らぎの窺えない声が告げた。いちはは問うようにわずかに眉間に皺を寄せたが、間もなく理解した。

「ああ……そうなんですか」

「私の叔父のことを好きですか」

 ヨシユキは床の塵を摘み上げて弄る。

「話し好きな人ですから、一緒にいると賑やかですよね」

 いちははじっと凝視されて、問い直される。

「いちはさんは、叔父を、好きではありませんでしたか」

 なにか質問の方向を汲み取り違えていたことに気付く。人柄をどう感じていたかという意味ではなかったようだ。

 また少し考えてみて、いちはは答えた。

「私は私のことを好きでいてくれる人が好きです。だから、セツさんのことはそうでもありません」

 二十歳を越えて幼子のように身の回りのことを何もできない不遇な愛玩物が、ぽかんとしていた。






次回の最終話も叔父さん出張ってます。

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