7《自分のカタチ》
ヨシユキ画伯のイラストのイメージを入れてみました。
実際はもっと素敵な腕前のはずです。
7《自分のカタチ》
二階の作業部屋から指を組んだ腕を伸ばしつつ階段を降りてきたヨシユキは、頭の隅で仕事の進行状況を整理していた。
新しい注文依頼のメールは七件。完成したイラストが十五件、依頼主への未連絡も十五件。ブログ記事の読み込みを夕方までに四件済ませて、作業の区切りとする。
ヨシユキはインターネット上で個人で運営しているサイトにて数年前からイラスト制作の依頼を受けている。画像サイズは同一画像を印刷用に4000pixel×3000pixelとパソコン画面用に400pixel×300pixelにしたワンセットのみ。見本はサイトに何点か展示してあるものの、絵柄の指定は受け付けず、依頼主のブログなどウェブサイトに載せられた個人情報に目を通し、本人のイメージを簡略化した抽象画にする。
今日は謝罪のメールが一件届いていた。
『先日はすみませんでした。』
十日前に納品したイラストに即日苦情メールを送ってきた依頼主からだった。
ヨシユキが描くイラストはアートだと意識せず目にしたなら、模様や家紋のように見えるものだ。単純なパターンを繰り返し描くゼンタングルにも似ている。滲みやかすれを作らないのも特徴だった。なにを描いたのか一見わからないので、印刷して部屋に飾ったりポストカードにする他に、パソコンの背景や携帯電話の待受け画面に使用したり、Tシャツに印刷して着用する人間もいる。使用権や複製権を含めてデータごと渡しているので、何枚印刷しようが何に使おうが依頼主の自由だ。
購入動機の大半は作風への愛着ではなく依頼主の自身への興味だ。自分の心の形を目で確認したいと、ヨシユキのウェブサイトを知った人間は心理テストを受けるような感覚で注文する。注意が必要なのは、自己発信の情報は本人の「他人からこう見られたい」という補正が入ることで、本人もまた補正の入った理想の自分を自分自身だと疑わないことだ。
十日前の苦情メールの依頼主は、腹立ちが収まらなかったのか『目を疑いました』『あんなものは私の「本質」なんかじゃない!』『私の書いたブログが気に入らないからってお金払ってるのに嫌がらせするなんて』『こんなものは悪意に満ちたゴミです。お金を返して』などと同日の短時間に三通送信してきた。
ヨシユキはウェブサイトに注意書きとして載せた通りで他の対応はするつもりがないとメールを返した。この手のトラブルは久しぶりで、返答は今日までなかったわけだが。
『感情的になっていました。あくまであのイラストは「あなたから見た私」であって、私そのものではないのに。ムキになってしまってすみません。残り半分の代金も今日振り込みました。戒めとしてあのイラストはとっておきます。』
反省しているというより、「謝ることのできる自分」と「怒っていても良識ある対応をすることのできる自分」でいたいようだった。
ヨシユキが学業のかたわら趣味の延長でイラスト販売サイトを始めた頃、世の中の大半の人間が他人からの評価より自分を高く評価していることに気づかず、素直に本質を描いて代金の支払いを拒否されることがあった。たとえ補正の入った情報でも読み込んでいけば本質が形を現す。ヨシユキはそこに見えたものを描いただけだった。
『私はあなたのファンでした。サイトのトップページで見たような、刃物でできた雪の結晶のようで、繊細なレース編みのような、儚くて鋭いあんなイラストを描いてほしかった。大切に部屋に飾って毎日眺めて生活を頑張りたかった。』
美しく心地よいものを描いてほしいのならば、「本質」ではなく「理想」を選択すれば良かったのだ。中身のない自分を本心から賞賛してほしいなどと願わずに。そんな人間は多いものだが。
――お世辞はいりません。本当のことを云ってください。自分は本当のことが聞きたいんです。自分を傷つける嘘はいりません。自分を本当に褒める言葉が聞きたいんです。まだ誰も気づいていないこの自分の素晴らしさを探しだして称えてください――
人の心の動きの事実に気づいた以後は、注文時に予め『理想の自己イメージ』か『本質の自己イメージ』を選択してもらい、着手金として半金を振り込んでもらった上で作業に取りかかるよう変更した。ヨシユキの作業工程では、実際にデザインを考え形にする作業よりも、個人が発信した膨大な個人情報に目を通すのに時間がかかる。丸損のリスクは避けたい。金額も比較的手軽だった当初より高く設定した結果、元々ぽつぽつくらいだった依頼数は激減したが、高い金額のほうが慎重に注意書きを読むらしく、結果としてトラブルは減り、理想と本質の二枚を同時依頼する人間も現れた。
傾向として、理想の自分を選んだ依頼主はブログにヨシユキのイラストを飾ることが多く、自己の本質イメージを選んだ依頼主は人の目に触れないようにすることが多いようだった。
最初の三年ほどはそんな調子で学生アルバイトほどの収入にもならなかったが、ヨシユキのイラストを印刷したTシャツを着て撮った写真をネット上に投稿した人間が現れると一部で流行し、そこから徐々に注文が増えた。やがてこなせないほどの依頼数になったので、さらに代金を高く設定し直し、ほどよく落ち着いたいまでは、ヨシユキの収入は平均的なサラリーマンの年収をやや上回るくらいになっている。
お腹を空かせて台所へ向かっていたが、ふと磨り硝子の引き戸からさし込む淡い光がいつになく明るく感じられて、誘われるようにペタペタと玄関へ向かった。
誰も来るはずのない場所に立つ。
今日はいちはの通いの日ではないし、メグムもどこの大学へ進むと決めたのか知らないが連日のようにはやってこない。叔父の見舞いに行く日でもない。
妙に一人きりだと実感した。
鼻腔をなでる植物の香りに靴箱の上に顔を向けると、いちはが持ち込んだ楕円形の青い水盤から大胆に伸び枝が目に入った。小さな黄色い花を枝に整列させた庭のレンギョウだ。一輪一輪が剥いたバナナの皮のような形をしている。
ヨシユキには生け花のことなどわからないが、幅広い水盤のただ一点から枝葉や茎を伸ばしている。枝先は勢い良く自然に広がり、リズムをとってそれぞれの高さで向きを変えている。花が顔をよせあっているような花束や無造作に花瓶に入れられた植物とは違って、余計な枝葉を切り落とされた枝と枝、花と葉の間には凛とした緊張感が漂う。少しでも枝や花を傾けてしまったらすべてが狂うほどのぎりぎりの調和だ。
昨日いちはが帰ってからしばらくして、私服姿のメグムが家の中を見回しながら勝手に入ってきた。
「片付いてるね。あの人ちゃんと仕事してるんだ」
困ったように廊下に顔を覗かせたヨシユキに、メグムが自分の背後を指さす。
「ちゃんと玄関から入ったよ。生け花すごいね。あれ俺が持ってきたやつ?」
玄関は施錠してあるので、換気のために開け放してある縁側から先に侵入して玄関に靴を運んだと思われる。溜息をつきながらヨシユキが答える。
「半分はそうですね。枝は庭木の伸びたところを使ったようですよ」
「花束のバラやカスミ草でもああいうの作れるんだ。菊じゃないと駄目だと思ってたよ。着物を着ている人って生け花もできるんだね」
「着物は関係ないでしょう。いちはさんの雇い主の奥様が生け花の先生だそうですよ」
なんのことかと問いたげな顔である。
「いちはさんはそちらのお宅のほうが本業なんですよ」
「家事手伝いの延長みたいなものかと思ってたよ」
自分とかけ離れた境遇を実感を伴って理解できるほどメグムは大人ではない。
「……それは一家の収入を安定して支える父親がいないと成り立たない境遇ですね」
しかしその立派な生け花もいまは主役たる五本の赤いバラが蕾のまま首をたれていた。しなびて花弁の先が黒ずんでいる。一日放置して萎れた花束を、いちはは翌日一本づつ丁寧に水中で切り戻し、深水に浸けて延命処理してくれていたが、それでも切り花のバラの蕾は咲かないものだと、いちはの云った通りだった。あれから一週間。延命処理後に水盤に生けてからは五日だ。
赤、黒、萎んだカスミ草のくすんだ白、枝の灰色、コンクリートのひび割れのような枝ぶり……
ヨシユキはぼそぼそと口で繰り返し、部屋にとって返すとコピー用紙数枚とスケッチブックと水性ボールペンを玄関に持ち込んでその場で立ったままスケッチを始めた。
スケッチブックは画板代わりで、上に載せたコピー用紙に描き込んでいく。
紙の上で花の形は猛スピードで単純な楕円形になり、不等辺三角形になり、カスミ草はドット模様になり、枝は割れた雷のような線になっていく。葉脈は一部でぞっとするほど緻密に描かれ、一方でどこが花かわからないほど単純化されている。
いつだったか着替えを探しに二階へ上がったメグムが、パソコンなどの機材が集められた部屋で拾い上げたA4サイズの用紙に何十パターンも印刷された画像に似ている。
あっという間に描き終えると絵を床に放り、今度は新しい紙に弁当箱の仕切りを複雑にしたような線を描く。そこへ判を捺したように同じ形とサイズのレンギョウの花が、電線に止まる雀のように不規則な配置で描き込まれていく。
それが終わるとまた床に落とし、今度は中央に爪の先程の蕾の横姿を三つ重ねて描いたかと思うと、扇を広げていくように中央の蕾から放射線状に伸びる枝を描き、葉を描き、枯れた花びらを描き、まるで異物を螺旋状に組み合わせて作った大輪の花のようになっていく。
ヨシユキは右へ伸びる枝を描くときも、左へ広がる葉を描くときも、紙の上下を持ち替えることもなく正確にペン先を走らせている。
対象と作業に集中する意識はヨシユキから人間らしさを消し去る。
空洞のような瞳と薄く開いた口元。壊れた機械のように動く手元。ヨシユキは自分が亡くなった父親と同じ表情をしていることに気づかない。
膨大な情報処理から開放され暇を持て余した思考が、自由勝手にヨシユキの中から記憶を拾い上げてはまた深く沈めていく。
「叔父さんの目から見て、母が私を嫌っていた理由はなんでしたか」
「……同族嫌悪だよ」
病室でうつむいていたヨシユキが顔を上げた。
「義姉さんは自分が嫌いなんだよ。自分の容姿も愛想のない性格も大嫌いで、お前が自分に似て生まれてきてしまった。義姉さんのコンプレックスは二倍だ。その上お前は義姉さんの戸惑いも嫌悪も残さず記憶してしまう。兄さんが生きている間は、自分と息子への無条件の愛情が精神安定剤になっていたんだよ。兄さんがいなくなったら……わかるだろう?」
「……単純に私が嫌われているのかと思っていました」
「四歳の子供に嫌うほど中身があるかよ」
「ねえ、ヨシユキさんさー。若さの価値って、なにかあると思わない? 俺が上手く説明できなかっただけで」
「私の答えでいちはさんに云い返されると困ります」
「あるんだ。なになに。云い返さないからさ」
「信用できません」
「ただの知識としてさ」
「……肉体の美しさと健康でしょうね」
畳の上でうなだれるヨシユキが、かたわらでパジャマをバッグに詰めたり下着を数えたりして入院準備を進めている叔父にあたり散らす。
「どうして私で、父で、あなたなんですか。他の何千万人もが発症しない病気にどうして私がなるのですか。私は自分が年寄りになれないなんて考えたこともありませんでした!」
叔父が手を止め蔑むように頬を歪ませた。
「不幸ぶるなよ。お前だけが病気? 他の人は他の病気になるんだ。四百四十万人に一人の病気、十万人に一人の病気、一万人に一人の病気、六千人に一人の病気、十二人に一人の病気……お前が一生耳にすることもない病気も数え上げて全部合わせたら人の数になるんだよ」
「いちはさんはおそらく、叔父が私のために用意した人です」
メグムが視線で意味を問う。
「いちはさんには関係のないことですけどね」
若い母親が乳児の顔を覗き込む。
「この子は世界を愛せるのでしょうか」
乳児を抱く若い父親が答える。
「さあ、どうでしょうか」
「私にそっくりで、きっとあなたの病気も受け継いでしまった。この子に幸せになってほしいと思いますか」
「……いいえ。この子には、自分の幸福と不幸を選ぶ権利があります」
「不幸も権利なのですか?」
「権利です。人は自分を幸福にしたって不幸にしたってかまわない。どうとでも、好きに生きなさい」
さらにスケッチ二枚を描き上げてようやくヨシユキは手を止める。
自分に関係する情報はすべて記憶している。
だがそれらをいくら並べても、自分を描くことだけはできずにいる。
あと2話で完結です。