表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

6/9

6《サエキセツ》

たっぷり叔父さんがでてくる回です。

6《サエキセツ》


「昔、学校帰りに君とよく立ちよった喫茶店があったね。店内のどこも飴色で、薄暗くて、若い人たちなんて入ってなくて、音楽もレトロで。似た雰囲気の喫茶店があってね、入院する前に近所の女の子を誘って入ってみたんだ。思った通りでとても懐かしかったよ」

「私に似た女の子なの?」

「似てないよ。黒髪の美人だ」

「ひどいな、セツ君は。……まあ、面食いじゃないの知ってるから許すけどね。楽しく過ごせたの?」

「僕はね。彼女は眉をひそめてた」

「なにを云ったのよ。そもそもオジサンが若い女の子にどうやって了解もらったの」

「先に何度か声かけて知り合いになっておいた」

「計画的ねえ」


 そんな会話を交わしたアリサトが見舞いから帰るのと入れ違いに、甥が病室に顔を見せた。

 病室のケーキの箱に気がついて、廊下をふり返る。

「いまふくよかな女性とすれ違いましたが、叔父さんのお知り合いでしたか」

「同級生だよ、高校のね。ケーキ貰ったよ、食べな」

 ろくに身体が動かないので、最小限の動作でかたわらの引出しを指差す。フォークはないが、皿と割り箸が入っている。

 割り箸を咥えケーキに手を伸ばしながら何か云いたげにこちらを見てきた。

「どうした」

「叔父さんが親しくする女性にまったく共通性がないので、何故かと思いまして」

「うん?」

「私の母はガリガリに痩せいててソバカスで目も細く神経質な人です。いちはさんは普通に若くてきれいな女性ですし、さっきの女性は大福餅に似た巨体の大らかそうな人でしたね。近所のお婆さんやおばさんたちとも仲が良いですし……」

「お前の母親を選んだのはお前の父親だろ」

「叔父さんも私の母のことを好きじゃないですか」

「尊敬だよ。……まあ、いちはちゃんに関してはお前のために声をかけたようなものだけどな」

 いちはさんを外したら残りの女性が……とつぶやいた甥が沈黙し、ものすごくなにか云いたげにこちらを見てきた。



 その頃、僕が通っていた高校からの帰り道には、近所のおじさんやおばさんが好んで集まるような、少し薄暗くて画一的なテーブルが並ぶ喫茶店があって、自転車通学の僕とアリサトは、時々一緒に帰っては立ちよってじつに他愛のない話をした。

 アリサトは僕のクラスメイトでフルネームをアリサトユリと云った。漢字で書くと「有里有里」となり、ミスタイプをしたように苗字と名前がくり返される。この奇妙な氏名は彼女が小学校に入学した年に、母親の再婚によって完成したという話だ。アリサトはからかわれやすい自分の氏名を、母親の考えのなさのせいだと迷惑そうに話すが、僕は幼い娘を抱えて経済的な不安の中で離婚した彼女の母親が、娘と同じ名の男と出会って、ただの偶然だと理性で首を横にふりながらも、運命ではないかと心ひかれた日々を想像する。

 それはともかく、高校生の僕とアリサトは、緑のまぶしい初夏の日ざしを逃れてひんやりとした琥珀色の空気の喫茶店内に入った。アリサトは店の奥でテーブルを挟んで僕の向かいに座り、方形の透き通った氷が浮かぶグラスをあおって水を一気に飲み干した。アリサトの鏡餅のような曲線を描く白いのどが、僕の前で音をたてて上下する。その様子をしげしげと眺めた。

 アリサトは贅肉の動きをおもしろがる僕の視線を知りながらも、気にとめない。半年が経つ友人付き合いで、アリサトは僕が遠慮のないことをしても、そこに自分への侮蔑や嫌悪が存在しないことを承知しているのだ。かまわず自分の鞄をなにやらゴソゴソと探っている。教科書や筆記用具の入った、学校指定の青いナイロン製の鞄だ。色も素材も正方形に近い形も、生徒にはすこぶる評判が悪い。 やがてアリサトはノートと教科書の隙間から、ポケットティッシュくらいのサイズの水色のパックを鞄から取りだした。

「なに、それ」

 初めて見るものに目をとめて僕が尋ねると、アリサトが「パウダーシート」と答えた。最近発売された汗を拭きとるためのシートなのだそうだ。パックの中央に貼られたシールをめくるとだ円形の穴が現れ、そこからポケットティッシュと同じように中身が取りだせるらしい。シートには化粧水を染み込ませてあると云う。

「ふうん? 使い心地いい?」

「いいよ。制汗スプレーみたいにむせないから好き」

 たっぷりとした首の肉の間をぬぐったアリサトは、使い終えた一枚をテーブルの端に置くと、新しい一枚をとりだした。

「ほら」

 僕にさしだされた一枚を受け取って首の汗を拭ってみると、シャンプーのような人工的な花の香りを感じたが、香料は花ではなくミントだという。

 しばらくすると首筋がすっと涼しくなる。ミントの効果か。触れると、さっきまでベタついていた首筋が感動的に指を滑らせる。

「すげえ」

 手放しで感嘆すると、アリサトは豊かな頬肉で目尻を押しあげて、自分の手柄のようににんまりと笑った。

「ね、いいでしょ」

 ちょっとその辺りにはないインパクトだった。


 アリサトはクラスで一番太った女子だ。色が白くて、頬にも二の腕にもふくらはぎにもあり余る肉がある。男子はたいてい白ブタと陰口を叩いた。口の悪い女子は普通にブスとかデブとか。正面切ってそう呼ぶ人間はいなかったが、それでもアリサトが人気のない女の子であることは変わりない。アリサトの数少ない友人は隣のクラスにいて、同じ教室の中で話ができるのは僕くらいのものだと云っていた。

 あるときクラスメイトの女子の一人が僕に尋ねた。

「セツ君、どうしてアリサトさんなんかと親しくしてるの?」

 当時、馬鹿話で笑いあえる程度に仲の良かったその女子は、休憩時間にアリサトがトイレに立ったことを確認してから僕の席に近よった。

「うん? 話とか合うから」

 僕の返事が集合の合図になったかのように、目線を交わし合った周囲の女子が、いそいそと僕の周りに集まった。男女関係なく誰とでも気軽に言葉を交わす僕は、クラスの中ではそれなりに人気者だった。

 数人が僕を囲んだところで、最初に質問した女子が上目づかいに甘えた声をだした。

「ええー? アリサトさんとなんの話ししてるのう」

「本の話。カミュとかダザイオサムとか」

 愛想よく返した僕に、相手はちょっと真面目になって尋ねた。

「……それってどこかの国の歌手?」

 心で拍手。さすが県内最低偏差値の高等学校の生徒。いっそ気持ちがよいほどの知識の空白。僕は、気にしなくていいよ、という顔で「違うよ」と否定する。

 隣にいた女子が質問した女子を「バカ」と肘で小突いた。

「本の話だってサエキ君が云ったでしょ」

 他の女子も次々と会話に加わる。

「現国の授業で暗記させられたじゃん。本書いた人だよ。ねえ?」

「アタシ、全然知らない」

「そんな話、アリサトさんとしてんの?」

 してるよ、と答えた僕にクラスで一番気の強い女子が云った。

「もったいないよ、セツ君ならもっといい子がいるじゃん」

 僕は人当たりの良い笑顔で誤魔化して、コメントしなかった。僕への高評価をありがとう。しかしアリサトくらいなのだ。


「……葛飾北斎の漫画って面白いよね」

 レモンティーの氷をストローでかき交ぜながら頬杖をつく僕が切りだすと、アリサトは目を丸くした。

「唐突だね、いつも」

 びっくりして普段より高くなる、ひよこのような声が可愛い。彼女が唯一胸をはれるだろう、女性的な魅力。

「うん、唐突に思いだしたから」

 キミの顎の肉を見ていたら、と正直に告白するのは遠慮した。江戸時代の化政文化を代表する浮世絵師の一人、葛飾北斎が描いた北斎漫画には、痩せた人たちと太った人たちのスケッチがユーモラスに含まれる。こんな話を不意に始めて意味が通じる相手は、学校内ではおそらく彼女だけなのだ。

「セツ君って、葛飾北斎好きだっけ」

 彼女のとろんと気配が変化した瞳に歪んだ満足感がにじむ。彼女は彼女をあなどるクラスメイトの女子たちに対して、自分が僕の話題についてこられることに誇りを感じている。

「僕は絵だったら、なんでも興味が向くんだ」

 アリサトはぴょこんと背筋を伸ばして、思いだしたように云った。

「ああ、セツ君のお父さんって画家なんだっけ」

「うん、日本画家の佐伯房雪」

「セツ君も絵、上手いよね」

 美術の授業の様子でも思いだしたのか、アリサトはさっさと納得して続けた。

「うちの学校の中じゃセツ君は勉強もできるほうだし、美術系の学校に行けば良かったのに」

 こんなときのやりとりは、アリサトもクラスの女子も大差がない。もしアリサトがいまよりわずかに容姿に恵まれて、自分の好みの知識や興味の偏りをわずかに抑えられていたなら、幸福なその他大勢になっていたのだろう。

 僕はくつろいだ顔の横で、ひらひらと手首を動かす。

「ムリムリ。本当に上手い人が側にいると、わかっちゃうもんなんだよ。自分に才能があるかどうか」

「……なんか、それってモーツァルトの映画みたいだねえ。お父さんへのコンプレックスある?」

 この間、音楽の時間に鑑賞させられた「アマデウス」のことを云っているらしい。天才の側で打ちのめされる宮廷音楽家の物語。

「どちらかって云うと、兄さんへかな」

「お兄さんも絵が上手いの?」

「上手いなんてもんじゃない。存在しない生物を鱗やうぶ毛まで信じられないくらいにリアルに表現するし、描こうと思えば写真より正確に描ける腕だよ。……あれは記憶力が異常なんだ。それに……」

 僕は気安く付き合えるアリサトを気に入っていた。なにかのはずみで怒らせて関係が壊れることがあっても、おとなしい性格の彼女が仕返しをすることは考えられなかったし、彼女を傷つけたところで周囲からは非難を受けず、またこちらの胸も痛まないという、完全に不利益の生じない相手だったからだ。

 加えて僕は卑屈なところを抱えた人間が好きだった。自分が卑屈なところのある人間だからだろうか。理解ができて扱いやすい。こちらが強気ででればひっこんでくれるし、やさしくしてみせると簡単になびく。調子に乗られると鬱陶しいが、見放しても周囲から同情されるのは間違いなく僕だ。

 僕は自分が男子にとって気軽に遊びに誘える手頃な存在であるように、女子にとってもまた手頃な恋愛対象だということを知っていた。声をかけやすくて、そこそこ顔が良くて、そこそこ話しが面白くて、自分よりわずかに高い位置にいて、手を伸ばせば簡単に届くような相手。

 もしこの世界に非の打ち所のない人格者が存在したら、側にいる人間はコンプレックスを刺激されて敬遠してしまうだろう。それはきっと外見であっても同じこと。完璧な美形というものは拒絶される。さらにそこに冴え渡った頭脳が加わるなら、ますます人は遠ざかる。

 ……僕の兄のように。

「お兄さんは天才肌なの?」

 たわいない質問を受けて、僕は我に返る。

「……まあ、そうだね」

 へつらいはあっても悪意のないアリサトのつぶらな瞳は、見すえると吸い込まれるような気分になる。ぼんやりと僕は彼女を疑う。アリサトは心ない僕を知っているのかもしれない。笑顔のまま他人を軽蔑し、愛想よく他人を拒絶する僕。激しい憎しみを軽口で誤魔化す僕。

 でも知っていたところで、アリサトがそれを暴くことはない。僕のために。僕と自分との関係のために。僕と自分の関係を他の女子へ見せびらかす優越感のために。

 アリサトには僕との友人関係が、学校生活を送るためのひとつの心の支えなのだから。 僕は嘘とも本当ともつかない言葉をアリサトに贈る。

「ありがとう。こんな話しができるのはアリサトだけだから楽しいな」



 楽しいな、というつぶやきで四日ぶりの甥との談笑をしめくくると、ヨシユキの叔父は起こしていた上半身を病院のベッドに沈めた。今日はもう話し疲れたということらしい。

「眠りますか?」

「うん」

 腰を滑らせるように身体をずらしたので、叔父の髪は枕の膨らみにそって頭の上へ流れた。それを直しもしないで無邪気な子供のように目を閉じた。

 ヨシユキはベッド脇の折り畳み椅子から腰を浮かせ、空になったケーキの箱を潰して紙皿と共にゴミ箱に入れる。二人の他に人のいない個室に椅子の接続部が軋む音が響いた。

「では、私は帰りますよ」

 甥が声をかけると、目を閉じたまま叔父が送りだす。

「うん、気をつけてお帰り」

 ヨシユキはそのまま立ち去ろうとして思い直し、中腰の姿勢でふり向いた。

「叔父さん」

「うん?」

「これがあなたから話しを聞く最後の機会かもしれないので聞いておきますが」

「なんだい、思いやりのない言葉だね」

 相手はまぶたを下ろしたまま可笑しそうだった。

 自宅に座布団をひいて来訪を待つがごとく、目の前に決定されている死の存在を二人は誤魔化す気がない。

「本当に楽しかったのですか、いつも」

 普段は叔父に対して、努めて冷徹な口調を作っているヨシユキの声が沈んだ。

「なんのことだい?」

「あなたはよく、楽しいね、と云う言葉を使っていましたが、それは事実だったのかと尋ねています」

「うん?」

「私が子供の頃からあなたは楽しげに可愛らしくそれを口にしてきましたが、考えてみれば楽しさというものは、感じている瞬間はそうと認識されないものではありませんか。ただ心を包むようなものであって、思わず相手に告げてしまうような衝動ではありません。例えるなら、おいしい、という言葉が味わっている自分のためのものではなく、他人へ聞かせるためのものであるように」

 叔父が溜め息と共に感想をもらす。

「お前は相変わらず、妙なことを真剣に考えるねえ。どんな不安があると云うんだい? 僕はお前とずっと一緒にいたよ。その間に話したこと、してやったこと、それがすべてだ。仮に僕が最後にお前を大嫌いだと云ったところで、それともこの上なく愛していたと云ったところで、お前と過ごした日々がひっくり返ることなんて、ないんだよ」」

 ヨシユキは困ったような途方に暮れたような顔になって、笑顔を崩さない叔父を凝視する。

「あなたは些細な嘘を上手につくから、私には真実がわからない」

 叔父がぱちりと両目を開けた。いとおしむように、あきれるように甥を映した瞳を細める。

「お前の口から、僕に対して可愛らしいなんて表現を聞くとは思わなかったよ」

「口が裂けても云いたくはありませんでしたが仕方がないでしょう。他に云い表せる言葉を思いつかなかったのですから」

「人好きのする、とか云えば良いんじゃないか?」

 ヨシユキはげんなりとした。

「自覚があるということは、やはり演技なのですね」

「どうだろうねえ。僕は嘘で人格を固めてきたようなものだからね。実際感じていることでも、感じているように見せかけたことでも、同じようなものなんだよ」

「なんですか、その最悪な告白は」

 軽蔑のまなざしを受けて、叔父は顔の中心に皺をよせて破顔する。ヨシユキが見慣れたその表情は、からっと晴れた青空に似て、感情の曇りが見つけられない。人生に一片の後悔もないと宣言するような自信に満ちている。

「考えてみろよ、ヨシユキ。トータルなんだよ、人間の気持ちなんてものは。自分の言動の先にある相手の反応に合わせて感情を調整する。自分の内側にある複数の感情を比較して組み合わせて作りだした選択肢から、自分がどうするか選んでいる。誰だってとっさに判断しているんだよ、泣くか怒るかとかさ。要するに、僕が楽しいと云ったなら、楽しかったということだよ」

 納得しきれない、納得したくないという気持ちで見下ろすヨシユキを、叔父はからかうように追い立てた。

「ほら、もう話すことはないだろ。お行き」

 野良犬でも払うように手をふられ、しぶしぶと背を向けたヨシユキに、叔父はまるで運動会の開会式で宣誓でもするようにベッドに身体を横たえたまま右腕をまっすぐに耳の横につけると、芝居がかった口調で言葉を贈った。

「嘘と誤魔化しばかりの人生でした。しかし愛情も本物でした。後悔はしていません」








評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ