5《叔父》
書いてる人間が一番好きな『叔父』さんの登場回です。(〃'∇'〃)
区切りの関係で今回少し短めですが、全体としては予定より後半の話が膨らんでます。
5《叔父》
「義姉さんを、恨むんじゃないよ」
四歳のヨシユキがそれまでほとんど面識のなかった叔父にひきとられたとき、叔父は何かにつけてそう云った。独身で定職もない二十六歳の男に相応しい、歌うような軽い調子であった。
「義姉さんは尊敬に値する人だよ。なにしろ、あの兄さんと結婚して、お前という子供まで産んだんだから」
初めてそのフレーズを聞かされたのは、レジ袋を抱えて叔父の背を追うように山の坂道を登っていたときだった。叔父の家から二番目に近いスーパーマーケットに行くには、家の前のゆるやかで長い坂道を登ってトンネルを抜け、また同じくらい下らなければならないのだが、その帰り道であった。
幼児の足には厳しいその道のりを歩かせたのは、住むことになった家の周囲の地形と地理を手早く私に覚えさせるためだったのだろう。父の弟だった人は、私のことはよく知らずとも私のような子供の扱いはわかっていた。
中途半端に田舎な地方都市のことで、片側一車線の道路の端は鬱蒼とした樹木が空まで伸びており、反対側は崖になっていた。ガードレールの下は低木の茂みで、ガードレールが途切れたところに潰れているのか営業しているのかわからない飲食店が二軒ある。
開けているので眼下に山裾、緑の水田に民家や小さな会社らしき建物がまばらに入り交じった景色が平らに続いていた。どこを見ても景色の終わりに緑豊かな山がある。
ヨシユキの小さな身体は豆腐やモヤシやウィンナーの重さと戦いつつ、数歩先を行く叔父に遅れまいと必死だった。息切れしながら舌っ足らずに質問する。
「ネエサン、ってダレですか」
叔父は両手に合計三つの買い物袋を提げ、肩越しに甥を一瞥した。
「お前の母親のことだよ」
父と母と幼稚園だけの小さな世界で育んだ未だ偏った知識を、父譲りの広大な脳容量でいっぱいに巡らせた幼児は疑問符をたくさん顔に貼り付けた。
「……私のハハオヤの名はネエサンではありまセン」
あどけない主張を叔父は片頬をゆがめて容赦なく嘲った。
叔父の後ろで空が抜けるように青かった。
「馬鹿だね。お前にとっては母親でも、僕にとったら義理の姉なんだよ。お前の父親は僕には血を分けた兄だ。だから僕が義姉さんと云ったらお前の母親のことで、兄さんと云ったらお前の父親のことだ」
そもそも自分の母親を叔父がアネと呼ぶ理屈を理解していない幼児に、義理だの血を分けた関係だのがわかるはずもない。それを一切説明せずに押しつけた。
「理解しろよ? 面倒だから。僕はお前に合わせてやらないからな」
たとえば中学生や高校生が友人に向ける言葉だったなら許せもしよう。しかし相手は四歳の甥だ。いま思い返してもありえない叔父の態度だったと、現在二十三歳のヨシユキは思う。
加えて四歳のヨシユキに、叔父の口調は粗野で聞きとりにくいものだった。ヨシユキの両親は丁寧語を日常使いしていたのだ。
幼稚園から帰るなり父の脚に飛びついて疑問をぶつけたことがあった。
「お父さん、私の話し方がヘンだと幼稚園で他の子が云うんデス。私は他の子と同じ言葉を使ったほうがイイんでしょうか」
イーゼルの前に立ち木炭を握っていた父は、ヨシユキの腕をとるとゆっくり屈んで子供に視線の高さを合せた。
「ユノは他の子供と同じ言葉を使いたいのですか」
彫刻のように容貌の整った人だった。穏やかで表情少ない父の美貌は、間違で見ても欠陥が見当たらず、静かな迫力でそう問い返されて、つい目を逸した。
「……わかりまセン」
ヨシユキの父は息子のことを「ユノ」と呼んだ。漢字で「由之」と表記するヨシユキの名を読み替えたものだ。
ユノとはギリシャ神話の全知全能の神ゼウスの妻として有名なヘラのローマ名である。嫉妬深いことで知られた女神はしかし、ゼウスに最も愛された最高位の女神でもある。他人に理解され難い孤独な芸術家だった父にとって、雑誌の企画をきっかけに出会った年上の女編集者は、やがて自分を理解し支えることになった女神に等しい存在だった。
その出会いの喜びと感謝を、彼は妻そっくりの容貌で生まれた息子に名として与えたのだ。
「そうですか。ユノがいま使っている言葉は、やがて大人になれば皆が使うことになる言葉です。お母さんが仕事で使っている言葉です。いつかは覚えなくてはならないのですから、私は初めから覚えておくのも良いと思いますよ。どちらを選ぶかはあなたが決めなさい」
あれはもう、最後の方の父との記憶だ。
そう云えば叔父は私の言葉を一度も変だと云わない。自分は幼稚園の先生や他の子供たちのような言葉をつかうのに。
じっと叔父の後頭部を見つめる。
「叔父さん」
「うん?」
「叔父さんも、あまりお父さんに似ていまセンね」
叔父はしばらく押し黙ると、険のある声で云った。
「親子で同じ話が好きだね。なんでお前も義姉さんも兄さんが世界の中心かな」
数台の自動車が距離のある坂を登り切るために乱暴な風を起こして二人の横を通り過ぎていく。松や樫などの枝が震える。
人通りがないわけではないのに、人の姿が遠い田舎の風景。空気が温度を変えたのは、ヨシユキが叔父の感情の変化を感じとったためだろう。
登り坂はうんざりするほど長く続き、ようやくトンネルを越えても、また長く長く下る。幼児の足が疲れ果てる、そのゆるやかな坂の終わり近くに、一人暮しの叔父の家が建つ。数年前に親戚から中古で買い取ったという、どこと云って特徴のない周囲に馴染んだ庭付きの一軒家。昨日からそこがヨシユキの家だった。
買出しの荷物を冷蔵庫の横に置く頃には、いくらか機嫌を直した叔父が話し始めた。
「すごいよ、義姉さんは。僕がもし女だったら、兄さんなんかと結婚しようなんて、絶対に思わない。ありえない」
云いながら牛乳や卵を冷蔵庫の棚に片付けていく。
尊敬する父親をなにやら悪く評価されて、ヨシユキに反抗心が芽生える。
「私のチチはやさしい人でしタヨ?」
積極的に子供に関わっていく人ではなかった。かといって冷たく拒絶されたこともない。疑問を口に出せば、その場でなんでも事細かくどこまでも根気よく説明してくれた。
そして油絵を描くときには何度かヨシユキを膝に抱き上げて、ときには絵筆を一緒ににぎらせてくれたのだ。
「ふうん?」
「ハハも、チチがとても好きでした」
物思いに耽っているか絵を描いていることが多く、子供も大人のように扱う人だった父親を、陶酔するように見つめていた母親。病気で父親が亡くなるとすぐにヨシユキを叔父へ押しつけた女性ではあったが、父親が生きていた間はやさしかった。
「すごいな、そりゃ!」
弾ける笑い声がヨシユキにはひどく耳障りだった。
一緒に暮らすようになった叔父には母を持ちあげる言動が多かったため、幼いヨシユキは叔父が母に恋しているのではないかと疑った。
しかしすぐに勘違いだとわかった。勘違いだとわかる言動を叔父はした。
「お前のやっかいな癖毛は誰に似たんだろうねえ。義姉さんじゃないね。義姉さんは地味なブスだけど、髪だけはまっすぐできれいな薄茶色だったのに」
手作りの昼食をテーブルにならべ終えた直後のエプロン姿で、叔父は床で積み木遊びをするヨシユキの後ろを通りがかって腰を屈めた。後頭部をしげしげと眺めている。
ヨシユキはあ然として叔父を見上げた。
「……ヒトのハハオヤを、地味なブス、とはあんまりじゃないですか」
自分を嫌って遠ざけた人間でも母親だった。もちろんショックを受けた。
叔父はかまわず、ヨシユキの癖毛をつまみあげた。
「ブスはブスだろ。義姉さんを見て、美人だなんて誰も思わない。……まあ、目立つブスじゃなかっただけましだよね。目は細いし、唇は薄いし、顔はそばかすだらけでがりがりに痩せてて。色白って云っても、肌のつやは全然ないし。……それより、お前の髪の話だよ。死んだうちの父さんに似たのかな。兄さんや僕のとも違うね。兄さんは異常にきれいな顔をしてたけど、顔は似ないで義姉さんにそっくりかあ……。お前は両親の悪い所どりだね」
ヨシユキの叔父はなんというか、容赦のない人だった。悪気はないようでもあり、すべてにあえて無神経にしているようなところもあった。
記憶力の良すぎるヨシユキを、叔父は皮肉げに片頬を歪めて「厄介な子だね」と云ったものだが、母は「気持ち悪い」と云って薄い唇を震わせていた。他人が聞けば同じだろうが、ヨシユキははっきりと、そこにあるものとないものを感じる。
皮肉と愛情と軽蔑と親しみ。それが叔父が持っていたもの。
次回も叔父さんのターンです。